残響の調律師

残響の調律師

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第一章 錆色の残響

柏木湊(かしわぎみなと)の世界は、音に色が付いていた。幼い頃から、あらゆる音は彼の網膜の裏で固有の色と形を伴って咲き乱れる。ピアノの硬質な高音は鋭い銀色の棘となり、チェロの深いため息はビロードのような紫紺の帳(とばり)となって空間を満たす。彼はその類稀な共感覚を活かし、ピアノの調律師として生計を立てていた。完璧な和音は、彼にとって純粋な光のプリズムを組み立てる作業に他ならなかった。

その日、湊が訪れたのは、海を見下ろす崖の上にぽつんと建つ古い洋館だった。依頼主は、桜井千代と名乗る老婆。電話口で聞こえた彼女の声は、乾いた落ち葉が擦れ合うような、くすんだ琥珀色をしていた。館に足を踏み入れた瞬間、湊は鼻腔をくすぐる古い木材と潮の香りに混じって、奇妙な静寂を感じ取った。それは無音とは違う。何かが鳴るのを、息を殺して待っているような、張り詰めた静寂だった。

「こちらです」

千代に導かれたのは、日中でも薄暗い応接間だった。部屋の中央には、見事な彫刻が施されたグランドピアノが鎮座していた。黒檀の艶は失われ、埃がうっすらとレース模様を描いている。だが、湊の注意を惹きつけたのは、そのピアノそのものではなかった。

耳の奥で、何かが微かに鳴っている。

それは音と呼ぶにはあまりに不協和で、混沌としていた。そして、その「色」が、湊を凍りつかせた。今まで見たことのない、おぞましい色。乾いてひび割れた血痕のような、赤黒く淀んだ錆の色。その色は、まるで生き物のように蠢き、じりじりと空間を侵食していく。粘つくような視線を感じ、湊は思わず身震いした。

「このピアノを、お願いできますか」千代の声が、湊を悪夢から引き戻した。「もう何十年も、誰も弾いていないのですが…」

湊は唾を飲み込み、錆色の残響がまとわりつくピアノに恐る恐る近づいた。鍵盤に指を伸ばそうとした瞬間、キィン、と錆色の音が脳髄を突き刺し、彼の視界が赤黒く点滅した。それは警告のようでもあり、助けを求める悲鳴のようでもあった。

「どうかなさいましたか? 顔色が…」

「いえ、なんでもありません」湊は努めて平静を装った。「少し、空気が悪いようで」

彼はその日、仕事道具を広げることさえできなかった。館を出てからも、あの錆色の音は耳の奥にこびりついて離れなかった。それは単なる不協和音ではない。そこには、明確な悪意と、そして言葉にならないほどの深い絶望が溶け込んでいるように感じられた。自分の共感覚が、決して触れてはならない世界の扉を叩いてしまったのではないか。湊の背筋を、冷たい汗が伝っていった。

第二章 蝕む旋律

あの日以来、湊の日常は静かに、しかし確実に錆色に侵されていった。街の喧騒の中で、ふと錆色の音が混じる。それは車のクラクションが放つ耳障りな黄色の音の隙間や、子供たちの笑い声が描く柔らかなパステルカラーの合間に、黒い染みのように現れた。そのたびに、湊の心臓は氷水に浸されたように冷たくなり、世界から色彩が失われていくような感覚に襲われた。

夜はさらに酷かった。眠りに落ちようとする意識の淵で、あの洋館のピアノが奏でる錆色の旋律が、子守唄のように、あるいは呪詛のように繰り返し響くのだ。それは彼の夢を蝕み、湊は次第に眠ることを恐れるようになった。目の下の隈は濃くなり、彼の世界を彩っていた鮮やかな音の色も、どこかくすんで見えるようになっていた。

「もう、あの仕事は断ろう」

心身ともに限界を感じた湊は、千代に電話をかけた。しかし、何度かけても誰も出ない。不安に駆られた彼は、意を決して再びあの崖の上の洋館へと車を走らせた。断るにしても、直接会って話をするべきだと思った。

館の扉は、わずかに開いていた。呼び鈴を鳴らしても返事はない。湊は躊躇いつつも、軋む扉を押して中へ入った。相変わらずの、息詰まるような静寂。そして、応接間の方から、あの錆色の音が、前よりもずっと強く、はっきりと聴こえてくる。

導かれるように応接間へ向かうと、千代がピアノの前に置かれた椅子に座り、鍵盤を覆う蓋をじっと見つめていた。その背中は、石像のように動かない。

「桜井さん」

湊の声に、千代はゆっくりと振り返った。その顔は憔悴しきっており、目には深い悲しみの色が湛えられていた。

「…また、聴こえるのですか」千代が掠れた声で尋ねた。

「え?」

「あの子の音が。あなたにも、聴こえるのでしょう?」

千代の言葉に、湊は息を飲んだ。「あの子、とは…?」

老婆は震える指で、ピアノの脇に置かれた一枚の古い写真立てを撫でた。そこには、湊とさほど変わらない年齢の、物静かそうな青年が写っていた。

「私の、息子です。拓也といいました」千代の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「あの子も、あなたのように、音に色が見える子でした。そして、このピアノは…あの子の魂そのものなのです。だから、もう誰にも触れてほしくなかった…」

彼女の告白と同時に、ピアノから再び錆色の音が響き渡った。それは以前よりもさらに強く、苦痛に満ちた叫びとなって湊の鼓膜を、そして魂を揺さぶった。恐怖だけではない。その音の奥底に、湊は拭い去れないほどの孤独と、誰にも届かない哀しみを感じ取っていた。錆色の音は、彼に向かって何かを必死に訴えかけている。お前なら、わかるだろう、と。

第三章 調律されざる魂

その夜、湊は洋館を去ることができなかった。千代が淹れてくれた紅茶を手に、彼は拓也という青年の話を聞いていた。

拓也は、湊以上に繊細な共感覚の持ち主だった。彼は言葉よりも、ピアノで感情を表現することを好んだ。彼の弾く旋律は、喜びの時は黄金色の光の粒となり、悲しみの時は静かな青色の雨となって聴く者の心を濡らしたという。だが、その才能は周囲に理解されず、彼は次第に心を閉ざしていった。

「十年前のことです」千代は遠い目をして語った。「あの子は事故に遭い…声を、失いました。それから、ピアノも弾かなくなってしまった。自分の想いを伝える術を、二つも同時に失ってしまったのです」

言葉も、音楽も失った拓也は、絶望の淵を彷徨った。そしてある嵐の夜、彼は自ら命を絶った。この洋館の、この部屋で。

千代の話を聞きながら、湊の耳の奥では、錆色の音が途切れ途切れに鳴り続けていた。それはもはや恐怖の対象ではなかった。声にならない叫び。色を失った音楽。誰にも理解されず、伝えられなかった想いの澱(おり)。それが、この錆色の音の正体なのだ。

湊は、自らが感じていた恐怖の根源を悟った。それは死者への恐怖ではない。誰にも理解されない孤独、想いを伝えられない絶望という、自分自身の内なる恐怖との共鳴だったのだ。彼もまた、この共感覚のせいで、他人との間に見えない壁を感じながら生きてきた。

「彼はずっと、誰かに聴いてほしかったのかもしれない…」湊は無意識に呟いていた。

その瞬間、ピアノが激しく鳴動した。ガシャン!と耳を찢くような不協和音が鳴り響き、錆色の奔流が部屋中を渦巻いた。それはまるで、湊の言葉に拓也の魂が激しく反応したかのようだった。千代が悲鳴を上げて椅子からずり落ちる。

湊は立ち上がった。恐怖はなかった。ただ、目の前の調律されざる魂を、このままにはしておけないという強い衝動があった。彼はゆっくりとピアノに近づき、震える指で鍵盤に触れた。

その瞬間、湊の脳内に、鮮烈なビジョンが流れ込んできた。

夕焼けに染まる海。笑い声。初めて作った曲を母親に聴かせた時の、誇らしい気持ち。事故の瞬間の、砕け散るガラスの銀色の悲鳴。そして、何もかもが灰色に見えるようになった病室。伝えたい言葉が、美しい旋律が、喉と指先で意味をなさない音の塊となり、どす黒い錆色に変わっていく絶望。――拓也の記憶、そのものだった。

魂が、直接語りかけてくる。助けてくれ、と。俺の音を、聴いてくれ、と。

「わかったよ」湊は鍵盤に両手を置いた。「君の音、俺が調律してやる」

彼は目を閉じ、意識を集中させた。これは怪異の退治ではない。これは、一人の調律師による、最も繊細で、最も困難な仕事の始まりだった。

第四章 瑠璃色の夜明け

湊は弾き始めた。拓也の魂が奏でる錆色の不協和音に、耳を澄ませながら。それは、楽譜のないセッションだった。魂と魂の対話。湊は、拓也の絶望の叫びに寄り添うように、静かで澄んだ和音を重ねていく。彼に見える「空色」のC4の音を。そして、慈しむような「若草色」のハーモニーを。

最初は、錆色の音は激しく抵抗した。湊が紡ぐ美しい色彩を、飲み込もうと荒れ狂う。だが、湊は弾き続けた。これは調伏ではない。理解だ。君は独りじゃない、君の音はここに在る、と伝えるための演奏だった。

湊は、拓也の記憶から断片的なメロディを拾い上げ、それを再構築していく。事故に遭う前に彼が作っていた、未完のソナタ。その美しくも悲しい旋律に、湊は自らの音で新たな生命を吹き込んでいく。

どれほどの時間が経っただろうか。いつしか、荒れ狂っていた錆色の音は、その勢いを失い始めていた。攻撃的だった赤黒い蠢きは、次第に角が取れ、悲しみを湛えた深い「藍色」へと変化していく。そして、湊が最後の和音を奏でた時、奇跡が起きた。

藍色の悲しみの中から、一筋の光が差すように、澄み切った「瑠璃色」の音が立ち上ったのだ。それは、夜明けの空の色。絶望の先にある、希望の色。その音は、部屋全体を優しく満たし、長年の淀みを洗い流していくようだった。

演奏を終えた湊の頬を、涙が伝っていた。ピアノは、もう沈黙していた。あの忌まわしい錆色の残響は、どこにもない。

背後で、息を飲む気配がした。振り返ると、千代が涙に濡れた顔で立ち尽くしていた。

「…聴こえた…。あの子のピアノが、聴こえたわ…」彼女は震える声で言った。「あの子が、最後に作りたかった曲…。ありがとう…本当に、ありがとう…」

湊は静かに頷いた。彼は、これまで呪わしいとさえ思っていた自らの共感覚が、初めて誰かの魂を救ったことを知った。音に色が見えるのではない。音に宿る想いが、色となって見えていただけなのだ。

崖の上の洋館を出る頃には、東の空が白み始めていた。現実の空もまた、美しい瑠璃色に染まっていた。世界から、悲しみの音が消えることはないだろう。これからも、どこかで錆色の音は鳴り続けるのかもしれない。だが、湊はもうそれを恐れなかった。それは呪いではなく、誰かの声なき声なのだから。

彼は調律師だ。そして、音に込められた魂の声を聴き、それに寄り添うことができる唯一の存在なのだ。湊は、昇り始めた朝日に向かって、深く、静かに息を吸い込んだ。彼の世界は、かつてないほど鮮やかに、そして愛おしく色づいて見えた。

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