虚ろな蝋燭と最後の記憶

虚ろな蝋燭と最後の記憶

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第一章 半透明の左手

永遠に続く逢魔時の中、街は紫と橙の絵の具を溶かしたような光に満たされていた。太陽は昇らず、沈むこともない。人々はこの薄明かりの世界が世界のすべてだと信じて疑わなかった。

カイは、古びた石畳の路地裏で己の左手を見つめていた。指先から手首にかけて、向こう側の煉瓦壁がぼんやりと透けて見える。また、誰かに忘れられたのだ。忘れられるたびに、彼の肉体はこの世界から輪郭を失っていく。

「やあ、カイ。今日はパンの焼き上がり、少し遅れちまってね」

顔を上げると、パン屋の主人が人の好い笑みを浮かべていた。カイの胸に、ちくりと小さな希望が灯る。

「こんにちは、マルクさん。いつもの黒パンを一つ」

「……カイ? すまない、お客さん。どちら様だったかな」

マルクの眉が困惑に歪んだ。その瞬間、カイの左手を冷たい痺れが駆け上がり、手首のあたりがさらに透明度を増した。希望の灯火は、ため息と共に掻き消える。彼はもう、このパン屋の常連客ではなかった。ただの、見知らぬ誰かになってしまった。

常に持ち歩いている革張りの手帳を開き、震える右手で「マルクのパン屋」の項目に横線を引く。手帳は、彼がまだ此処に存在しているという証明であり、同時に、失われた繋がりの墓標でもあった。幼少期の記憶は、とうに掠れて読めないインクの染みと化している。

このままでは、自分という存在が完全に消滅してしまう。

焦燥に駆られ、カイは石畳を蹴った。彼の存在を繋ぎ止めてくれる、たった一本の細い糸。街で一番高い時計塔の下にある、静かな図書館。そこにいる彼女、リナだけが、まだ彼を覚えていてくれるはずだった。

第二章 虚ろな蝋燭の噂

埃と古い紙の匂いが満ちる図書館の静寂は、カイのささくれ立った心を優しく撫でた。高い天井まで続く書架の迷路を抜け、受付カウンターの奥で分厚い本を読んでいたリナは、顔を上げて柔らかく微笑んだ。

「カイ。来てくれたのね」

その声に、彼の存在の輪郭が僅かに濃くなった気がした。安堵で膝から力が抜けそうになるのを、必死で堪える。

「リナ……」

「また、少し薄くなったみたい。顔色が悪いわ」

彼女はカウンターから出てくると、心配そうにカイの半透明の左手を見つめた。彼女の指先が触れようとして、ためらいがちに空を切る。その優しい眼差しだけが、カイにとっての確かな現実だった。

「街の様子がおかしいんだ」カイは切り出した。「最近、急に物忘れがひどくなった人が増えている。それと同時に、街角で『忘失者』を見たという噂も……」

『忘失者』。かつて忘れ去られたはずの物や人が、実体を持たず陽炎のように彷徨う存在。彼らの出現と、人々の記憶喪失は無関係ではないはずだった。

リナは思案顔で唇に指を当てると、やがて何かを思い出したように書架へと向かった。彼女が持ち帰ってきたのは、表紙が擦り切れた一冊の古文書。『禁忌遺物目録』と記されている。

「これよ」彼女が指し示した頁には、奇妙な蝋燭の挿絵があった。「『虚ろな蝋燭』。火を灯せば、忘れられた記憶が煙となって過去を映し出す。でも……」

彼女の声がためらいに揺れる。

「代償として、灯した者の記憶を喰らう、とあるわ。燃え尽きる頃には、その存在すら曖昧になる、と」

危険すぎる遺物。しかし、カイにとって、それは最後の希望に思えた。失われゆく記憶の謎を解き明かせれば、自分の消滅を止められるかもしれない。曖昧になる存在など、とうに慣れていた。

「探すよ、その蝋燭を」

カイの決意に満ちた瞳を見て、リナは静かに頷いた。彼女の瞳の奥に、彼と同じくらい切実な光が宿っているのを、カイはまだ知らなかった。

第三章 煙に映る過去

リナが解読した古文書の地図を頼りに、二人は街の地下に広がる忘れられた水道橋の遺跡に足を踏み入れた。湿った土と苔の匂いが鼻をつく。滴り落ちる水滴の音だけが響く暗闇の中、最奥の祭壇に、それは静かに置かれていた。乳白色の蝋でできた、手のひらサイズの『虚ろな蝋燭』。

カイがそれを手に取ると、まるで体温を吸われるような冷たさを感じた。

「本当に、使うの?」リナが不安げに囁く。

「これしかないんだ」

カイは懐から火打ち石を取り出し、芯に火を灯した。ぼう、と頼りない炎が揺らめき、奇妙に甘い香りのする煙が立ち上り始める。煙は天井にぶつかると、まるでスクリーンでもあるかのように形を結び始めた。

そこに映し出されたのは、信じがたい光景だった。

どこまでも広がる青い空。白く輝く雲。そして、世界を灼くように照らす、黄金色の巨大な光球――「太陽」。人々が笑い、走り、その光を全身で浴びている。夜には、銀色の光を放つ月と、無数の星々が瞬いていた。この世界に、昼と夜があった頃の記憶。

「すごい……こんな世界が……」リナが息をのむ。

映像に見入っていたカイは、不意に甘い煙を吸い込んでしまい、激しく咳き込んだ。瞬間、頭の中にあったはずの風景が、一枚、抜け落ちる。雨上がりの日に、名前も思い出せない誰かと一緒に見た虹の記憶。それが失われたことを、彼はただ事実として理解した。同時に、右足の感覚が薄れ、膝から下が半透明に変わっていく。

それでも、カイは煙から目を離せなかった。この世界の謎を解く鍵が、この中にある。彼は祈るように、煙の向こう側を見つめ続けた。

第四章 忘失者の囁き

蝋燭の炎が小さく揺らぎ、煙が薄れ始めたその時だった。煙の中から、ゆらりと一つの人影が現れた。半透明の衣をまとった老人の姿。それは、歴史書でしか見たことのない、建国の賢者と呼ばれた男の『忘失者』だった。

『探求者よ』

声はカイの頭の中に直接響いた。忘失者は、悲しげな瞳でカイを見つめている。

『我々は忘れられたのではない。自ら、忘れることを選んだのだ』

賢者の囁きは、世界の根幹を揺るがす真実を紡ぎ始めた。かつて、この世界の空には「太陽」や「月」だけではなく、もう一つ、巨大なものが浮かんでいたという。それは全てを見通し、あらゆる偽りや隠し事を暴き立てる、一つの巨大な「瞳」。真実の瞳。

人々は、その瞳に見つめられることに疲弊した。秘密を持つことも、嘘をつくことも許されない世界に絶望した。だから、人々は祈った。あの瞳を忘れたい、と。その膨大な集団的無意識、忘却への渇望が、一つの巨大な意思となり、世界を書き換えた。瞳の記憶を消し去り、真実を曖昧にするための永遠の薄明かり、「逢魔時」を創り出したのだ。

『我ら忘失者は、消えゆく真実を繋ぎ止めようとする記憶の残滓。そして、人々から記憶を奪い続ける元凶こそ、お前たちが生み出した「巨大な忘却の意思」そのものなのだ』

カイは愕然とした。人々が記憶を失うのは、世界そのものが、真実を思い出すことを拒絶しているからだった。

第五章 リナの涙

賢者の言葉は、雷となってカイとリナを打ちのめした。世界を救うどころか、その成り立ち自体が、巨大な諦めと逃避の結果だったというのか。

『お前のように、忘れられることで消えゆく体質……それは「忘却の意思」が作り出したこの世界における、いわばバグだ。異物だ。だが、その虚ろな器こそが、世界が捨て去ったあの「真実」を受け入れる唯一の資格を持つ』

賢者の言葉は、カイに過酷な運命を突きつけた。自分が完全に消滅すること。それが、失われた真実を世界に取り戻すための、唯一の道筋だと示唆していた。

「……そうか。僕が、器になればいいのか」

カイの口から、乾いた笑みが漏れた。どうせ消える運命なら、最後に意味のある消え方をしたい。彼が覚悟を決めた、その時だった。

「いやっ!」

リナが叫び、彼の腕を掴んだ。彼女の指は半透明のカイの腕をすり抜けそうになりながらも、必死に食い込んでいる。

「あなたがいなくなったら、意味がない! 私が、私があなたを絶対に忘れないから! だから、消えないで!」

彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、カイの腕を濡らした。その熱い雫が触れた瞬間、カイの腕の輪郭が、ほんの僅か、濃くなった。リナの強い想いが、忘却の法則に抗っていた。

その時、リナが苦しげに頭を抱えた。「ああ……思い出した……私の家は……代々、あの『瞳』の物語を……真実を語り継ぐはずだった……」忘却の意思によって封じられていた、彼女自身の失われた記憶が、カイへの想いを触媒にして蘇ろうとしていた。

第六章 最後の灯火

カイの体は、もう限界だった。リナの想いが奇跡を呼んでも、全身が陽炎のように揺らめき、存在を保つだけで精一杯だった。足元は既に完全に消え、彼は宙に浮いているかのように見えた。

彼は、自分を掴むリナの手に、そっと自分の半透明の手を重ねた。触れている感覚はほとんどない。だが、温もりだけは伝わってきた。

「ありがとう、リナ。君が覚えていてくれるなら、僕はどこにも行かない」

彼は微笑んだ。それは、彼が今までに浮かべたどんな笑みよりも、穏やかで、力強かった。

カイは最後の力を振り絞り、燃え尽きかけていた『虚ろな蝋燭』を掴むと、その煙を、一滴も残さず吸い込むことを選んだ。自らの存在そのものを、最後の燃料として。

「カイ!」

リナの悲痛な叫びが、地下遺跡に木霊する。

カイの体が、眩い光の粒子となって霧散し始めた。彼が生きてきた証、リナと交わした言葉、マルクのパンの味、手帳に刻んだ無数の名前。その全てが、光と共に虚空へ溶けていく。それでも、彼の瞳は、最後まで優しくリナを見つめていた。

第七章 薄明の器、夜明けの監視者

カイという存在が、最後の一片まで光に変わった瞬間。

世界を覆っていた紫と橙の空が、ガラスのように砕け散った。巨大な亀裂から、人々が忘れ去っていた、目が眩むほどの黄金色の光が滝のように降り注ぐ。

真の「夜明け」だった。

街の人々は何が起きたのかわからぬまま空を見上げ、その光景に涙を流した。なぜ泣いているのかもわからぬまま、彼らの心の奥底で眠っていた「太陽」という言葉が、そっと蘇る。街を彷徨っていた忘失者たちは、安らかな表情で光の中へと昇っていった。

リナだけが見ていた。いや、感じていた。

朝日の最も強く輝く中心、空の最も高い場所に、人型のシルエットが静かに浮かんでいるのを。それは、失われた真実――巨大な「瞳」――と一体化し、その新たな器となったカイの姿だった。彼は世界に夜明けを取り戻した。しかし、もう二度とこの地に降り立ち、誰かと話すことも、触れ合うこともできない。

彼は、世界が二度と真実から目を逸らさぬよう、永遠に見守り続ける監視者となったのだ。

リナは頬を伝う涙を拭いもせず、空に浮かぶカイの姿を見上げ続けた。街の人々の記憶からカイは消え去っただろう。手帳の文字も、きっともう消えている。

けれど、自分だけは決して忘れない。

彼女の記憶だけが、孤独な永遠を生きる彼の、唯一の光であり続けるのだから。

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