第一章 囁くからくり箱
神保町の古書街から少し外れた路地裏に、俺の店「からくり堂」はあった。祖父から受け継いだ、埃と記憶が堆積した古道具屋だ。軋む床、インクと古い紙の匂い、そして窓から差し込む気怠い午後の光。俺、水上健太(みなかみけんた)にとって、この静寂こそが日常だった。人付き合いが苦手な俺には、言葉を発しないガラクタたちがちょうどいい話し相手だった。
その日、市場で仕入れた雑多な品々の中に、そいつはあった。黒ずんだ桜の木でできた、小ぶりなからくり箱。精巧な寄せ木細工が施されているが、華美な装飾はなく、どこか寂しげな佇まいをしている。ただ、箱の底に、墨で書かれた古風な文字が俺の目を引いた。
『決して、月夜に開けてはならない』
思わず鼻で笑ってしまった。使い古された脅し文句だ。こういう尾ひれのついた品は、かえって買い手がつかない。俺は無造作に棚の隅にそれを置いた。埃をかぶって、誰かの気まぐれを待つのがお似合いだ。
しかし、その日から店の中の空気がわずかに変わった。閉店後、一人で帳簿をつけていると、店の奥から、か細い声が聞こえるような気がするのだ。最初は気のせいだと思っていた。古い家は鳴るものだし、俺自身、少し疲れているのだろうと。
――さむい。
空耳にしては、あまりに明瞭な子供の声だった。はっとして顔を上げても、そこにはガラクタの山が静かに影を落としているだけ。だが、視線は自然と、あのからくり箱へと吸い寄せられた。月明かりもない暗闇の中で、箱だけがぼんやりと輪郭を主張しているように見えた。
俺は七年前に、たった一人の妹を事故で亡くしている。俺の不注意が原因だった。あの日以来、俺の時間は止まったままだ。誰かと深く関わることも、心から笑うことも、自分に禁じてきた。だから、子供の声にはことさら敏感だった。それは、心の奥底に沈めた罪悪感を揺さぶる、不快な響きを伴っていた。
気のせいだ。俺は何度も自分に言い聞かせ、その日は無理やり店のシャッターを下ろした。だが、背後でまた、囁き声がした気がした。
――ひとりぼっち。
第二章 満たされぬ影
怪異は、日を追うごとに輪郭をはっきりさせていった。棚から品物が落ちる。誰もいないはずの二階から、小さな子供が走り回るような足音が聞こえる。客が帰った後、綺麗に整頓したはずの陳列が、子供のいたずらのように乱されていることもあった。
恐怖よりも先に、苛立ちが募った。俺の聖域である静寂が、見えない何者かにじわじわと侵食されていく。その中心には、いつもあのからくり箱があった。まるで、箱がその小さな体で、懸命に存在を主張しているかのように。
ある夜、ついに耐えきれなくなった俺は、箱を手に取った。ずしりとした重みが、ただの木箱ではないことを物語っている。開けてみようか。底に書かれた禁忌が、逆に俺を煽る。だが、その瞬間、箱の中からコツ、と小さな音がした。まるで、内側から誰かがノックしたかのように。
全身の血が凍りつくのを感じた。俺は咄嗟に箱を棚に戻し、逃げるように店を飛び出した。
もう限界だった。俺は次の日、この不気味な箱の出所を調べることにした。市場の帳簿をめくり、いくつかの古物商に電話をかけ、ようやく元の持ち主に行き着いた。それは、何十年も前に廃村となった山間の集落にあった一軒家から出たものだという。
「ああ、あの箱かい」電話口の老人は、億劫そうに言った。「いわくつきだよ。あの家はな、昔、一家心中があったんだ。若い夫婦と、病弱な一人娘がいたんだが…」
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
「娘さんが流行り病で亡くなって、それを苦にした夫婦が後を追った。村の噂じゃ、親が無理やり…なんて話もあったが、真偽は分からん。娘さんの名前は、確か…小夜(さよ)ちゃん、だったかな。夜に生まれた子だからって」
小夜。その名を聞いた途端、脳裏にあの囁き声が響いた。からくり箱は、ただの呪物などではない。あの中には、小夜という少女の、満たされぬ何かが閉じ込められているのだ。恐怖は、いつしか怜れみにも似た感情へと変わり始めていた。俺は、この箱から目を逸らすことができなくなっていた。
第三章 月夜の告白
その夜は、満月だった。青白い光が店の窓から差し込み、ガラクタたちの影を床に長く伸ばしている。まるで、舞台のスポットライトのように、光はまっすぐにあのからくり箱を照らしていた。
『決して、月夜に開けてはならない』
その言葉が、今や俺には懇願のように思えた。開けてくれるな、という拒絶ではない。月夜にだけは、本当の私を見られてしまうから、という悲痛な叫びのように。
俺は、何かに導かれるように箱を手に取った。妹が亡くなったあの日も、こんな満月だった。妹の手を離してしまった、あの瞬間の後悔が、冷たい波のように押し寄せる。
ごめん。ごめんな、美咲。
心の中で妹に詫びながら、俺はからくりの仕掛けに指をかけた。いくつかの手順を経て、カチリ、と最後の留め金が外れる音がした。ゆっくりと蓋を開ける。
中から溢れ出たのは、怨念の黒い霧ではなかった。淡い、蛍のような光の粒子だった。光は目の前でゆっくりと形を結び、やがて、小さな女の子の姿になった。着物を着た、おかっぱ頭の少女。透き通るような体で、悲しそうに微笑んでいる。彼女が、小夜ちゃんか。
「…やっと、会えた」
鈴を転がすような、しかしどこまでも儚い声だった。
「怖がらせて、ごめんなさい」
「君は…どうして…」
「私はね、ずっと待ってたの。お父さんとお母さんを」
小夜は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼女が聞かせてくれた物語は、俺の想像を根底から覆すものだった。
彼女は病弱で、両親はいつも彼女の心配ばかりしていた。ある日、小夜は両親が「この子がいなくなったら、私たちは生きていけない」と話しているのを聞いてしまう。だから、彼女は願ったのだ。自分が死んでも、両親が悲しまないように。ずっと一緒にいられるように。彼女はこのからくり箱に、自分の魂と「ずっと一緒だよ」という願いを込めた。それが彼女なりの、両親への愛情表現だった。
しかし、彼女が病で息を引き取った後、残された両親は悲しみに打ちひしがれ、彼女の後を追ってしまった。村人たちはそれを「病苦による無理心中」と噂した。両親の魂は、娘を死なせてしまったという自責の念と、村人たちの心ない噂によって、成仏できずにあの家に縛り付けられてしまったのだ。
「お父さんとお母さん、ずっと泣いてるの。私のせい? 私が、悪い子だったから?」
小夜の透き通る瞳から、光の涙がこぼれ落ちた。その姿が、七年前の妹と重なる。俺はずっと、妹は俺を恨んでいると思っていた。俺のせいで死んだのだから、当然だと。だが、もし、美咲も…。もし、美咲も、俺が悲しむことを望んでいなかったとしたら?
「違う…君は悪くない」
俺は、震える声で言った。それは小夜に言っているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか、分からなかった。
「君は、ただ、二人を愛していただけだ。それだけなんだ」
箱から聞こえていた囁き声は、呪いの言葉ではなかった。「さむい」でも「ひとりぼっち」でもない。彼女はずっと、こう言っていたのだ。
――さみしい。
――ひとりぼっちに、しないで。
それは、両親に向けられた、切ない愛の叫びだったのだ。
第四章 解放の夜明け
俺は、からくり箱を抱きしめるように胸に抱え、車を飛ばした。カーナビが示す先は、地図からも消えかかった山間の廃村。月明かりだけを頼りに未舗装の道を進むと、やがて木々に埋もれるようにして、崩れかけた一軒の家が現れた。小夜の両親が、今も彷徨っているという家だ。
ぎい、と音を立てて戸を開ける。中は空気が氷のように冷たく、時間が止まっていた。床には、朽ちた畳と、散らばった家財道具。その家の中心に、黒い靄のようなものが二つ、寄り添うように揺らめいていた。苦しみと後悔だけでできた、悲しい魂の姿だった。
靄が、俺という異物に気づき、敵意をむき出しにする。部屋の温度がさらに下がり、殺意にも似た圧力が全身を締め付けた。
「やめろ!」俺は叫んだ。「小夜ちゃんを、見てやってくれ!」
俺は胸に抱いた箱を、二つの影の前に差し出した。箱から、再び小夜の姿が淡い光とともに現れる。両親の霊は、娘の姿を認めると、苦しげに身をよじらせた。会いたい。でも、会う資格がない。そんな葛藤が、黒い靄をさらに濃くする。
「小夜ちゃんは、あなたたちを恨んでなんかいません!」
俺は、妹への想いをすべてぶつけるように、声を張り上げた。
「ただ…ただ、もう泣かないでほしいって! 笑って生きてほしかっただけなんだ! それがあの子の、たった一つの願いだったんだ!」
その言葉に、小夜がこくりと頷いた。彼女はふわりと浮き上がると、ためらうことなく両親の黒い影を、その小さな両腕で優しく抱きしめた。
「お父さん、お母さん。もう、泣かないで。さよは、ずっと一緒だよ」
その瞬間、眩い光が家中を満たした。憎しみと後悔の黒い靄は、娘の無垢な愛に触れて、みるみるうちに浄化されていく。やがて、光の中に、穏やかな笑みを浮かべた若い夫婦の姿が浮かび上がった。三人は互いを見つめ、頷き合うと、光の粒子となってゆっくりと天井へ消えていった。
嵐が過ぎ去ったように、家には静寂が戻った。手の中のからくり箱は、もう何の力も持たない、ただの古い木箱に戻っていた。
店に戻った俺は、棚の奥にしまってあった妹の写真立てを手に取った。笑いかける美咲の顔。俺は七年間、一度も言えなかった言葉を、ようやく口にした。
「ごめんな…じゃなくて。美咲、ありがとう」
心の奥底に突き刺さっていた棘が、すうっと抜けていくような気がした。
翌日の午後。店のドアベルが鳴り、一人の少女が母親と手をつないで入ってきた。少女は店の中をきょろきょろと見回し、やがて棚の隅にある、あのからくり箱に目を留めた。
「ママ、これ、可愛い!」
俺は、少し驚いて、そして、自然に微笑んでいた。七年ぶりに浮かべた、心からの笑みだったかもしれない。
「お嬢ちゃん、目が高いね」俺は箱を手に取り、少女に渡しながら言った。「ああ、これはね、とても優しい魔法がかかっているんだよ」
少女は嬉しそうに箱を抱きしめた。その姿を見つめながら、俺は思う。失われた命は戻らない。だが、遺された想いは、こうして誰かの心を温め、未来へと繋がっていくのかもしれない。
俺の店の、止まっていた時間が、ようやく、また動き始めた。