影触れのエレジー

影触れのエレジー

1 3862 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:

第一章 煤けた街の影触れ

俺、カイの手には、忌まわしい祝福が宿っている。他人の影に触れると、その持ち主が死んだ時、その瞳が最後に捉えた光景が見えるのだ。ほんの数秒、脳を焼く閃光のように。

俺たちの住むこの煤けた街では、誰もが死者を忘れるために必死だった。それが理(ことわり)だからだ。愛した者の名を呼び、その温もりを記憶の底から手繰り寄せれば、死者は『影』となって蘇る。そして、忘れない者を喰らい尽くすまで、その傍を離れない。だから人々は墓も建てず、思い出話もせず、ただ無情に、昨日まで笑い合っていた隣人を記憶から削り取っていく。忘却こそが、この世界で生きるための唯一の祈りだった。

湿った石畳の路地裏。誰かが落としたのだろう、黒い手袋が水たまりに半分浸かっている。その震えるような影に、俺の指先が不用意に触れてしまった。

瞬間、世界が白く染まる。

―――老いた、皺だらけの指。その指が、小さな子供の柔らかい手を必死に握っている。窓から差し込む夕陽が、その二つの手を黄金色に照らし出していた。聞こえるはずのない赤子の産声が、鼓膜を震わせる。それは絶望ではない。命の連鎖を見届けた、安堵と歓喜に満ちた、最期の光。

幻視は数秒で消え、目の前には薄汚れた路地裏が戻ってくる。俺は壁に手をつき、荒い息を吐いた。今のは、おそらく数日前に死んだ老婆のものだろう。彼女は孫の誕生を見届けて逝ったのか。だが、その幸福な記憶さえ、今頃は家族によって必死に忘れ去られようとしている。俺の脳裏に焼き付いた『最後の光景』だけが、彼女が生きた証として、この世に虚しく漂っていた。

第二章 忘れられた者の囁き

「また、視たのかね」

街の片隅で古物商を営む老婆、エラが、濁った瞳で俺を見つめていた。彼女は、この世界の法則に公然と疑問を呈する数少ない人間だった。人々が死者を忘れる儀式のように過去を語らなくなったせいで、彼女の店に並ぶ古びた品々は、持ち主の記憶を失ったただのガラクタになり果てていた。

エラは店の奥から、布に包まれた四角い何かを持ってきた。埃っぽい匂いと、微かにインクのような香りが混じり合う。

「カイ、これに触れてみておくれ」

差し出されたのは、手のひらほどの大きさの、煤けた石版だった。表面は滑らかだが、無数の細かい傷が刻まれている。一見すると、ただの古い石にしか見えない。

俺は躊躇った。得体の知れない物に触れるのは危険だ。だが、エラの真剣な眼差しに抗えず、恐る恐る指先でその冷たい表面をなぞった。

閃光。しかし、それは今まで経験したことのないものだった。

一つの光景ではない。無数の、何千、何万という『最後の光景』が、濁流となって脳内に叩きつけられる。戦場で槍に貫かれながら見上げた曇り空。荒波に飲まれる船から見えた灯台の光。愛する者に看取られながら閉じていく視界の隅に映る涙。名も知らぬ人々の、おびただしい数の死、死、死。叫び声も上げられず、俺はその場に膝から崩れ落ちた。

「これは…なんだ…」

「『忘れられた者たち』の墓標だよ」

エラは静かに言った。「忘れ去られ、影にさえなれずに消滅する魂が、最後の最後に遺した記憶の欠片。この石版は、それを吸い寄せ続けているのかもしれない」

第三章 影喰らいの夜

その夜、街に警鐘が鳴り響いた。甲高く、不安を掻き立てる金属音。『影喰らい』の発生だ。

人々は窓を固く閉ざし、息を潜める。俺は音のする方へ、衝動的に駆け出していた。

現場はパン屋の裏手だった。人だかりの向こう、壁にもたれかかるようにして、一人の女がぐったりとしていた。その傍らには、陽炎のように揺らめく人型の『影』が佇んでいる。影は、数日前に病で死んだパン屋の息子、リオのものだった。母親が、最愛の息子を忘れられなかったのだ。

衛兵が制止する声も聞かず、俺は人垣をかき分けて前に出た。影は母親の肩に黒い手を置き、その生命力をゆっくりと吸い上げている。母親の顔は苦悶に歪んでいたが、その瞳にはどこか安堵の色さえ浮かんでいた。忘れなければならない苦しみから、ようやく解放されるのだ。

「やめろ!」

俺は叫び、母親を影から引き剥がそうとした。その瞬間、俺の指が、母親の冷たい腕の『影』に触れた。

―――視界が反転する。リオの好きだった焼き立てのパンの香り。枕元で、日に日に痩せていく息子の寝顔を、ただ黙って見つめている夜。忘れないと、自分が喰われる。分かっている。なのに、脳が拒絶する。あの子の笑い声を、温もりを、どうして忘れられる? 忘れなければ。忘れたくない。忘れない。忘れたく、ない。相反する感情の嵐の中で、母親の意識がゆっくりと闇に沈んでいく。それが、彼女の『最後の光景』だった。

俺は地面に拳を叩きつけた。これは間違っている。愛する者を記憶に留めることが、なぜ罰せられなければならない? 悲しむことさえ許されないこの世界は、あまりに歪で、残酷だ。

第四章 石版の真実

エラの店に戻った俺は、衝動のままに『煤けた石版』を掴んだ。怒りと疑念が、俺の能力を増幅させているのが分かった。もっと深く、もっと奥へ。この石版の、そしてこの世界の真実を知らなければならない。

俺は石版に額を押し当て、意識の全てを集中させた。断片的な死の光景が再び押し寄せる。だが俺はそれに耐え、さらに深層へ、記憶の源流へと潜っていった。

すると、不意に光景が変わった。

見えたのは、個人の死ではない。古代のローブを纏った賢者たちが、巨大な円卓を囲んでいる。彼らの顔は悲しみと疲弊に満ちていた。世界は、愛する者を失った人々の『悲しみ』が生み出す負のエネルギーによって、崩壊寸前だったのだ。人々は悲しみのあまり狂い、争い、世界そのものを蝕んでいた。

賢者の一人が、震える声で言う。

『悲しみの源は記憶だ。ならば、我々は世界から死の記憶を消し去るしかない』

『それは人の心まで奪うことになるぞ!』

『だが、世界が滅ぶよりはいい! 我々の手で、理を書き換えるのだ。死者は忘れられ、記憶は封じられる。それが、我々が生者を守るための…最後の光だ』

彼らが作り出した巨大な術式の中核に置かれたのが、この『煤けた石版』だった。それは忘れられた記憶を吸収し、忘却の法則を世界に固定する『楔』。

そして賢者たちが術を完成させ、自らの命が尽きる瞬間――彼らの瞳が最後に見た光景は、悲しみから解放され、平穏を取り戻した未来の世界の幻だった。彼らの善意と犠牲が、この歪んだ世界を創り上げていた。

『最後の光景』は、忘れられた死者の記憶の断片であり、同時に、この忘却という名の牢獄からの解放を願う、魂の無言の叫びだったのだ。

第五章 忘却の解放

「カイ、やめるんだ! それを壊せば、世界がどうなるか!」

真実を知った俺が、石版を手に街の中心にある鐘楼へ向かうと、エラが血相を変えて追いかけてきた。

「分かってるさ、エラ。でも、もうたくさんだ」

俺は鐘楼の最上階へ駆け上がった。眼下には、死の匂いを消し去り、感情を押し殺して生きる人々がいる。

「悲しむことは、罪じゃない。愛したことを忘れるなんて、生きているとは言えない!」

俺は石版を祭壇に置き、両の手をかざした。自分の命を、能力の全てを注ぎ込む。石版に刻まれた無数の影が、俺の呼びかけに呼応するように蠢き始めた。

「思い出せ!」

俺は叫んだ。

「愛した者の名を! 交わした言葉を! その温もりを! 悲しみを! 怒りを! その全てを、思い出せ!」

石版が甲高い悲鳴を上げた。表面に亀裂が走り、内側から眩い光が溢れ出す。世界を覆っていた灰色の空がガラスのように砕け散り、そこから、本来の世界の色が、奔流となって降り注いできた。

忘却の法則が、破壊された。

第六章 永遠の光景

解放は、救いではなかった。

法則の楔が砕け散った瞬間、忘れ去られていた全ての死者が、一斉に『影』となって蘇った。それは街の死者だけではない。この土地で、この国で、この星で、悠久の時の流れの中で忘れられていった、億、兆、京を超える無数の魂。

世界は瞬く間に、人の形をした影で埋め尽くされた。

それは恐怖ではなかった。影たちは生者を襲わず、ただ静かにそこに佇んでいる。しかし、その存在そのものが、膨大な記憶と感情の奔流だった。生者たちは、愛した祖母の影、憎んだ父親の影、歴史上の英雄の影、顔も知らぬ異国の兵士の影に囲まれ、その全ての記憶を否応なく共有させられる。

俺の視界もまた、無限の光景に塗り潰されていく。

産声を上げながら死んだ赤ん坊が最後に見た、母親の涙に濡れた笑顔。

裏切り者の刃に倒れながら見た、親友の歪んだ顔。

老衰で静かに目を閉じながら見た、天井の木目の染み。

喜び、悲しみ、怒り、安堵、後悔、絶望。あらゆる死が、あらゆる最後の光景が、同時に、永遠に、俺の意識の中で再生され続ける。

生と死の境界は完全に溶解した。世界は、全ての存在が互いの死を見つめ、感じ続ける、巨大な一つの意識体へと変貌した。

俺自身も、その混沌の一部と化した。自らが解放したかった悲しみと、その根源である無数の死の光景を、永遠に見続ける。

これが俺の選択がもたらした結末。

静かで、美しく、そして終わることのない、地獄だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る