君がくれた空白、僕が還る場所

君がくれた空白、僕が還る場所

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第一章 死者の雨と止まった秒針

心臓が、握りつぶされた。

唐突な暴力だった。

「が、はっ……!」

喉の奥から空気が漏れる。

視界がスパークし、左腕の感覚が消失する。

脂汗が噴き出し、アスファルトに叩きつけられるような衝撃が全身を走った。

違う。

俺じゃない。

俺の心臓は動いている。

これは、今この瞬間、どこかの誰かが味わっている断末魔だ。

「くそ、ッ……」

洗面台にしがみつく。

鏡に映る男は、まだ二十八歳のはずなのに、もう何十年も眠っていない亡霊のような顔をしている。天野悠。それが俺の名前だということも、最近ではあやふやになりつつある。

誰かの「死」が、汚水のように脳内へ逆流してくる。

焼けるような胸の痛み。

薄れゆく意識の端で、誰かの名前を呼ぶ絶望的な後悔。

その生々しい感覚が、俺の神経をやすりで削っていく。

五分、あるいは一時間。

永遠にも思える発作が過ぎ去ると、俺は床に崩れ落ちた。

「……また、近づいた」

荒い呼吸を繰り返しながら、胸ポケットから懐中時計を取り出す。

古びた真鍮の手巻き式。

ガラスには無数の傷。

針は10時10分で止まっている。

あの日、月城紗希が忽然と姿を消した時刻。

『ねえ、悠くん』

ふと、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

バニラと、微かな整髪料の香り。

紗希がいつもつけていた、あの匂いだ。

『この時計がね、迷子の悠くんを見つけてくれるから』

彼女の細い指が、俺の掌に時計を包み込ませた感触。

体温が、皮膚を通して伝わってくる。

その温もりがあまりに鮮明で、俺は思わず振り返った。

「紗希……?」

誰もいない。

殺風景なワンルーム。

埃が光の中で舞っているだけだ。

だが、手の中の時計が熱を帯びていた。

まるで生き物のように脈打ち、俺の掌を灼く。

ジジッ。

微かな音。

秒針が動いた。

一目盛りだけ、左へ。

逆回転。

時計が震えている。

まるで磁石に吸い寄せられる方位磁針のように、ある一点を指し示そうとしてあがいている。

俺はふらつく足で立ち上がり、窓を開けた。

突き抜けるような青空。

だが、俺の鼻には、相変わらず生臭い雨の匂いがこびりついている。

時計を掲げる。

秒針が狂ったように振動し、街の北側――開発地区の廃墟群を指して静止した。

あそこか。

あそこに、紗希の匂いがある。

「……行くよ」

俺は上着を掴んだ。

恐怖はない。

ただ、心臓の裏側にこびりついた「他人の死」の記憶を、早く洗い流したかった。

たとえその先に、俺自身の終わりが待っていたとしても。

第二章 侵食する白

廃ビルは、巨大な墓標のようだった。

かつてデパートだったというその残骸は、鉄骨を剥き出しにして、都市の風に晒されている。

三階フロア。

足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

カビと埃の匂いが消える。

代わりに満ちたのは、あの懐かしいバニラの香り。

そして、日向の匂いだ。

「ここなんだな」

俺はフロアの中央に進み出る。

壁も窓もない、コンクリートの広間。

だが、時計の針はここを示している。

秒針は今や、目に見える速度で左へと回転を始めていた。

俺は膝をつき、冷たい床に掌を押し当てた。

目を閉じる。

意識を、コンクリートの下、もっと深く、時間の澱のような場所へ沈めていく。

(紗希……)

呼びかける。

その瞬間、視界が白く弾けた。

『悠くん』

鈴を転がすような笑い声。

俺の頬に触れる、ひんやりとした掌。

髪を乾かすドライヤーの音。

朝、コーヒーを淹れるコポコポという音。

眠る俺の額に、そっと落とされるキスの感触。

記憶の奔流。

だが、それは映像ではない。

「五感」そのものが、雪崩のように押し寄せてくる。

愛おしい。

泣きたくなるほど、愛おしい。

それなのに。

「う、あ……ッ!?」

頭蓋骨がきしむ音がした。

記憶が、喰われる。

紗希の感触が入ってくるたびに、俺の中の何かが押し出されていく。

昨日の夕飯。

職場の同僚の顔。

小学校の校歌。

母親の、声。

ボロボロと崩れ落ちていく。

俺という人間を形作っていた煉瓦が、一つ、また一つと引き抜かれていく感覚。

(待て……持っていくな……!)

抵抗しようとした。

だが、その「白」は、あまりにも優しく、抗いがたい引力を持っていた。

母親の胎内のような、絶対的な安息。

『もう、いいんだよ』

誰かの声がした。

紗希じゃない。

もっと幼い、聞き覚えのある声。

目を開けると、廃ビルは消え失せていた。

そこは、どこまでも続く真っ白な空間だった。

上も下もない。

ただ、圧倒的な光と、空白だけがある世界。

俺の目の前に、一人の少年が立っていた。

ボーダーのシャツに、擦りむいた膝。

右手に、泥だらけのサッカーボールを抱えている。

少年は、俺の顔を覗き込んで微笑んだ。

鏡を見るよりも懐かしい。

色褪せたアルバムの中でしか会えなかった、かつての俺自身。

「おかえり」

少年が言った。

「ずっと待ってたんだ。君が、全部置いてくるのを」

第三章 逆回転する運命

「……俺は、紗希を探しに来たんだ」

声が出たことに驚く。

だが、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。

「紗希お姉ちゃんなら、そこにいるよ」

少年が指差す。

そこには何もなかった。

ただ、白い光が揺らめいているだけだ。

いや、違う。

その光そのものが、匂いを発している。

あのバニラの香り。

そして、俺を包み込むような温もり。

「この場所ぜんぶが、お姉ちゃんなんだ」

少年はボールを足元に転がした。

「君が外の世界で傷つかないように、お姉ちゃんは壁になったんだよ。君が背負い込んだたくさんの死体が、ここに入ってこられないように」

俺は足元を見た。

俺の体から、黒い泥のようなものが滴り落ちている。

今まで吸収してきた「他人の死」だ。

それらが、白い床に触れた瞬間、ジュッという音を立てて蒸発していく。

浄化。

あるいは、消去。

「でもね、もう限界なんだ」

少年が俺の手を取った。

小さな手。

柔らかくて、温かい。

「君は、壊れすぎちゃった。ツギハギだらけで、もう元の形を保てない」

俺は自分の右腕を見た。

指先から、輪郭がぼやけ始めている。

光の粒子となって、サラサラと崩れていく。

痛みはなかった。

むしろ、重たい鎖から解放されるような、心地よい浮遊感があった。

「俺は……死ぬのか?」

「ううん。戻るだけ」

少年は無邪気に笑い、俺の懐中時計を指差した。

時計の針は、猛烈な勢いで逆回転していた。

10時、9時、8時。

昨日、一昨日、一年前。

時間が巻き戻されていく。

「君が大人になってから背負った荷物を、全部ここに置いていくんだ。悲しみも、苦しみも、誰かを殺したような罪悪感も」

「……紗希の記憶も?」

喉が詰まった。

それだけは、手放したくない。

彼女がいた証。

彼女を愛した記憶。

「持っていけないよ」

少年は首を振った。

残酷なほど、静かな声だった。

「だって、これから行くのは『はじまり』の時間だから。君がまだ、誰も愛さず、誰にも傷つけられていなかった頃」

時計の針が、0時0分に近づいていく。

カチ、カチ、カチ。

その音が、俺の鼓動と重なる。

俺は崩れゆく両手で、虚空を抱きしめた。

そこにあるはずの、紗希の温もりを求めて。

『……おやすみ』

耳元で、彼女の声がした気がした。

吐息がかかる距離。

涙が出るほど優しい響き。

そうか。

これは救済なんかじゃない。

もっと残酷で、もっと甘美な「初期化」だ。

俺が生き続けることで、俺は化物になり、世界を呪う。

それを止めるために、紗希はこの白い棺を用意した。

俺を、無垢な子供に戻すために。

「……そっか」

力が抜けた。

抵抗する気は起きなかった。

疲れ果てていたのだ。

毎晩、他人の死に怯え、嘔吐し、震える日々に。

「こっちだよ」

少年が手招きする。

その背後には、懐かしい実家の扉が見えた。

夕飯の匂いがする。

まだ誰も死んでいない、完璧な食卓。

俺は一歩、踏み出した。

足が光に溶ける。

腰が溶ける。

名前が、溶ける。

天野悠という男の人生が、白いキャンバスに塗り潰されていく。

最後に残ったのは、感謝だけだった。

あるいは、愛と呼ぶべき祈り。

ありがとう。

さようなら。

俺の意識は、白の中に吸い込まれ――そして、心地よい闇に落ちた。

終章 空白のあとがき

廃ビルの三階。

警察が踏み込んだ時、そこには誰もいなかった。

「……奇妙だな」

年配の刑事が、煙草の煙を吐き出した。

外は突き抜けるような晴天だ。

だが、このフロアの中心だけ、なぜか気温が低い。

まるで、ここだけ時間が止まっているかのように、ひんやりと静まり返っている。

「何もありませんね。遺留品も、痕跡も」

若い警官が、埃っぽい床を見回して首を振る。

だが、彼らの足元には、一冊のノートが落ちていた。

「これは?」

警官が拾い上げる。

表紙のない、古びた大学ノート。

ページをめくる。

白紙だ。

最初から最後まで、何も書かれていない。

「ただのゴミですか」

警官が放り投げようとした時、ノートから何かが滑り落ちた。

チャリ、と硬質な音が響く。

それは、銀色の懐中時計だった。

文字盤のガラスはひび割れ、ひどく古びている。

「止まってますね」

警官が呟く。

針は、12時ちょうどを指して微動だにしない。

始まりの時刻か、終わりの時刻か。

刑事はふと、窓の外を見た。

コンクリートの割れ目から、一輪の白い花が咲いているのが見えた。

風もないのに、その花だけが小さく揺れている。

まるで、見えない誰かに手を振るように。

「……行くぞ」

「は、はい。結局、失踪した天野という男は……?」

「神隠し、ってやつかもな」

刑事は背を向けた。

その背中を、白い静寂だけが見送っていた。

廃ビルの中、誰もいなくなった空間で。

置き去りにされた時計の秒針は、二度と動くことはない。

世界は回り続ける。

一人の男と、彼を愛した女の記憶を、真っ白な余白に変えて。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
天野悠は他者の「死」を追体験する苦痛から逃れたいと切望する。恋人・紗希は、そんな彼を究極の愛で救うため、自身の存在を捧げ「空白の場所」を創造。悠の人生を「初期化」し、苦しみから解放する道を選ぶ。悠もまた、その甘美な初期化を受け入れ、安息を見出す。彼の選択は、絶望と救済の狭間にある究極の決断だ。

**伏線の解説**
冒頭の「他者の死」の追体験は悠の苦しみの根源。止まっていた懐中時計が廃ビルで「逆回転」を始めるのは、悠の人生が巻き戻され「初期化」されることの明確な暗示だ。紗希の「バニラの香り」は彼女の存在の痕跡であり、白い空間そのものが彼女の愛の結晶である伏線。ラストの白紙のノートは、悠の人生が「空白」に戻った最終象徴である。

**テーマ**
この物語は、究極の苦しみからの「救済」が、時に自己の記憶やアイデンティティの「喪失」という代償を伴う、甘美で残酷なテーマを問う。愛するがゆえに、相手を「無垢な状態」へ還す、究極の愛の形と、時間の逆行による「初期化」という哲学的な問いが深く描かれる。記憶を消去して得られる安息と、存在意義の消失は読者に深い問いを投げかける。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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