第一章 腐食する境界
腐った魚の内臓を、真夏のコンクリートにぶち撒けたような臭い。
俺、霧谷零は口元をハンカチで覆い、錆びついた手すりを握りしめた。
「……おい、零。あそこの婆さん、またおかしくなってるぞ」
漁師の男が声をかけてくる。
俺は無視して足を速めた。
直視したくない。
男の肩に、赤ん坊ほどもある巨大なナメクジが張り付いているのを。
半透明の粘液が男の耳朶を伝い、襟元を濡らしている。
男が口を開くたび、ナメクジはごぼりと泡を吹き、その湿った腹を震わせた。
この町では、人の「負の感情」が質量を持つ。
俺には、それが見えてしまう。
「相変わらず愛想がねえな、気味の悪い野郎だ」
男の悪態と共に、ナメクジがびくりと膨張した。
ぬらりとした触角が、鞭のように俺の背中へ伸びてくる。
ぞわり、と肌が粟立った。
俺は逃げるように路地裏へ駆け込んだ。
石壁に背を預け、荒い息を吐く。
心臓が早鐘を打っている。
ポケットから、祖父の遺品である日記を取り出した。
『潮風町の灯台守の日記』
普段はただの古びた紙束だ。だが、今は違う。
表紙が熱を帯び、脈打っている。
「……始まったのか」
ページを開く。
文字ではない。
紙の繊維が血管のように浮き上がり、赤黒いシミとなって言葉を形成していく。
『境界が溶ける。過去が溢れ出す』
その直後だった。
視界の端で、レンガ造りの壁がドロリと溶解した。
溶けた壁の向こうに、セピア色の風景が透けて見える。
今はもう取り壊されたはずの駄菓子屋。
子供たちの影。
だが、その映像はノイズ走ったテレビ画面のように激しく乱れている。
「きゃああああ!」
「なんだこれ、地面が!」
通りから悲鳴が上がった。
足元のアスファルトが軟泥のように沈み込む。
マンホールの穴から、白濁した霧が、いや、もっと粘着質な「煙」が噴き出していた。
煙は生物のようにうねり、通りを歩く人々の足首に絡みつく。
『……あそぼ……ねえ……あそぼ……』
耳鳴りではない。
頭蓋骨の内側に直接響く、無数の子供の声。
煙の奥から、ゆらりと人影が現れた。
ずぶ濡れのセーラー服。
数十年前に神隠しにあった、隣家の娘だ。
「零くん……やっと、見つけた」
彼女の顔には、目も鼻もなかった。
ただ、口だけが耳まで裂け、そこから黒いタールのような液体を垂れ流している。
「ひっ……!」
喉の奥から短い悲鳴が漏れた。
彼女が手を伸ばす。
その指先が触れた電柱が、瞬時に錆びつき、崩れ落ちた。
俺は日記を握りしめ、無様に転がりながら背を向けた。
走れ。
思考するな。
捕まれば、終わる。
現実が、過去の悪夢に塗り替えられていく。
『零……ごはん、できたよ』
背後からの、聞き覚えのある優しい声。
足が、凍りついたように動かなくなる。
祖母だ。
半年前に死んだはずの、唯一の肉親。
振り返ってはいけない。
本能が警鐘を鳴らす。
だが、首が勝手に動く。
煙の向こうに、割烹着姿の祖母が立っていた。
その手には、湯気を立てる鍋。
しかし、鍋の中身は、蠢く大量のムカデと泥だった。
「……お、ばあ……ちゃん?」
祖母が笑う。
目尻の皺が深くなり、そのまま顔の皮膚が剥がれ落ちた。
下から現れたのは、肉塊のような赤黒い筋肉の繊維。
「逃げないで……ずっと、一緒だよ」
胃液がせり上がってきた。
俺は口元を押さえ、涙目で走り出した。
目指すは町の外れ。
霧の発生源である、あの忌まわしい灯台へ。
第二章 肉塊の食卓
灯台の周囲だけ、音が死んでいた。
霧は壁のように凝縮し、世界からここだけを切り離している。
錆びた鉄扉を蹴破り、俺は螺旋階段を這うように登った。
肺が焼き切れそうだ。
最上階の灯室に転がり込む。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
埃っぽい床に膝をつく。
そこには、レンズの破片と共に、一枚の古い写真が落ちていた。
俺は震える手でそれを拾い上げた。
若き日の祖母が写っている。
海岸の洞窟。
彼女の足元には、注連縄で縛られた「何か」が転がっていた。
人間だ。
子供だ。
恐怖に顔を歪めた子供たちが、積み上げられている。
『我らは罪を犯した』
日記の文字が、血のように滲み出る。
『町の繁栄のために、泥の神に贄を捧げた。妻は……それを悔いていた』
「嘘だ……」
祖母は優しかった。
いつも縁側で日向ぼっこをして、俺の帰りを待っていてくれた。
それが、こんな。
「零、遅かったねえ」
背後で、湿った音がした。
心臓が止まるかと思った。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、祖母の形をした「何か」だった。
割烹着を着ている。
だが、体積がおかしい。
背中から無数の腕が生え、それぞれが歪な手つきで包丁や鍋を握っている。
顔は半分崩れ落ち、眼球が頬骨の位置まで垂れ下がっていた。
「お腹、空いたろう? 特製のシチューだよ」
祖母が、どろりとしたヘドロを柄杓ですくい、俺に差し出す。
ヘドロの中に、人の指が見えた。
「う、ぷ……!」
俺は床に手をつき、胃の中身をぶち撒けた。
酸っぱい臭いが鼻をつく。
恐怖で歯の根が合わない。
ガチガチと鳴る音が、鼓膜に響いてうるさい。
「なんで……なんでだよ……!」
「愛しているよ、零。だから、食べて?」
祖母の背中の腕たちが、一斉に伸びてきた。
触れられたくない。
生理的な嫌悪感が、恐怖を上回る。
俺は後ずさり、壁に背をぶつけた。
逃げ場がない。
「違う……あんたは祖母ちゃんじゃない!」
俺は日記を盾のように構えた。
「あんたは、祖母ちゃんの後悔が作った怪物だ!」
「ひどい子だねえ」
怪物の顔が、ぐしゃりと潰れた。
「痛い……痛いよぉ。あの子たちが、私の身体を齧るんだ」
裂けた腹の傷口から、子供たちの顔が浮かび上がり、苦悶の表情で叫んでいる。
『かえして』
『いたい』
『たすけて』
祖母の罪悪感が、町の呪いと混ざり合い、この醜悪な肉塊を生み出したのだ。
日記が激しく発光した。
青白い光が、迫り来る触手を焼き払う。
ページが風もないのにめくれ、最後の一行を晒した。
『零へ。お前はこの呪いを受け入れる器として生まれた。お前だけが、この澱みを飲み干せる』
第三章 黒い太陽
飲み干す?
この、腐った吐瀉物のような呪いを?
「ふざけるな……!」
俺は叫んだ。
冗談じゃない。
なんで俺が。
死にたくない。
こんなおぞましいものの一部になりたくない。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!」
俺は子供のように首を振った。
だが、窓の外を見て、動きが止まる。
町が、消えかかっていた。
家々がドロドロに溶け、黒い海へと沈んでいく。
逃げ惑う人々が、ナメクジのような影に飲み込まれていく。
このままでは、潮風町そのものが「過去の悪夢」に消化される。
「零、こっちへおいで……楽にしてあげる」
目の前の肉塊が、慈愛に満ちた、しかし狂った瞳で俺を見ている。
あれは祖母だ。
間違いなく、俺を愛してくれた祖母の成れの果てだ。
彼女は苦しんでいる。
死してなお、自らの罪と向き合い、呪いに食い荒らされている。
「……くそっ」
俺は唇を噛み切った。
鉄の味が口の中に広がる。
逃げたい。
今すぐここから飛び降りて、楽になりたい。
でも、それをすれば、祖母の魂は永遠にこの地獄を彷徨うことになる。
「……わかったよ」
震える足に力を込める。
膝が笑っている。
涙が止まらない。
「俺が、食ってやるよ」
俺は日記を放り投げ、両手を広げた。
恐怖をねじ伏せるのではない。
恐怖ごと、全部受け入れる。
「来いッ! 全部、俺の中に!」
ドクン、と世界が脈打った。
次の瞬間、祖母の体から、町中の影から、どす黒い奔流が俺に向かって雪崩れ込んだ。
「ぎ、あああああああ!」
痛い。
熱い。
脳髄をタワシで擦られるような激痛。
『ゆるして』『ころして』『にくたらしい』
数万人の他人の記憶が、汚泥となって俺の精神を犯していく。
指先が溶ける。
皮膚が弾け飛び、黒い霧となって拡散する。
俺という輪郭が、消えていく。
吐き気が止まらない。
でも、もう吐くための口もなかった。
「零……ごめんね……ありがとう……」
薄れゆく意識の底で、本来の祖母の声が聞こえた。
穏やかで、温かい、あの日向の匂い。
(……ああ、やっと、笑ってくれた)
激痛の向こう側で、俺は安堵した。
視界が黒く塗りつぶされる直前。
窓の外で、腐った霧が晴れ、美しい夕焼けが港を照らすのが見えた。
俺の体はもうない。
ただ、巨大な「何か」へと作り変えられていく感覚だけがあった。
これが、死か。
それとも、もっと悪い何かか。
意識が、波の音に溶けていく。
最終章 霧の果ての灯守り
「ねえ、知ってる? あの灯台の話」
「ああ、お化けが出るってやつ?」
「違うよ。ずっと昔から、あそこには『守り神』がいるんだって」
女子高生たちの屈託のない笑い声が、坂道に響く。
潮風町は、今日も平和だ。
かつて人々を狂わせた霧の話も、神隠しも、誰も覚えていない。
まるで、最初から何もなかったかのように。
町を覆っていた陰湿な空気は消え失せていた。
あるいは、誰かがすべて吸い取っているのかもしれない。
丘の上。
廃墟となった灯台の頂に、それは居た。
人であって、人でないもの。
影のように黒く、不定形で、霧を纏った異形の存在。
それは動かない。
ただ静かに、眼下の町を見下ろしている。
かつて「霧谷零」だった男は、もういない。
ここにあるのは、町中の呪いを一身に背負い、体内でろ過し続けるための生きた人柱。
永遠の孤独。
終わりのない責め苦。
だが、その異形の顔にある一対の瞳だけが、奇妙に澄んでいた。
深く、優しい、琥珀色。
かつて彼が愛し、救った祖母の瞳と同じ色が、そこにはあった。
夕闇が迫る。
異形は、ゆっくりと瞬きをした。
その瞳が、家路を急ぐ人々を、慈しむように見つめている。
たとえ誰にも知られずとも。
二度と、人の形に戻れずとも。
彼はここで、灯り続けるのだ。
闇そのものとなって、光を守るために。