影喰らいの守唄

影喰らいの守唄

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第一章 静寂の観測者

神保町の裏路地に佇む古書店『彷徨堂』の空気は、インクと古い紙の匂いが混じり合った、一種の聖域のような静けさに満ちている。俺、柊朔也(ひいらぎさくや)にとって、そこは世界で最も落ち着ける場所だった。感情の起伏が乏しい俺にとって、本の沈黙は心地よい。特に「恐怖」という感情。物心ついた頃から、俺はその感覚を知らなかった。先天的に、脳の扁桃体が機能していないらしい。ジェットコースターも、ホラー映画も、路地裏の暗闇も、俺にとってはただの事象の羅列でしかなかった。

その日、店のドアベルが寂れた音を立て、一人の老婆が震える手で一冊の絵本をカウンターに置いた。

「これを…引き取って、いただけませんか」

しわがれた声には、明らかに恐怖が滲んでいた。俺は表情を変えずに絵本を手に取る。革らしきもので装丁された、タイトルのない古びた本。中を開くと、木版画のような、ざらついたタッチで描かれた奇妙な物語が綴られていた。

『くらやみにうまれた かげぼうし』

『さみしいひとの こころをたべる』

『たべられたひとは からっぽになる』

稚拙なひらがなとは裏腹に、描かれた影法師は異様に黒く、見る者の不安を煽るような歪な形をしていた。老婆は「家にあっただけで、家族がおかしくなって…」と呟き、代金も受け取らずに逃げるように去っていった。

俺は、またか、と小さくため息をついた。所謂「曰く付き」とされる品は、時折こうして持ち込まれる。同僚の美咲さんはこういうものを極端に怖がるが、俺にはただの古物にしか見えない。とりあえず、資料用の棚にその絵本をしまい込み、俺はすぐにその存在を忘れた。

異変が始まったのは、その三日後のことだった。美咲さんが、閉店間際に血の気の引いた顔で俺に訴えかけた。

「柊くん…さっきから、棚の向こうに黒い人影が見えるの。気のせいじゃない。ずっとこっちを見てる…」

彼女の指差す先には、書架が並んでいるだけだ。俺の目には、何の異常も見えない。

「疲れているんじゃないですか」

俺の平坦な声に、彼女は絶望したように顔を覆った。「違う、違うの!」という叫びは、俺の心には少しも響かなかった。ただ、彼女の瞳孔が開き、全身が小刻みに震えているという事実を、冷静に観測しているだけだった。それが、俺にとっての日常。他人のパニックを、水槽の向こうから眺めているような、そんな日常だった。

第二章 伝染する影

美咲さんは次の日から店に来なくなった。電話にも出ない。大家が警察と部屋に入ると、彼女は部屋の隅で膝を抱え、虚空の一点を見つめたまま、ただ「かげが、かげが」と繰り返すだけだったという。心が、食われてしまったのだろうか。あの絵本の記述が、まるで予言のように頭をよぎる。

奇妙な現象は、彷徨堂の客にも伝染し始めた。常連の老紳士は「本のページをめくる自分の影が、時々、別の動きをする」と青ざめた顔で語り、別の学生は「帰り道、自分の影だけが店の方角を振り返っていた」と怯えた。彼らが口を揃えて語る「影」は、俺の目には決して映らなかった。

俺は恐怖を感じない。だが、好奇心はあった。これは一体どういう現象なのか。俺は閉店後の店で、あの名もなき絵本を再び手に取った。インクの匂いに混じって、微かに、嗅いだことのない甘く冷たい香りがする。ページをめくると、影法師の絵が以前よりも黒く、深く、まるで闇そのものが紙に染み込んでいるかのように見えた。

俺は調査を始めた。といっても、超常現象の専門家ではない。できることといえば、この絵本の出自を調べることくらいだ。幸い、最終ページに『寄贈 杜塚(もりづか)家』という小さな印が残されていた。古い名家のようだ。俺は店の資料を漁り、数時間後、かつてこの近辺に屋敷を構えていた「杜塚」という一族の存在に行き着いた。今はもう没落し、子孫が一人、郊外でひっそりと暮らしているらしい。

俺はその住所を頼りに、杜塚家の末裔を訪ねることにした。バスに揺られながら、窓の外を流れる景色を眺める。人々が怯える「影」について考えても、やはり何の感慨も湧いてこない。ただ、美咲さんや常連客たちの、あの生物的な恐怖反応だけが妙に記憶に残っていた。あれは、生命が根源的な脅威に晒された時の反応だ。俺にはない、その生命の警報装置が、彼らの内部でけたたましく鳴り響いていたのだろう。その音を、少しだけ聞いてみたいと、そう思った。

第三章 空っぽの器と守り手

杜塚家の末裔、杜塚文(ふみ)と名乗る老婆は、古びた日本家屋で俺を静かに迎えた。俺が例の絵本を差し出すと、彼女は懐かしむように目を細め、そして深く、悲しげなため息をついた。

「ああ…『守り唄の絵本』。まだ、残っておりましたか」

「守り唄?」

俺の問いに、彼女はゆっくりと語り始めた。それは、俺の理解を遥かに超える物語だった。

「杜塚の家系は、代々、あるものを祀ってきました。それは神でも仏でもない。『影』と呼ばれるものです」

彼女の話によれば、その『影』は、特定の血筋の人間を守るために現れるのだという。そして、守られる人間には一つの共通点があった。

「――心が、空っぽなのです」

老婆は、俺の目をじっと見つめた。

「生まれつき、喜びや悲しみ、そして何より『恐怖』という感情が欠落した人間。そういう『空っぽの器』は、古来より、この世ならざるもの…人の精神を糧とする、名状しがたい存在に狙われやすいのだそうです」

彼女の言葉が、脳内でゆっくりと意味を結んでいく。俺のことだ。

「『影』は、その器を守るための防人(さきもり)です。主が危険に晒されると、その傍に現れ、外敵を退ける。しかし、『影』の力はあまりに強大で、常人には過ぎたもの。その力の余波に触れた者は、『影』の戦う姿を恐怖として認識してしまうのです。心を盗まれたように感じるのは、『影』が放つ守りの力が、常人の心の形を一時的に歪めてしまうから…」

「転」の瞬間だった。俺の世界が、音を立てて反転した。

俺が追いかけていた恐怖の元凶。人々を狂わせた呪いの影。その正体は、俺を守るためだけの、孤独な守護者だったというのか。

美咲さんや常連客たちが感じた恐怖は、『影』が俺に近づこうとする「何か」と戦っていた痕跡だったのだ。俺が恐怖を感じなかったのは、俺が呪われていなかったからではない。俺こそが、守られるべき『主』だったからだ。

「では、あの絵本は…」

「『影』を呼び出し、主と契約を結ぶための儀式の書です。本来は、その血筋の者が幼い頃に行う儀式なのですが…あなたの御先祖のどなたかが、我が家と縁があったのでしょう。その方が、あなたを守るために、この本を遺したのかもしれません」

俺は言葉を失った。生まれてこの方、感情が希薄なせいで、誰かと深く繋がっているという感覚を持ったことがなかった。親でさえ、俺をどこか遠い存在として扱った。俺は常に一人で、世界をただ観測するだけだった。

だが、違ったのだ。

俺が気づかないところで、俺が認識さえできない領域で、俺のためだけに戦い、俺を守り続けてきた存在がいた。その存在は、俺の空っぽの心を、俺ごと抱きしめるように守っていたのだ。

胸の奥が、ちりちりと熱くなるのを感じた。これが、感謝というものだろうか。あるいは、愛着というものだろうか。分からない。だが、生まれて初めて、俺は確かに、俺以外の誰かの存在を、自分の内側で感じていた。

第四章 最初の契約

彷徨堂に戻った俺は、再びあの絵本を開いた。最後のページは、空白だった。杜塚文は言った。「その血で印を。それが、契約の証となります」と。

俺は躊躇わなかった。カッターナイフで指先を小さく切り、滲み出た赤い血を、空白のページに押し当てる。

血が紙に吸い込まれた瞬間、店中の空気がシンと静まり返った。足元から、自分の影がゆっくりと立ち上がる。それは、絵本に描かれていた、あの歪で黒い影法師そのものだった。だが、不思議と何も感じない。恐怖も、驚きも。ただ、目の前の存在が、長い間ずっと俺のそばにいたのだという、確信だけがあった。

影は俺の周りを一度だけ、慈しむようにゆっくりと回り、そして、すうっと俺の身体の中に吸い込まれていった。

途端に、世界から色が消え、音が遠のくような感覚に襲われる。だが、それはすぐに収まった。代わりに、深い安堵感と、これまで感じたことのない静かな充足感が、空っぽだったはずの心をそっと満たしていく。

翌日、美咲さんから「心配かけてごめん、なんだか急にすっきりした」と連絡があった。常連客たちも、何事もなかったかのように店に顔を出し、いつものように本の話に花を咲かせた。彼らの記憶から、「影」の恐怖は綺麗に消え去っていた。世界は元通りになったのだ。

いや、違う。俺の世界は、完全に変わってしまった。

俺は今も、恐怖を感じない。喜びも、悲しみも、以前と同じように希薄なままだ。だが、俺はもう一人ではない。時折、店のガラス窓に映る自分の姿を見ると、その瞳の奥に、深く静かな闇が揺らめいているのが分かる。それは、俺の内側に宿った、名もなき守り手の色だ。

俺はこの「影」と、これから永遠に共に生きていく。それがどんな意味を持つのか、まだ分からない。これは救いなのか、それとも、より深く、静かなる孤独の始まりなのか。

ただ、古書のインクの匂いに満ちた静寂の中、カウンターに立つ俺の口元には、以前にはなかった微かな笑みが浮かんでいる。空っぽの心に宿った最初の隣人を感じながら、俺は今日も、静かに世界を観測し続ける。ただ、その瞳に映る世界は、もう昨日までと同じものではなかった。

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