忘却喰らいと銀の鏡
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忘却喰らいと銀の鏡

第一章 陶器の肌と歪む街

俺の肌は、磨かれた陶器に似ている。滑らかで、ひんやりとしていて、生き物の温もりというものをとうに失っていた。指先で軽く叩けば、コツ、と乾いた音がする。雨の匂いが立ち込める路地裏で、俺は壁に背を預け、静かにその時を待っていた。

やがて、空気の震えと共に、それは現れた。陽炎のように揺らめく、淡い光の粒子。誰かが今、この世界のどこかで『忘却の権利』を行使した証だ。忘れ去られた男の、最後の残滓。俺はゆっくりと腕を伸ばし、その光を掌に受け止める。粒子は溶けるように肌に吸い込まれ、飢えた身体の隅々へと満ちていく。満たされるごとに、俺の身体はより強固に、より無機質になっていく。それが、俺が存在を維持するための唯一の方法だった。

人々は成人すると、忌まわしい記憶や疎ましい人間を、この世界から完全に消し去る権利を得る。忘却された者は、誰の記憶にも残らず、その存在を示すあらゆる記録も痕跡も消滅する。便利な世界だ。誰もが過去の痛みに縛られることなく、綺麗な人生を歩んでいける。

だが、その「綺麗さ」には代償が伴う。最近、世界の輪郭が妙に曖昧なのだ。建物の縁が滲んで見えたり、遠くで鳴る鐘の音が、奇妙な遅延をもって耳に届いたりする。まるで、丁寧に描かれた絵画の絵の具が、少しずつ溶け出しているかのように。人々はその些細な違和感に気づかない。あるいは、気づいてもすぐに忘れてしまう。

ポケットから、古びた銀のコンパクトミラーを取り出す。鈍い光を放つ蓋には、か細い筆跡で『忘れてはならない』とだけ刻まれていた。持ち主だったはずの誰かの顔は、記憶の靄に覆われて思い出せない。そっと蓋を開けると、鏡面にはぼやけた自分の顔が映る。陶器の肌、感情の読めない瞳。時折、その鏡面には、泣き叫ぶ女の顔や、燃え盛る街の風景が一瞬だけよぎっては消える。これもまた、誰かの忘却の断片なのだろう。

俺は立ち上がり、雨上がりのアスファルトが放つ湿った匂いを深く吸い込んだ。街の歪みは、確実に広がっている。忘却を喰らい、無機質な身体で生きる俺だけが、その崩壊の予兆に気づいていた。

第二章 残滓の声

その日、俺の前に現れた残滓は、いつもと違っていた。それは陽炎のような粒子ではなく、はっきりとした輪郭を持っていた。小さな女の子の姿だった。透き通った身体の向こうに、煤けた煉瓦の壁が見える。

「どうして、忘れたの」

鈴を転がすような、しかしひどく哀しい声が、俺の頭の中に直接響いた。彼女は泣いていた。涙は頬を伝う前に光の粒となって霧散していく。俺は手を伸ばすこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。少女の幻影は、その言葉だけを残してふっと掻き消えた。

あれは単なる残滓ではなかった。明確な意志と、問いかけがあった。

世界の歪みについて何か手がかりがないか、俺は街で最も古い公立図書館へ向かった。埃と古い紙の匂いが満ちる静寂の中、一人の女性が分厚い古書を読んでいた。

「何か、お探しですか?」

彼女は顔を上げ、俺をまっすぐに見た。エラ、と名札には記されている。多くの人間が俺の陶器のような肌を見て眉をひそめるのに、彼女の瞳に浮かんだのは、怯えではなく純粋な好奇心だった。

「この世界の、成り立ちについて書かれたものを」

俺の問いに、彼女は少し驚いたように瞬きしたが、やがて静かに頷いた。「古い伝承なら、いくつか。でも、ほとんどお伽話ですよ」と彼女は言い、書庫の奥へと俺を案内した。

エラは、まだ『忘却の権利』を使ったことがない、この世界では稀有な人間だった。彼女は忘れることの便利さよりも、記憶が持つ重さと価値を信じていた。彼女と話すうち、俺の中で何かが変わり始めていた。石のように固まっていたはずの胸の奥が、微かに疼く。それは痛みにも似た、懐かしい感覚だった。

「あなたの肌、とても綺麗。でも、なんだか……哀しい色をしている」

ある日、エラが俺の手にそっと触れた。彼女の指先から伝わる温もりに、俺の身体が拒絶反応のように強張る。同時に、陶器の肌の奥深くで、今まで感じたことのない激痛が走った。人間としての感覚が、無理やり蘇ろうとしているかのような痛みだった。

俺は彼女の手を振り払うように身を引いた。

「……触るな」

冷たい声が出た。しかし、エラの瞳は少しも揺らがなかった。

第三章 世界の疵痕(きずあと)

世界の崩壊は、誰の目にも明らかになった。

空に硝子のひび割れのような亀裂が走り、そこから存在しないはずの色が滲み出している。人々は恐慌に陥り、その恐怖から逃れるために、さらに安易に『忘却の権利』を行使し始めた。隣人を、恋人を、そして恐怖そのものを忘れようとした。それは世界の傷口に塩を塗り込むような行為であり、崩壊を加速させるだけの悪循環だった。

街は断末魔の悲鳴に満ち、俺の周りには、無数の「忘却された存在」たちが幻影となって現れた。老婆が、兵士が、赤ん坊が、一斉に俺を指差し、声なき声で何かを訴えかけてくる。

「なぜ」「どうして」「返して」

無数の声が脳内で共鳴し、俺は膝から崩れ落ちた。陶器の身体が内側から砕け散るような激痛に、息もできない。

「カイ!」

エラの叫び声が、混沌の中から俺を現実に引き戻した。彼女が駆け寄り、一冊の古書を開いて俺に見せる。そこには、掠れたインクでこう記されていた。

『世界は記憶の糸で織られた織物である。忘却とは、その糸を一本ずつ断ち切る行為なり。糸が失われすぎた時、織物は解け、世界は無に帰す』

「そんな……」

俺は愕然とした。人々が安寧のために使っていた権利こそが、世界そのものを殺していたのだ。

その瞬間、俺のポケットでコンパクトミラーが灼熱を帯びた。慌てて取り出すと、鏡面が眩い光を放ち、俺とエラを包み込む。鏡には、もはや俺の顔は映っていなかった。そこに映っていたのは、天を突くほど巨大で、無数の眼と腕を持つ、名状しがたい不定形の『何か』。それは純粋な恐怖の化身であり、世界の理そのものであるかのような、圧倒的な存在だった。

そして、その巨大な影の姿が、鏡の中でゆっくりと俺自身の姿と重なっていくのが見えた。

すべてを理解した。俺が吸収し続けてきた「忘却の残滓」は、失われた世界の構成要素そのものだったのだ。俺は、世界の崩壊を繋ぎ止めるための、最後の楔だった。

鏡に刻まれた『忘れてはならない』という文字が、血のように赤く光っていた。

第四章 誰も覚えていない君へ

世界を救う方法は、一つしかなかった。

俺がこの身体に溜め込んだ全ての忘却の集合体と完全に同化し、かつて世界を安定させていたという『根源的な恐怖』として、自らを再構築する。人々がその存在を無意識に恐れ、そして「忘れる」ことで、世界の均衡は保たれる。俺という存在が、世界を維持するための新たな人柱となるのだ。

図書館の静寂の中、俺はエラに向き合った。空の亀裂は広がり、世界の終わりを告げる不協和音が響いている。

「行かなくちゃならない」

俺の言葉に、エラはすべてを察したように唇を噛んだ。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「嫌よ……あなたが消えてしまうなんて」

「消えるんじゃない。在り方が変わるだけだ」俺は、震える自分の手で、そっと彼女の頬に触れた。もう痛みは感じなかった。ただ、彼女の涙の熱だけが、無機質な指先に染み込んでいく。「エラ。君と出会えて、よかった。俺は、君のことは忘れない」

「私も……私も、絶対にあなたを忘れない!」

彼女は泣きじゃくりながら叫んだ。だが、俺たちは知っていた。俺が新たな『恐怖』となった瞬間、カイという存在は世界から完全に忘却される。それが、世界を救うための絶対条件なのだから。

俺は彼女に背を向け、コンパクトミラーを強く握りしめた。

「さよなら、エラ」

身体が内側から光を発し始める。陶器の肌に亀裂が走り、そこから無数の記憶の光が溢れ出す。俺の意識は溶け、拡大し、世界のすべてと一体になっていく。愛も、憎しみも、喜びも、悲しみも、全てが等価値な情報となり、俺という個を形作っていた輪郭が消えていく。最後に脳裏に浮かんだのは、涙に濡れたエラの顔だった。

――忘れてはならない。

その想いだけを胸に、俺は、俺ではなくなった。

世界は再構築された。空の亀裂は塞がり、街は元の穏やかさを取り戻した。人々は何事もなかったかのように日常を過ごしている。ただ、誰もが心のどこかに、説明のできない小さな空洞を抱えていた。何かとても大切なものを失ってしまったような、漠然とした喪失感。

図書館で、エラはふと我に返った。なぜ自分は泣いているのだろう。理由が思い出せないまま、頬を伝う涙を拭う。その時、彼女は机の上に置かれた一つの銀のコンパクトミラーに気づいた。見覚えのない、古びた鏡。

そっと手に取ると、蓋にか細い文字でこう刻まれているのが見えた。

『忘れてはならない』

彼女が不思議に思いながら蓋を開けると、鏡面には、一瞬だけ、哀しそうに微笑む青年の顔が映ったような気がした。

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