時紡ぐ屋敷の幻

時紡ぐ屋敷の幻

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第一章 静止した時計が刻む音

それは、いつものように規則正しく流れるはずの日常に、静かに、しかし決定的に亀裂を入れる一日だった。森本葵は、駆け出しの建築家として、古い建物のリノベーションを専門にしていた。彼女は合理主義者で、幽霊だの心霊現象だのといった類いの話は、物語の中だけのものと一蹴してきた。だが、その信念は、祖母が遺した屋敷の改修依頼を受けた日から、音を立てて崩れ始める。

屋敷は、都市の喧騒から隔絶された、鬱蒼とした森の奥にひっそりと佇んでいた。蔦に覆われた外壁は、まるで時間がそこで止まっているかのように見えた。玄関を開けた瞬間、カビと湿気、そして微かに古木の香りが鼻腔をくすぐる。内部は薄暗く、窓から差し込む光さえも、過去の亡霊のようにぼんやりと霞んでいた。

葵はまず、屋敷の構造を把握するため、図面を片手に各部屋を巡った。広いリビング、重厚な書斎、そして二階にはいくつかの寝室と、小さな子供部屋。どの部屋も、祖母が生きていた頃の面影を色濃く残していたが、壁の染みや剥がれた壁紙は、時が容赦なく流れていったことを物語っていた。

リビングの中央には、古びた振り子時計が置かれていた。長い間、時を刻むのをやめたのだろう、振り子はぴたりと止まったままだ。しかし、その時計を眺めていると、葵の耳に微かな「チクタク」という音が聞こえたような気がした。錯覚だ、疲れているんだ、と葵は首を振った。だが、その音は、彼女の意識の奥底に、小さなさざ波を立てた。

その日の午後、図面を広げてリビングで作業していると、再び奇妙な現象が起きた。静まり返った屋敷の中で、突然、軽やかな少女の笑い声が響いたのだ。透明で、しかし確かにそこに存在するような声。葵はぎょっとして顔を上げたが、当然ながら誰もいない。次に、部屋の奥から、カタカタと木製の玩具が動くような音が聞こえた。慌てて音のする方へ視線をやると、床に散らばったままだった古い積み木が、まるで誰かの手によって積み上げられているかのように、ゆっくりと、しかし着実に形を成しているように見えた。それは一瞬のことで、次の瞬間には積み木は再びバラバラになり、ただの古い木片に戻っていた。

葵の背筋に冷たいものが走った。幻覚?それとも、これは…?彼女は深呼吸をして、自分に言い聞かせた。「ただの気のせいだ。古い家屋は、どこかに隙間風が入ったり、木が軋んだりして、色々な音を立てるものだ。そして、積み木が動いたのは、きっと視覚の錯覚。疲労が溜まっているんだ。」

その日の夕方、彼女は荷物をまとめ、一度屋敷を出ようとした。しかし、玄関のドアに手をかけたその瞬間、背後から微かなピアノの旋律が聞こえてきた。それは、葵が幼い頃、祖母がよく弾いていた曲だった。慌てて振り返ると、リビングのグランドピアノの蓋が、まるで誰かに開けられたかのように、ゆっくりと上がっていくのが見えた。そして、そこに座る影はなかったが、鍵盤が、まるで幽霊の指に触れられたかのように、カチャリ、と鳴った。

その音は、葵の理性という堅固な壁に、初めて明確な亀裂を入れた。彼女は逃げるように屋敷を飛び出した。外に出ても、耳の奥にはあのピアノの音がこびりつき、脳裏には積み木が動く光景が焼き付いていた。これは、ただの気のせいではなかった。静止した時計の裏側で、何かが、時を刻み始めている。

第二章 繰り返される日々の影

次の日、葵は再び屋敷を訪れた。昨日の恐怖は依然として残っていたが、同時に得体の知れない好奇心も彼女を駆り立てていた。これは一体何なのか。科学では説明できない現象なのか。

屋敷に入ると、昨日と同じように、リビングの振り子時計は止まったままだった。しかし、葵は注意深く屋敷の様子を観察し始めた。そして、彼女はあるパターンに気づいた。

午前中、特定の時間になると、必ず子供部屋から少女の笑い声が聞こえる。そして、同じ時間に、リビングの積み木が動き出す。午後の遅い時間になると、書斎から紙をめくるような音と、男性の低い咳払いが聞こえる。夕方には、決まってあのピアノの旋律が、リビングから微かに響いてくるのだ。

それは幽霊の仕業というよりも、まるで、誰かの生活が「再生」されているかのようだった。しかも、その「再生」は、常に決まった順序、決まった時間に起こる。まるで、古いフィルムを巻き戻して再生しているような、奇妙な感覚だった。

葵は、その現象を記録し始めた。時間、場所、聞こえる音、見える光景。スケッチブックに屋敷の見取り図を描き、そこに現象の起こるポイントを記していく。そして、最も恐ろしい事実に直面した。それは、再生される「時間」が、まるで一本の映画のように、少しずつ進行していることだった。

ある日、葵は子供部屋でその瞬間を「目撃」した。床に置かれたロッキングチェアが、まるで誰かに揺らされているかのように、ゆっくりとギィギィと音を立てて動いていた。そして、その揺れる椅子の隣に、半透明の小さな影が見えた。それは、おそらく少女の姿で、無邪気に笑っているようだった。葵は息を殺し、その光景を見つめた。影は、ロッキングチェアに座ることはなく、ただその傍らで揺れる椅子を見つめ、笑っていた。その笑顔は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも儚かった。

次の日、ロッキングチェアは止まったままだったが、その代わり、部屋の隅にある古い木馬が、ギシギシと音を立てて揺れ始めた。そこにもまた、同じ少女の影が寄り添うように立っている。葵は、その光景をただ見つめることしかできなかった。彼女は、その「再生」される過去に、一切干渉できないことを悟った。触れることも、語りかけることもできない。ただ、その幽霊のように鮮明な過去を、オブザーバーとして見つめることしかできないのだ。

恐怖は、やがて困惑と、そして奇妙な親近感へと変わっていった。再生される日々の影は、祖母と祖父、そして彼らの幼い娘が、この屋敷で過ごした穏やかな日々だった。愛情深い両親と、無邪気な子供。葵は、その温かい光景に、なぜか胸が締め付けられるような切なさを感じた。

だが、その穏やかな再生の中にも、不穏な影が忍び寄っていた。ある日の夕方、リビングでピアノの旋律が鳴り響く中、葵は初めて、祖母と思われる女性の影を目撃した。彼女はピアノに向かい、鍵盤に指を置いている。その顔は悲しみに歪んでおり、彼女の指先から紡ぎ出される音は、昨日までの軽やかな旋律とは異なり、深く、哀愁を帯びていた。

そして、その日の夜、葵は夢を見た。夢の中で、彼女はこの屋敷のリビングにいた。外は嵐で、窓を叩く雨音が激しかった。雷鳴が轟き、屋敷全体が震える。そして、聞こえてきたのは、少女の激しい泣き声だった。葵は恐怖に駆られ、夢の中で目を開いたが、その光景はあまりにも現実的で、夢と現実の境界が曖昧になりかけていた。

第三章 過去と私を繋ぐ糸

屋敷で過ごす時間が長くなるにつれて、葵の心は、合理主義者の堅固な殻を破り、感受性の脆い部分を露わにしていった。再生される日々は、日を追うごとに鮮明さを増し、まるで葵自身がその時間に飲み込まれていくようだった。彼女はもはや、外部のオブザーバーではなく、その過去の物語の一部になりつつあった。

ある日、葵は書斎で、再生される光景に釘付けになった。祖父と思われる男性の影が、古い日記帳を前に、苦しそうにうつむいている。その横には、祖母と思われる女性が、悲痛な表情で座っていた。彼らの間で交わされる言葉は、葵には聞こえない。だが、その表情と仕草だけで、葵は彼らが深い悲しみの中にいることを悟った。そして、その悲しみの原因は、間違いなく「あの少女」に関係している。

葵は、祖父が書き記した日記帳を、実際に探し出して読んでみることにした。書斎の古びた本棚を探し回り、埃を被った日記帳を見つけた。それは、再生される過去の中で、祖父の影が手にしていたものと酷似していた。恐る恐るページをめくると、そこに記されていたのは、少女への深い愛情と、そして、突然訪れた悲劇への絶望だった。

日記には、祖父母の間に生まれた一人娘が、幼い頃に不慮の事故で命を落としたことが記されていた。それは、嵐の夜の出来事だった。少女は雷を怖がり、両親のベッドへ向かう途中で、階段から転落したのだという。祖父母の苦悩と、その後の深い喪失感が、痛いほど伝わってきた。そして、日記の最終ページに、祖父が記した言葉があった。「あの子の時間は、この屋敷で止まったままなのかもしれない。あの笑顔が、この家から消えることはないだろう。」

その言葉を読んだ瞬間、葵の頭の中に、電流が走ったような衝撃が走った。少女の笑い声、積み木が動く音、ロッキングチェアが揺れる光景。それらは、祖父母の深い悲しみが生み出した、失われた時間の再生だったのだ。そして、その再生された時間の中で、葵は自分自身に奇妙な既視感を覚えていた。少女の影が、まるで自分を見つめているかのように感じられたこともあった。

その日、リビングで再生された光景は、葵にとって決定的なものとなった。祖母の影が、ピアノを弾いている。その曲は、悲しみを湛えながらも、どこか諦めのような感情を含んでいた。そして、そのピアノのそばに、少女の影が立っていた。少女は、祖母の演奏に合わせて、くるくると楽しそうに回っていた。その顔は、これまでで最も鮮明に、葵の視界に映し出された。

その瞬間、葵は息をのんだ。

少女の顔は、自分自身の幼い頃の顔と、瓜二つだったのだ。

いや、瓜二つなどという生易しいものではない。それは、紛れもない、葵自身の顔だった。

「嘘…」

葵の口から、掠れた声が漏れた。

彼女の記憶の奥底に、長く封印されていた映像が、まるで屋敷の時間の再生に呼応するかのように、一気に蘇り始めた。

幼い頃、両親に連れられて、祖母の家によく遊びに来ていたこと。

あの嵐の夜、雷を怖がって、祖母の部屋へ向かおうとしたこと。

階段の暗がり。一歩、また一歩。そして、滑ってしまった、あの感覚…。

葵は、自分が祖父母の一人娘ではなく、娘が亡くなった後、彼らが深く悲しみに暮れている中で、心を閉ざした両親に代わり、幼い頃から祖母の愛情を一身に受けて育った、もう一人の孫だったことを思い出した。そして、あの嵐の夜、階段から転落したのは、少女ではなく、自分自身だったことを。しかし、その時、彼女は幸いにも命を取り留めた。ただ、その時のショックと、祖父母の深い悲しみ、そして両親の過剰な保護によって、その記憶は無意識のうちに封印されていたのだ。

再生されていた過去は、祖父母が亡き娘を想い、そして、もう二度と失いたくないと願った「孫である私」を、あの悲劇の日に重ね合わせ、記憶の中で「もしも」の時間を生きていたものだった。再生されていたのは、亡き娘の生きた時間、そして、祖父母が悲劇を乗り越え、孫娘である葵を慈しんだ、その「記憶の時間」の断片だったのだ。

葵は、その場で膝から崩れ落ちた。恐怖よりも、胸を締め付けるような切なさと、深い愛に包まれていた。これはホラーではなかった。これは、祖父母が紡いだ、悲しみと、そして途方もない愛の物語だったのだ。

第四章 時間の果て、記憶の再生

葵が、失われた記憶と再生される過去の真実に直面したその日を境に、屋敷の雰囲気は一変した。少女の笑い声は、もはや恐怖の源ではなく、愛おしい記憶の響きとなった。積み木が動く音、ロッキングチェアが揺れる姿、ピアノの旋律。それら全てが、祖父母の、そして幼い自分の、生きた証のように感じられた。

彼女は、改修作業を中断し、祖父の日記帳を読み返した。そこには、亡き娘への追悼の言葉と共に、回復した葵への深い愛情と、彼女がこの家にもたらした光への感謝が綴られていた。祖父は、葵の成長を見守る中で、娘の死の悲しみを少しずつ乗り越えていったのだ。そして、この屋敷は、その二つの時間が、交錯し、融け合う場所だった。

ある日の夕暮れ、リビングの窓から夕陽が差し込み、部屋全体を黄金色に染めていた。振り子時計は、相変わらず止まったままだ。葵は、ピアノの前に座り、祖母が弾いていたあの旋律を、ゆっくりと奏で始めた。たどたどしい指の動きだったが、音色は、不思議と屋敷の空気に溶け込んでいった。

すると、ピアノの音が響く中、これまでで最も鮮明な「再生」が始まった。

祖母の影が、葵の隣に座り、優しく微笑んでいる。そして、その前に、少女の影が、楽しそうにくるくると回っている。三人の「時間」が、まるで一枚の絵のように、そこに存在していた。

それは一瞬の幻影だったかもしれない。だが、葵には、確かに祖母の温かい手が、自分の手を包み込むような感覚があった。そして、少女の笑い声が、耳元ではっきりと聞こえたような気がした。

その光景が薄れていくと同時に、屋敷の奇妙な現象は、ぴたりと止まった。

少女の笑い声は聞こえなくなった。積み木は動かず、ロッキングチェアも揺れない。ピアノは静かにそこに佇んでいる。

止まっていた振り子時計の針が、微かに、しかし確かに、カチリ、と音を立てて動き出した。

葵は、屋敷の改修を続けた。しかし、それはもう、ただの古い家を新しい空間に変える作業ではなかった。それは、祖父母の愛と悲しみ、そして自分の失われた記憶を修復し、未来へと繋ぐ、聖なる儀式のようなものだった。彼女は、この屋敷が、決して忘れられることのない「記憶の回廊」として存在し続けることを望んだ。

改修を終えた屋敷は、明るく、風通しの良い、しかしどこか懐かしい温かさを湛えた空間となった。だが、葵はリビングの振り子時計を修理することはなかった。止まったままの時計は、あの「再生された時間」と、祖父母の深い愛、そして、彼女自身の再生の物語を象徴する、永遠の記念碑となったのだ。

屋敷を出る前、葵はリビングの中央に立ち、深呼吸をした。そこには、もう恐怖も、謎もなかった。ただ、過ぎ去った時間と、そこにあったはずの無数の感情が、空気の中に確かに息づいているような感覚だけが残っていた。

ホラーとは、未知の恐怖に直面することだと思っていた。しかし、真の恐怖は、自分自身の奥底に隠された真実と向き合うことだったのかもしれない。そして、その真実が、時として、最も深い悲しみと、そして最も偉大な愛を教えてくれることを、葵は知ったのだ。

屋敷のドアを閉め、鍵をかけた。森の木々が、風に揺れてざわめく。それは、止まっていた時間が、再び動き出したことを告げるかのような音だった。彼女の心には、過去の重荷はもうない。ただ、祖父母から受け継いだ、途方もない愛と、生き続ける記憶の暖かさが、静かに、しかし確かに、灯されていた。

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