第一章 消えた琥珀
僕、神崎響(かんざきひびき)の世界は、音で彩られていた。物心ついた時から、僕には音が色として見えた。「色聴」と呼ばれる共感覚の一種らしい。降りしきる雨音は無数の群青色のビーズとなりアスファルトを叩き、風が木の葉を揺らす音は柔らかな若草色のグラデーションを描く。人々が発する言葉の一つ一つも、感情によって色彩を変える。僕にとって作曲とは、溢れ出る色彩を五線譜というキャンバスに並べ、一つの風景画を完成させるような行為だった。
僕のパレットの中でも、ひときわ特別な色があった。暖かく、心を優しく包み込むような、透き通った「琥珀色」。それは僕の創作の源泉であり、心の拠り所だった。どんなに複雑で激しい色彩の曲を作っても、最後の一音にこの琥珀色を置けば、物語は必ず穏やかな結末を迎えることができた。それは、僕だけの聖域の色だった。
その朝、世界はどこか色褪せていた。
目を覚ました瞬間から、奇妙な違和感が全身を包んでいた。窓を開け、朝の光とともに流れ込んでくる街の音に耳を澄ます。車の走行音は鈍い鉛色、遠くの教会の鐘は銀色の波紋。いつも通りの色彩だ。だが、何かが足りない。決定的に、重要な何かが。
僕はキッチンへ向かい、お気に入りのマグカップにコーヒーを注いだ。陶器がテーブルに触れる「こつん」という音。いつもなら、ここに小さな琥珀色の点が灯るはずだった。しかし、今朝見えたのは、乾いた土気色の、味気ない点だけだった。
まさか。
僕は慌てて部屋に戻り、ヘッドフォンをつけた。再生したのは、昨日完成させたばかりの曲。幾重にも重なる色彩の洪水が、僕の視界を満たす。しかし、クライマックスに配置したはずの、あの暖かな琥珀色の音が、どこにも見えない。そこだけが、ぽっかりと穴が空いたように、無音で無色だった。パレットから、最も大切な絵の具が、忽然と消え失せていた。
血の気が引いていくのが分かった。世界から、僕の世界からだけ、「琥珀色」の音が消えてしまったのだ。それは、僕の魂の半分が抉り取られたにも等しい、絶望的な出来事の始まりだった。
第二章 空白の五線譜
琥珀色を失ってから、僕の時間は止まった。ピアノの前に座っても、指は鍵盤の上を虚しく彷徨うだけ。どんなメロディを紡ごうとしても、完成形が見えない。それはまるで、風景画の太陽を描き忘れたまま、夕暮れだと主張するような、滑稽で、痛々しい行為だった。
僕は失われた音を探し求めて街を彷徨った。古いレコード店に足を運び、埃っぽいジャケットの中から様々な音楽を試聴した。ジャズのサックスが放つ真鍮色の閃光、クラシックの弦楽が描く深紅のビロード。だが、琥珀色はどこにもなかった。小鳥のさえずりがレモンイエローの飛沫となって降り注ぐ森へも行った。せせらぎが奏でる翡翠色の旋律に耳を澄ましたが、そこにも求めている色はなかった。
「最近、スランプかい?」
行きつけのカフェのマスターが、心配そうに声をかけてきた。彼の声は、落ち着いた焦茶色をしている。僕は力なく首を振った。
「色が見つからないんです。とても、大切な色が」
「色?」
怪訝な顔をするマスターに、僕は自分の感覚をうまく説明できなかった。誰にも理解されない孤独が、胸に冷たく沈んでいく。
焦燥感だけが募る日々。僕は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。この琥珀色は、いつから僕の世界に存在していたのだろう。その起源は、どこにあるのだろう。
ふと、脳裏に蘇ったのは、遠い日の光景だった。幼い僕が、祖母の膝の上で聴いていた、小さなオルゴールの音色。病気がちだった祖母は、いつもそのオルゴールを鳴らしながら、僕の頭を優しく撫でてくれた。キラキラと輝きながら空間に溶けていく、あの暖かな音。そうだ、あれこそが僕の「琥珀色」の原風景だった。
祖母は僕が十歳になる年に亡くなった。その悲しみと共に、オルゴールの記憶も心の奥底にしまい込んでいたのかもしれない。
「おばあちゃん……」
僕はいてもたってもいられず、十年以上開けていない実家の屋根裏部屋へと向かった。失われた色を取り戻すための、最後の希望を胸に抱いて。
第三章 屋根裏の旋律
実家の屋根裏は、埃と古い木の匂いが充満していた。差し込む光が、空気中を舞う無数の塵をきらきらと照らし出している。僕はいくつもの段ボール箱を掻き分け、記憶の片隅に残るその姿を探した。そして、隅の方に置かれた古い木箱の中に、それは静かに眠っていた。
マホガニー製の小さなオルゴール。蓋には、色褪せた花の彫刻が施されている。僕は祈るような気持ちで、そっと蓋を開けた。
しかし、鳴るはずのメロディは聞こえなかった。ぜんまいを巻いても、シリンダーはぴくりとも動かない。長い年月の間に、壊れてしまったのだろう。唯一の希望が、目の前で音もなく崩れ落ちた。僕はその場にへたり込み、無力感に打ちひしがれた。
どれくらいそうしていただろうか。涙で滲む視界の先、オルゴールの底面に、小さな継ぎ目があることに気がついた。指で探ると、それは隠し引き出しになっていた。そっと引き出すと、中には錆びついた小さな鍵と、折り畳まれた一枚の古い五線譜が入っていた。
五線譜を広げると、そこにはインクが滲んだ、見慣れない旋律が記されていた。そして、その下には、紛れもない祖母の優しい筆跡で、こう書かれていた。
『響へ。迷った時に、心の鍵盤を叩いてごらん』
心の鍵盤?どういう意味だろう。僕はその楽譜を握りしめ、屋根裏部屋を後にした。錆びた鍵は、一体何の鍵なのだろう。謎は深まるばかりだったが、ただの絶望とは違う、微かな光が心に灯り始めていた。祖母が僕に、何かを伝えようとしている。その確信だけが、僕を突き動かしていた。
第四章 心が奏でる琥珀色
自室に戻った僕は、ピアノの譜面台に祖母が残した楽譜を置いた。それは、どんな有名な作曲家のものとも違う、素朴で、けれどどこか懐かしい温もりに満ちた旋律だった。
震える指で、最初の鍵盤に触れる。
ポーン、と鳴った柔らかな音は、淡いクリーム色をしていた。楽譜を追い、一音、また一音と旋律を紡いでいく。すると、僕の心の中に、固く閉ざされていた記憶の扉が、軋みながら開いていくのが分かった。
このメロディは、オルゴールの曲ではなかった。
これは、祖母が亡くなる数日前、病院のベッドの上で、僕のためだけに口ずさんでくれた子守唄だった。弱々しく、けれど愛情に満ちた声。その声が、琥珀色の光の粒子となって、僕の体を包み込んでいた光景。そうだ、僕は知っていた。この温もりを、この色を。
祖母の死という、幼い僕には受け止めきれないほどの悲しみ。その悲しみに向き合うのが怖くて、僕は無意識のうちに、その記憶に鍵をかけて封印してしまったのだ。祖母との最期の思い出であるこの旋律と、それに付随する「琥珀色の音」ごと。錆びついた小さな鍵は、この僕の心の扉の鍵だったのだ。
世界から琥珀色が消えたのではなかった。僕自身が、その色を見ることを拒絶していた。あまりにも深く、強く、その色を愛していたから。失うことが、怖かったから。
鍵盤を叩く指先に、力がこもる。涙が次々と頬を伝い、鍵盤の上に落ちては、小さな水色の染みを作った。一音弾くごとに、封印されていた祖母との思い出が溢れ出す。膝の上で絵本を読んでもらったこと。一緒にクッキーを焼いたこと。そして、僕の手を握り、「響の音楽は、人を幸せにする力があるからね」と微笑んでくれたこと。
旋律がクライマックスに達した瞬間、僕の世界は光に包まれた。
それは、かつて僕が知っていた琥珀色ではなかった。ただ暖かく優しいだけの色ではない。悲しみという深い藍色が溶け込み、寂しさという銀色の煌めきが混じり合い、そして愛情という黄金の光が全体を貫いている。それは、喪失を知り、痛みを受け入れたからこそ生まれた、新しい、どこまでも深く、尊い琥珀色だった。
失われたのではなかった。失ったと思っていただけだった。悲しみも苦しみも、決して無駄なものではない。それらは僕のパレットを、より豊かで、深みのあるものにするために必要な色だったのだ。
僕はピアノに向かい、一気に曲を書き上げた。祖母が残してくれた旋律をモチーフに、僕の全ての感情を込めて。完成した曲は、聞く人の心を優しく解きほぐすような、温かい琥珀色の光を放っていた。それはもう、僕だけの聖域の色ではない。僕の音楽を通して、誰かの心を温めるための、希望の色だった。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。濡れたアスファルトに反射する夕日が、世界を美しい琥珀色に染め上げていた。僕はその光景を、涙で濡れた瞳で、ただじっと見つめていた。僕のパレットは、もう空白ではない。