空洞のソナタ

空洞のソナタ

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第一章 完璧な静寂

水無月響(みなづき ひびき)がその部屋を選んだのは、完璧すぎるほどの静寂に魅せられたからだった。若きチェロ奏者である彼にとって、音は世界の全てであり、同時に耐え難い苦痛の源でもあった。天賦の才と呪われたギフト。そう評された彼の絶対音感は、日常に溢れるあらゆるノイズを不協和音として拾い上げ、容赦なく彼の鼓膜と精神を削り取っていく。車のクラクション、隣人のテレビの音、蛍光灯のかすかなハム音。それら全てが、彼の内なる音楽をかき乱す醜い雑音だった。

スランプは深刻だった。弓を持つ指は迷い、かつては血肉のように一体だったチェロが、今はただの重い木箱にしか感じられない。メトロノームの無機質なクリック音だけが響く練習室で、彼は何度も楽譜を睨みつけ、そして諦める、その繰り返しだった。

「ここなら、きっと集中できる」

不動産屋が自慢げに紹介したそのアパートは、古い洋館をリノベーションした趣のある建物で、響が借りた一階の角部屋は、元オーナーが音楽室として使っていたという曰く付きの「防音室」だった。分厚い壁、二重サッシの窓。扉を閉めれば、そこはまるで深海のような、圧迫感すら覚えるほどの静寂に包まれた。響は満足した。ここでなら、自分自身の音と、自分だけの音楽と、純粋に向き合えるはずだ。

引っ越して最初の数日は、天国だった。耳を澄ましても、聞こえるのは自分の呼吸と心臓の鼓動だけ。彼は久しぶりに安らかな眠りを得て、チェロのケースを開ける気力も湧いてきた。バッハの無伴奏チェロ組曲。その流麗で厳かな旋律を、彼は静寂のキャンバスに描き始めた。

異変に気づいたのは、一週間が過ぎた満月の夜だった。

練習を終え、ベッドに横たわった響の耳に、それは届いた。

――キィ……ィ……。

ごく微かな、聞き慣れない音。古い木材が湿気で軋むような、そんな音だ。最初は建物のどこかが鳴っているのだろうと気にも留めなかった。しかし、その音は毎夜、決まって丑三つ時になると聞こえてくる。それは単なる家鳴りではなかった。音には、奇妙な周期と、か細いながらも確かな「旋律」のようなものがあったのだ。

それは、どんな楽器の音とも違っていた。高くも低くもない、ただひたすらに神経を逆撫でする周波数。それは、まるで誰かが爪で壁の裏側をゆっくりと引っ掻いているような、あるいは、声にならない声で嗚咽しているような、不気味な響きを伴っていた。

響の絶対音感は、その音を正確に捉えてしまう。半音の四分の一ほどずれた、不安定な嬰ヘの音。それは、彼の音楽的調和の世界に打ち込まれた、一本の不快な楔だった。完璧だったはずの静寂は、この未知の音によって侵食され、彼の安息の地は、再び姿の見えない敵に脅かされる戦場へと変貌しつつあった。

第二章 壁の向こうの不協和音

その音は、響の日常を着実に蝕んでいった。夜ごと繰り返される不協和音は、彼の睡眠を奪い、日中の集中力を削いだ。目の下には隈が深く刻まれ、彼の指はチェロの弦の上で震えるようになった。スランプは悪化の一途を辿り、楽譜はただの黒いシミの羅列にしか見えなくなった。

「他の部屋では、何も聞こえませんか?」

響はアパートの管理人や、数少ない他の住人にも尋ねて回った。しかし、誰もが怪訝な顔で首を横に振るだけだった。「静かなのが取り柄の建物ですから」「防音は完璧なはずですが」。彼の鋭敏すぎる耳が作り出した幻聴なのだろうか。いや、断じて違う。あの音は、物理的な振動を伴って、確かに存在している。

彼は音の正体を突き止めようと躍起になった。深夜、息を殺して部屋の中を這い回る。聴診器まで持ち出し、冷たい壁や床に耳を当てた。音源は、どうやらリビングの、何もない壁の向こう側から聞こえてくるようだった。そこは外壁に面しており、向こう側には何もないはずだった。

壁の向こうに潜む「何か」への恐怖と、正体不明の音への苛立ちが、彼の心を支配した。彼は図書館に通い、この土地の過去を調べ始めた。古地図と登記簿の写しを何時間も睨みつけた末、彼は一つの事実にたどり着く。この洋館は、半世紀ほど前まで、高名な人形師、有栖川ソウジのアトリエ兼住居だったのだ。

有栖川は、まるで生きているかのような精巧なビスクドールを作ることで知られていた。しかし、最愛の一人娘を不慮の事故で亡くして以来、彼は創作の世界に異常なまでのめり込み、狂気の人形師と呼ばれるようになった。彼は娘に瓜二つの一体の人形を作り上げ、それに全ての愛情と執念を注ぎ込んだ末、アトリエで誰にも看取られることなく孤独死したという。

ぞわり、と響の背筋を悪寒が走った。壁の向こうで泣いているのは、成仏できずにこの地に彷徨う、人形師の娘の霊魂なのだろうか。あるいは、狂気に取り憑かれた人形師自身の亡霊か。恐怖は具体的な形を取り始め、彼の想像力を掻き立てた。あの軋むような音は、幼くして命を絶たれた少女の嗚咽なのだ。そう考えると、不気味だった音は、途端に悲痛な響きを帯びて聞こえ始めた。

恐怖は、しかし、同時に奇妙な好奇心を彼の中に芽生えさせた。その音は、本当に「声」なのだろうか。だとしたら、その旋律は何を伝えようとしているのか。チェロ奏者としての本能が、恐怖の奥にある音楽的構造を分析しようと疼き始める。

その夜も、例の音が始まった。キィ、ィ……ギ、シ……。それは、もはや単なるノイズではなかった。悲しみに満ちた、不完全なレクイエムのように響の耳に届く。彼は震える手でチェロを構えた。そして、その不協和音に合わせて、即興で旋律を紡ぎ始めた。彼の奏でる哀しげなアルペジオに呼応するように、壁の向こうの音が一瞬、ぴたりと止んだ。

静寂。

しかし、それは安らぎではなく、嵐の前の静けさだった。次の瞬間、壁の向こうから、これまでで最も大きく、最も激しい、まるで絶叫のような軋り音が、部屋全体を揺るがした。

第三章 空洞のソナタ

絶叫にも似た音の後、再び静寂が戻った。しかし、響の心はかつてないほどに揺さぶられていた。自分の演奏に、壁の向こうの「何か」が反応した。それは紛れもない事実だった。幻聴などではない。そこに「誰か」がいるのだ。

恐怖は、今や抗いがたい衝動へと変わっていた。知らなければならない。この音の正体を。この旋律の意味を。翌日、彼はホームセンターで工具を買い揃えた。管理人の目を盗み、彼は意を決して、音の発生源である壁に向き合った。

壁紙を剥がし、石膏ボードをバールでこじ開ける。粉塵が舞い、むっとするような古い木の匂いが鼻をついた。ボードの向こうには、予想通り断熱材が詰められていたが、そのさらに奥に、不自然な空洞が存在していた。懐中電灯の光が、闇の中に埃をかぶった古いトランクを照らし出す。

心臓が早鐘のように鳴る。汗ばんだ手でトランクを引きずり出し、錆びついた留め金を無理やりこじ開けた。

息を呑む。

中に収められていたのは、一体の美しいビスクドールだった。透き通るような白い肌、ガラスの瞳、絹のような金の髪。それは、有栖川ソウジの最高傑作と噂された、彼の亡き娘をモデルにした人形に違いなかった。その完璧な造形美は、狂気と愛情の結晶そのものだった。

しかし、響の目は、人形の胸元に釘付けになった。レースのドレスの下、本来オルゴールが埋め込まれているべき場所が、がらんどうの空洞になっていたのだ。まるで、心臓がえぐり取られたかのような、痛々しい空虚。

その空洞を見つめた瞬間、響の脳内に、あの音が直接響き渡った。

――キィ……ィ……カヒュ……。

それは、もはや耳で聞く音ではなかった。魂に直接語りかけてくるような、鮮明な「声」だった。

彼は悟った。

これは人間の霊の声などではない。これは、この人形自身の声なのだ。失われたオルゴールという「心臓」を求め、歌うことのできない自らの歌を、その空っぽの体で必死に奏でようとしている、悲痛な叫びだった。それは恐怖の音ではなく、ただひたすらに哀しい、存在の証明を求めるソナタだった。

彼の絶対音感は、超常的な感度で、無機物であるはずの人形の魂が発する、その微弱な振動を「音楽」として捉えていたのだ。半音の四分の一ずれた嬰ヘの音。それは、不完全な存在の、不完全な歌声だった。

響は、人形のガラスの瞳を見つめた。そこには、深い哀しみが湛えられているように見えた。彼はそっと人形を抱き上げる。ひんやりとした陶器の感触が、彼の腕に伝わった。その瞬間、彼は自分自身と人形を重ね合わせていた。

表現すべき音楽を見失い、心が空っぽになっていた自分。

歌うべき心臓を失い、空洞の胸で泣き続けていた人形。

恐怖は完全に消え去っていた。そこにあったのは、同じ痛みを共有する者への、深い共感と慈しみだけだった。

第四章 魂のためのレクイエム

響は、古い資料を再び繙いた。有栖川ソウジが娘のために作ったというオルゴールの曲。その断片的な情報と、人形が奏でていた不完全な旋律の記憶を頼りに、彼は失われたメロディを再構築し始めた。それは、かつて彼が最も苦手としていた、ゼロから音を創造する作業だった。

しかし、今の彼に迷いはなかった。目的は明確だった。この哀れな人形の魂を、鎮めるために。

彼はチェロを構えた。その手はもう震えていない。深く息を吸い込み、弓を弦に滑らせる。

部屋に響き渡ったのは、バッハでもベートーベンでもない、響自身の音楽だった。それは、人形の嗚咽から拾い上げた嬰ヘの音から始まる、物悲しくも温かい、子守唄のような旋律。彼が再構築した、人形のためのレクイエムだった。

一音、また一音と、チェロの豊かな響きが空気を満たしていく。すると、どうだろう。彼の膝の上で、人形のか細い嗚咽が、まるで彼の旋律に寄り添うかのように、少しずつ調和を始めた。ずれていた音程が正され、途切れ途切れだったリズムが、チェロの音色に導かれていく。

クライマックス、響が全ての感情を込めて奏でる美しい旋律の中で、人形の奏でる音は、すすり泣きから、安らかな吐息へと変わり、そして……ふっと、完全に消えた。

後に残されたのは、響のチェロの音色の、優しい余韻だけだった。

彼は演奏を終え、静寂の中で人形をそっと見つめた。ガラスの瞳は、穏やかな光を宿しているように見えた。空洞の胸は、彼の音楽で満たされたのだ。

響は、気づいていた。人形を救うことは、彼自身を救うことでもあったのだと。彼は恐怖と向き合い、他者の痛みに共感し、そして何より、自分自身の音楽を取り戻した。彼の心にあったスランプという名の空洞もまた、このレクイエムによって満たされていた。

数日後、響はそのアパートを去る準備をしていた。人形は、元のトランクに戻し、壁の空洞の中へとそっと返した。彼女の安息の場所は、ここなのだ。

引っ越しのトラックを見送りながら、響は一度だけ、あの部屋を振り返った。もう、あの不協和音が聞こえることはないだろう。だが、彼女の歌は消えたわけではない。彼女の哀しいソナタは、今や響の音楽の一部となり、彼のチェロを通して、これからも奏でられていくのだから。

新しい部屋に置かれたチェロケース。響はそれを、慈しむように撫でた。窓から差し込む光の中で、彼は新しい楽譜に最初の音符を記す。それは、希望に満ちた、力強いハ長調の響きだった。

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