虚ろな愛の囁き

虚ろな愛の囁き

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第一章 歪む色彩と薄闇の声

僕のアトリエ兼寝室は、築50年近い木造アパートの二階にある。常に絵の具とターペンタインの匂いが微かに漂い、キャンバスの白が唯一の希望だった。葉山奏、28歳。美大を卒業して以来、この部屋で筆を握り続けているが、世間からの評価はまだ掴めずにいた。それでも、僕には描きたいものがあった。それは、愛。誰かを慈しむ心、風景に息づく生命への賛歌、そして何よりも、この世界で最も美しいと信じる「絆」の形。

異変は、真夜中に始まった。

初めは、風の音かと思った。古い窓枠の隙間から忍び込む、ひゅう、という細い口笛のような音。しかし、それはすぐに、耳の奥で微かに囁かれる、人の声のような響きへと変わっていった。

「……カ…ナデ……」

掠れた、しかし確かに僕の名前を呼ぶ声。僕の心臓が不律に跳ねた。目を覚まし、薄闇の中に意識を集中させる。しかし、部屋には僕一人。時計は午前三時を指していた。疲れから来る幻聴だろうと、無理やり自分を納得させ、再び目を閉じた。

翌日も、そしてその翌日も、囁き声は続いた。それは日を追うごとに鮮明になり、僕の精神を蝕んでいった。幻聴にしてはあまりに生々しい。声は、昔、僕が深く愛した人のものによく似ていた。数年前に突然、僕の前から姿を消した、恋人、美咲の声に。

美咲。彼女のことは、今でも僕の心の奥底に、甘くも切ない傷跡のように残っていた。彼女を失って以来、僕の描く絵には、どこか陰りが宿るようになった。彼女をモデルにした未完成の肖像画は、部屋の片隅で、布を被せられたまま放置されている。

ある日、僕は描いていた絵をじっと見つめた。それは、公園で無邪気に遊ぶ子供たちの姿を描いたものだった。子供たちの瞳は、生き生きとした輝きを放っているはずだった。だが、そこに描かれた子供たちの瞳は、皆、どこか虚ろで、生命力を失っているように見えた。まるで、魂が抜け落ちたかのような、空っぽの目。

錯覚だと思った。しかし、他のキャンバスに目を移しても同じだった。かつて僕が描いた、様々な表情を見せる人物画の瞳が、皆、同じ虚ろな光を宿している。

それは、僕の愛するものが、少しずつ、何かによって奪われているような感覚だった。薄暗いアトリエで、微かな囁き声が再び耳朶を打つ。「…愛して…る…」その声は、僕の胸を締め付け、冷たい汗が背筋を伝った。恐怖だった。この部屋で何かが起きている。そして、それは僕の愛を、僕の絵を、少しずつ壊している。

第二章 記憶の淵と呼応する痛み

僕は、囁き声の正体を探るべく、アパートの大家に話を聞きに行った。しかし、大家は首を傾げるばかりで、特に不審な点は見当たらないと言う。このアパートにまつわる奇妙な噂も、過去の不可解な出来事も耳にしたことはないらしい。僕の心は、ますます孤独と恐怖に包まれていった。

夜毎、囁き声は激しさを増し、僕を眠らせない。まるで僕の耳元で、甘く、そして執拗に、愛を求めるかのように。「私のこと…忘れないで…」「ずっと…一緒にいよう…」

それは、美咲がよく僕に語りかけた言葉に、酷似していた。

僕は、布を被せたまま放置していた美咲の肖像画を、恐る恐る引っ張り出した。

そこには、僕が筆を置いた時の、優しく微笑む美咲の姿があった。しかし、その瞳には、すでに虚ろな翳りが宿っているように見えた。他の絵よりも、はっきりと。

その瞬間、絵の中から、かすかな吐息が聞こえた気がした。僕は絵から飛び退き、壁際にへたり込んだ。

美咲との出会いは、大学のギャラリーだった。彼女は、僕の絵を真剣な眼差しで見つめ、そして、その絵に込められた「愛」の感情を、誰よりも深く理解してくれた唯一の人だった。

「奏さんの絵は、愛で溢れてる。まるで、命が吹き込まれているみたい」

彼女のその言葉が、僕にとってどれほどの支えになったか。

しかし、彼女はある日、突然姿を消した。理由も、手掛かりも残さずに。ただ、僕が唯一知っていたのは、彼女が重い心臓の病を抱えていたことだった。その病が原因で、彼女は自分の命が長くないことを悟り、僕に悲しい思いをさせたくないからと、姿を消したのかもしれない。

そう結論付けた時、僕の心は言いようのない喪失感と、美咲への募る愛で満たされた。僕は、その愛と悲しみを、絵にぶつけ続けた。

僕は、過去に描いた美咲の絵を全て、押し入れの奥から引っ張り出した。

描けば描くほど、美咲への想いは募った。しかし、これらの絵の中の美咲の瞳もまた、例外なく虚ろに、生命力を失っていた。

それは、まるで僕の「愛」が、絵を通じて、美咲の存在を、この世界に繋ぎ止めようとしているかのようだった。しかし、その行為が、彼女を苦しめているかのような、背徳感にも似た感情が僕を襲った。

囁き声は、僕の心臓の鼓動と同期するように、部屋中に満ちていく。

「…愛して…愛して…」

その声は、美咲からの、切なくも恐ろしい「愛の要求」に他ならなかった。

第三章 愛という名の呪い

僕は、美咲への募る愛が、僕自身を破滅へと導いているのではないか、という恐怖に襲われ始めた。

アパートの薄暗い部屋で、僕は美咲の絵の前に座り込んでいた。僕の心は混乱していた。美咲は、なぜ僕の愛を求めるのか?そして、なぜ僕の描く絵の瞳は、これほどまでに虚ろになっていくのか?

「……奏…私の愛…を受け取って…」

囁き声は、まるで僕の心に直接語りかけてくるようだった。それは甘く、誘惑的でありながら、同時に冷たい刃のように僕の胸を刺す。僕の体は、この数日間で急激に痩せ細り、目には深い隈が刻まれていた。睡眠はほとんど取れておらず、食事も喉を通らない。精神的な疲弊は極限に達していた。

その夜、僕は美咲の肖像画に手を伸ばした。筆を取り、彼女の瞳に、再び生命の輝きを取り戻そうとした。しかし、筆が触れた瞬間、絵の中の美咲の瞳が、黒い闇のように深く、底なしの虚無を湛えていることに気づいた。そして、その闇の中から、僕の体の中に吸い込まれるような、冷たい感覚が走った。

「……そう…それよ…あなたの…愛…」

囁き声は、歓喜に震えているようだった。

僕は、ハッとした。これは、美咲への愛が、僕の「生気」を吸い取っているのだ。僕が彼女を愛すれば愛するほど、彼女の存在はこの世に留まろうとし、そのために僕の命を糧としている。

美咲の病。心臓の病。生への執着。そして、僕への純粋すぎる愛。

彼女は、僕との「永遠」を望んだ。その願いが、彼女をこの世に縛り付け、僕の愛を求める怪物に変えてしまったのだ。

僕が彼女を描き、彼女を愛し続けることが、美咲を安らかな死から遠ざけ、この世で苦しめ続けている。

僕の価値観が、音を立てて崩れ去った。これまで「愛」こそが全てだと信じ、それを絵に表現してきた。しかし、その「愛」が、今や僕自身と、そして愛する美咲を苦しめる「呪い」と化していた。

美咲への愛が、美咲を亡霊としてこの世に縛り付け、僕自身を死へと誘っている。この事実が、僕の心を根底から揺さぶった。

僕は、美咲を本当に愛しているのなら、何をすべきなのか。

このまま僕の命を捧げ、彼女をこの世に留め続けることが、本当に彼女の幸せなのか?

答えは、明確だった。僕は、美咲を解放しなければならない。そして、そのためには、僕自身が、彼女への執着を手放さなければならなかった。それは、僕にとって最も恐ろしいことだった。彼女を忘れることなど、できるはずがない。しかし、彼女を本当に愛しているのなら、安らかに眠れるようにしてあげることこそが、僕にできる最後の、そして最大の愛なのだ。

第四章 解放の筆、そして残された余韻

僕の手は震えていた。憔悴しきった体と心で、僕は新しいキャンバスに向き合った。アトリエの窓から差し込む朝日は、昨日までの薄暗さを払拭するように、部屋全体を金色に染め上げていた。囁き声は、まだ聞こえる。しかし、その声は、昨日までの執拗な響きとは異なり、どこか悲しげで、弱々しく感じられた。

僕は、これまで描いた美咲の絵とは異なる、一枚の絵を描き始めた。

そこに描いたのは、美咲の、心からの、偽りのない笑顔だった。そして、彼女の体が、ゆっくりと光の粒子となって、晴れ渡った空へと昇っていく姿。それは、安らかな解放の絵だった。

筆を握る手から、僕の命が少しずつ流れ出していくような錯覚に陥った。しかし、それでも僕は描き続けた。美咲への執着を手放すこと。それが、彼女への最後の愛なのだと、自分に言い聞かせながら。

絵が完成した時、部屋は静寂に包まれた。

囁き声は、完全に止んでいた。

美咲の絵は、希望に満ちた光を放っていた。その瞳は、もう虚ろではない。純粋な愛と、安堵に満ちた輝きを湛えている。

僕の目からは、とめどなく涙が溢れ落ちた。それは、悲しみだけではない。長きにわたる苦しみからの解放、そして、美咲を本当に解放できたという、深い安堵の涙だった。

僕は、美咲への愛が、もはや僕を苦しめる呪いではなく、僕の心の中に、かけがえのない美しい記憶として刻まれたことを知った。

僕は、しばらくの間、筆を握ることができなかった。美咲を失った悲しみは癒えず、このアパートで体験した恐怖は、僕の心に深い爪痕を残した。しかし、同時に、僕は「愛」の真の姿を知った。愛は、執着ではない。時に手放す勇気と、相手の幸福を願う無私の心こそが、本当の愛なのだと。

数ヶ月後、僕は新しいアパートに引っ越し、再びキャンバスに向き合った。絵の具の匂いが、今度は僕に新たな希望をもたらしてくれる。

僕の描く絵は、以前よりも深みを増した。そこに描かれる人物の瞳には、かつての虚ろな光はもうない。深い悲しみを知りながらも、それでも未来を見据える強さと、愛するものの尊さを知った人間の、成熟した輝きが宿っていた。

葉山奏は、愛という名の呪いを乗り越え、真の愛を知った画家として、新たな道を歩み始めた。美咲の笑顔と、彼女を解放した光の記憶は、彼の心に永遠に生き続けるだろう。

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