虚ろのパレット

虚ろのパレット

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第一章 無色の染み

俺、蒼井湊(あおいみなと)の世界は、常に余計な色で溢れていた。それは比喩ではない。俺には、他人が抱く恐怖が「色」として見える。怒りから派生する恐怖は、傷口から滲む血のような粘ついた赤。未知への不安は、深海の底を思わせる冷たい紺碧。生理的な嫌悪感は、腐った葉のような煤けた緑。街を歩けば、人々の恐怖が作ったけばけばしい色彩の洪水が、俺の視界を汚染する。だから、俺は世界を嫌っていた。色彩を扱うデザイナーという仕事に就いたのは、皮肉以外の何物でもなかった。

そんな俺の世界に、唯一、ほとんど色のない場所があった。それが、恋人である月島響子(つきしまきょうこ)の隣だった。彼女は、まるで春の陽だまりそのもののような女だった。屈託なく笑い、何事にも好奇心を向ける。彼女の周りだけは、世界が本来あるべき、穏やかで澄んだ色彩を保っていた。彼女のそばにいるときだけ、俺は呪われた能力から解放され、ただの蒼井湊でいられた。

その異変に気づいたのは、ある雨の日の午後だった。二人で出かけた美術館の帰り、カフェの窓辺でコーヒーを啜る響子の肩口に、奇妙な「染み」が見えた。それは、色ではなかった。在るはずの空間が、陽炎のように僅かに歪んでいる。まるで、透明な水彩絵の具をそこに一滴垂らしたかのように、背景の景色が滲んで見えるのだ。これまで俺が見てきた、どんな恐怖の色とも違う。それは、色の不在。完全なる「無色」だった。

「どうしたの、湊? 私の顔に何かついてる?」

響子が小首を傾げる。俺は慌てて目を逸らした。

「いや、なんでもない。ちょっと考え事してた」

嘘だった。俺は、その無色の染みを直視するのが怖かった。ほんの数秒、目を合わせただけなのに、自分の指先の感覚がふっと遠のくような、奇妙な目眩に襲われたのだ。それは、恐怖というにはあまりに静かで、喪失というにはあまりに穏やかな、未知の感覚だった。

その日から、響子の周りの「無色の染み」は、少しずつ、しかし確実にその面積を広げていった。最初は肩口だけだったものが、やがて彼女の腕を覆い、背中を覆い、まるで彼女自身を内側から蝕むかのように、その輪郭を曖昧にしていく。だが、彼女自身は何も変わらないように見えた。以前と同じように笑い、俺に話しかけてくる。ただ、時折、彼女の言葉が妙に空虚に響くことがあった。まるで、意味だけをなぞる自動音声のように。俺は、得体の知れない恐怖に、じわじわと首を絞められていくのを感じていた。

第二章 褪せる輪郭

「ねえ、湊。私たち、初めて会ったのってどこだっけ?」

ある夜、ソファで隣に座る響子が、唐突に尋ねてきた。テレビの光が彼女の横顔を照らしている。俺は心臓が冷たい手で掴まれたような心地がした。

「……覚えてないのか? 一昨年の秋、公園のスケッチ大会で」

「あ、そっか。そうだよね。ごめん、最近なんだか物忘れがひどくて」

彼女は悪戯っぽく舌を出して笑った。だが、その笑顔は薄いガラスの向こう側にあるように、ひどくよそよそしく見えた。彼女の全身を覆う「無色の染み」は、もう無視できないほどに濃くなっていた。彼女の姿は、まるで焦点の合わない写真のように、常に輪郭がぼやけている。

俺は彼女の変化を記録し始めた。些細な物忘れ。好きだったはずの映画のタイトルを思い出せない。俺が贈ったマグカップを、自分で買ったものだと思い込んでいる。一つ一つは、ただのうっかりで済まされることかもしれない。だが、それらが積み重なっていく様は、まるでジグソーパズルのピースが一つ、また一つと零れ落ち、響子という存在そのものが崩れていく過程を見せつけられているようだった。

俺の見る恐怖の色も、彼女に対しては機能しなかった。彼女はホラー映画を見ても、まったく恐怖の色を発しない。暗い夜道を一人で歩いても、彼女の周りは静かなままだった。まるで、恐怖という感情そのものをどこかに置き忘れてきてしまったかのように。

俺は自分の能力を疑い始めた。これは、俺の精神が生み出した幻覚なのではないか。響子を失うことへの俺自身の恐怖が、こんな奇怪な幻を見せているのではないか。そう思い込もうとした。だが、物理的な現象が、俺の希望を打ち砕いた。

ある朝、俺が目を覚ますと、ベッドサイドに飾ってあった二人で撮った写真立てが床に落ちていた。拾い上げると、ガラスの内側にあった写真の、響子の顔の部分だけが、まるで強い光を浴びて白飛びしたかのように、真っ白に色褪せていたのだ。俺の顔は、昨日のままくっきりと写っているというのに。

背筋を冷たい汗が伝う。これは幻覚などではない。何かが、確かに響子の存在をこの世界から消し去ろうとしている。俺は、響子に隠れて彼女の過去を調べ始めた。彼女が学芸員として働く美術館。彼女の交友関係。何か、この怪現象に繋がる手がかりはないか。藁にもすがる思いだった。そして、一つの名前に辿り着く。一年前に失踪した、一人の前衛芸術家。その名を、神無月(かんなづき)レイと言った。

第三章 虚無の観測者

神無月レイは、概念そのものを作品にする、特異な芸術家だった。彼の作品リストをインターネットで漁るうちに、俺は彼の最後の個展の告知記事を見つけた。タイトルは『Nihil』――虚無。その個展のコンセプトは、常軌を逸していた。

『色は光の反射であり、音は空気の振動である。では、何もない、という状態そのものを、知覚させることは可能か? 私は、"存在しない色"を創り出す。それは、網膜にも、脳にも、世界のいかなる記録媒体にも残らない。ただ、観測した者の魂に、虚無の孔(あな)を穿つ』

記事を読んだ瞬間、全身の血が凍りついた。まさか。

震える手でさらに調べを進めると、衝撃の事実に行き当たった。その個展は、開催直前に神無月の失踪によって中止された。しかし、非公式に、たった一人だけ、その最後の作品『無色光(ノン・クロマ)』を観測した人物がいたという。その人物こそ、当時、神無月の担当学芸員だった、月島響子だった。

俺はすべてを悟った。「無色の染み」の正体。それは、神無月が創り出した「存在しない色」。響子という存在を内側から食い破る、虚無の孔。彼女が見てしまったのは、ただの芸術作品ではなかった。それは、存在を無に帰すための、呪いそのものだったのだ。

彼女が恐怖を感じなくなっていたのは、感情が摩耗したからではなかった。彼女を蝕む「虚無」は、あまりに根源的で巨大なため、人間の脳が処理できる「恐怖」という感情の枠組みを超えていた。だから、色として見えなかったのだ。恐怖という感情すらも、虚無は飲み込んで消し去ってしまう。彼女は、自分が消えていくことへの恐怖すら、感じることができなくなっていた。

俺は書斎に駆け込み、古いスケッチブックを引っ張り出した。そこには、幼い頃から俺が見てきた、ありとあらゆる恐怖の色のサンプルが、走り書きと共に記録されている。高所から下を見下ろした時の、内臓が浮き上がるような感覚を伴う、くすんだ鉛色。暗闇で何かの気配を感じた時の、肌を粟立たせるインクブラック。人からの悪意に向けられた時の、ガラスの破片のように鋭いコバルトブルー。

俺は、この呪われた能力を、ずっと憎んできた。世界を醜く歪ませる、忌まわしい力だと思ってきた。だが、もし。もし、この恐怖の色で、響子の輪郭をもう一度描き出すことができるのなら。虚無に奪われた彼女の感情を、俺の持つ恐怖の色で上塗りして、繋ぎ止めることができるのなら。

「湊……?」

いつの間にか、響子が書斎の入口に立っていた。その姿は、以前にも増して希薄に見える。まるで、薄い和紙で作られた人形のようだ。声も、どこか遠くから聞こえてくるようにか細い。

「どうしたの? そんなにたくさん、絵の具を出して」

彼女は、俺が手にしているスケッチブックを、不思議そうに見つめている。俺は、覚悟を決めた。

「響子。今から、俺の世界を見せてやる。俺がずっと見てきた、醜くて、恐ろしい世界を」

俺は立ち上がり、彼女に向き直った。

「お前が忘れてしまった感情を、俺が全部思い出させてやる。たとえ、それが恐怖の色だとしても」

第四章 あなたに贈る恐怖の色

俺は、響子の手を強く握った。彼女の手は、氷のように冷たい。いや、冷たいという感覚すら希薄だった。まるで、温度のない物体に触れているようだ。

「響子、目を閉じて。そして、俺だけを見てろ」

俺は、自分の内面に深く潜り込んだ。能力を、外側に向けるのではなく、内側へ。自らの記憶と感情の底から、最も強烈な恐怖の色を汲み上げる。

最初に選んだのは、子供の頃に溺れかけた記憶。息ができない苦しみ、肺を満たす水の冷たさ、そして死への純粋な恐怖。その感情は、視界の中で、濁った水底のような暗い緑色となって渦を巻いた。俺はその色を、響子に叩きつけるように、強く念じた。

「うっ……!」

響子の体が小さく震える。彼女の瞳がかすかに見開かれ、その周りに、ほんのりと、しかし確かに、暗緑色のオーラが灯った。それは、俺が与えた恐怖の色だった。

「湊……なに、これ……息が……」

「そうだ、思い出せ。生きるっていうのは、息苦しいことなんだ」

次に、俺は数年前に路地裏で暴漢に襲われそうになった時の記憶を呼び覚ます。暴力への恐怖。理不尽な悪意に晒された時の、腹の底からせり上がってくるような、どす黒い赤色。

「あ……いや……!」

響子の手から力が抜ける。彼女の輪郭を縁取るように、血のような赤色が滲んだ。彼女の顔に、初めて苦痛と怯えの表情が浮かぶ。それは、見ていて胸が張り裂けそうになる光景だった。だが、同時に、俺は歓喜していた。彼女が、感情を取り戻し始めている。虚無に抵抗する、生命の色がそこに灯っている。

俺は、持てる限りの恐怖を彼女に注ぎ込んだ。閉所への恐怖、孤独への恐怖、未来への不安。俺がこれまで呪い、遠ざけてきた醜い色彩のすべてを、パレットの上で混ぜ合わせるように、彼女というキャンバスに塗り重ねていく。俺の精神はすり減り、意識が遠のきそうになる。だが、やめなかった。

そして最後に、俺は、今、この瞬間に抱いている、最も大きく、最も鮮烈な恐怖を彼女に見せた。

それは、響子、お前を失うことへの恐怖だ。

俺の視界が、燃えるような緋色に染まった。それは、他のどんな恐怖とも違う、愛するが故に生まれる、純粋で、切実な色だった。この緋色が消えることは、俺の世界の終わりを意味する。

「湊……」

響子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、温かかった。彼女の全身を覆っていた「無色の染み」は、消えてはいない。それは今も彼女の存在の芯で、静かに渦を巻いている。だが、その周りを、俺が与えた様々な恐怖の色――緑、赤、青、そして緋色が、オーロラのように揺らめきながら取り囲み、彼女の輪郭を必死に繋ぎ止めていた。彼女は、恐怖の色彩でできた、脆くも美しいモザイク画のようになっていた。

俺たちは、それから何も話さず、ただ抱きしめ合った。彼女はもう、記憶を完全に失うことはないだろう。だが、完全に元に戻ることもないのかもしれない。彼女はこれからも、虚無の孔を内に抱えたまま生きていく。そして俺は、彼女の輪郭が薄れるたびに、自らの恐怖を分け与え、その輪郭を描き直し続けるのだろう。

俺はもう、自分の能力を呪わない。この世界は相変わらず醜い色で満ちている。だが、その色彩の洪水の中に、俺は愛する人の存在を繋ぎ止めるための絵の具を見出した。

響子の震える背中を抱きしめながら、俺は窓の外に広がる、恐怖に満ちた夜の街を見つめる。それは、かつて俺が絶望した光景と何も変わらない。けれど、今はなぜか、その無数の恐怖の色の一つ一つが、誰かが必死に生きている証のように思えて、ほんの少しだけ、愛おしく感じられた。

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