第一章 濁色の世界と透明な少女
俺、柏木湊(かしわぎみなと)の世界は、常に不快な色彩に満ちていた。物心ついた頃から、人のつく嘘が、その口元から吐き出される濁った色の靄として見えたのだ。自己保身の嘘はヘドロのような深緑に、見栄のための嘘は粘つくような黄土色に、そして悪意に満ちた嘘は、すべてを飲み込むような澱んだ紫に見えた。
テレビの向こうで頭を下げる政治家からは、七色の濁流が溢れ出す。道端で談笑する主婦たちの間には、薄汚れたピンクや灰色の煙が渦巻いている。この能力のせいで、俺は人を信じられなくなった。言葉の裏に渦巻く濁った色を見るたびに、心がすり減っていった。
だから俺は、人との関わりを最小限にするために、町の片隅で古書店『言の葉堂』を営んでいる。古い紙の匂いと、沈黙だけが友だ。本は嘘をつかない。インクで綴られた物語は、たとえそれが創作であっても、人を欺くための濁った色を発することはない。静かで、モノクロームで、それでいて安らかな世界。それが俺の望んだ全てだった。
その日も、俺はカウンターの奥で、埃をかぶった哲学書のページを繰っていた。カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。高校の制服だろうか、少し大きめのブレザーが彼女の華奢な体を包んでいる。
「いらっしゃいませ」
感情を乗せない、いつも通りの声。少女はぺこりとお辞儀をすると、好奇心に満ちた目で店内を見回し始めた。その時、俺は息を呑んだ。
彼女の周りには、何の色もなかった。
客が発する「これ、面白いですか?」という社交辞令めいた問いかけも、「また来ますね」という当てにならない約束も、必ず微かな色の靄を伴う。だが、彼女は違った。彼女の存在そのものが、まるで澄み切った湧き水のように透明だった。
少女は、背表紙を指でなぞりながら、ゆっくりと書架の間を歩く。やがて、一冊の古びた絵本を手に取ると、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、俺が長らく忘れていた、純粋な光のように見えた。
「この本、探してたんです」
彼女がカウンターに絵本を差し出す。その声も、言葉も、どこまでも透明だった。俺は、まるで汚れたガラスを拭かれたかのように、世界が少しだけ鮮明になった錯覚に陥った。
「……そうですか」
ぶっきらぼうに答えながらレジを打つ。彼女は「陽菜(ひな)って言います」と、聞いてもいないのに名乗った。その言葉からも、もちろん色は見えなかった。この濁色の世界で、俺は初めて「透明な人間」に出会ったのだ。
第二章 色なき時間の安らぎ
陽菜は、それから頻繁に『言の葉堂』に顔を出すようになった。彼女は決まって、店の隅にある古びた一人掛けのソファに座り、買っていった本を静かに読む。俺はカウンターからその姿を眺めるのが、いつしか習慣になっていた。
陽菜といる時間は、不思議と穏やかだった。彼女が発する言葉は、いつも真実だった。面白い本は「面白い」と目を輝かせ、退屈な部分は「ちょっと眠くなっちゃった」と素直に告げる。彼女の周りでは、俺を苛む濁った色が一切存在しない。まるで、この古書店の一角だけが、汚染されていない聖域であるかのようだった。
「店長さんは、どうして古本屋さんになったんですか?」
ある雨の日、客が誰もいない店内で、陽菜が唐突に尋ねた。
「……本が好きだから、としか」
「ふふ、嘘じゃないけど、本当のこと全部でもないって顔してますよ」
ドキリとした。彼女に俺の能力が見えるはずもない。だが、彼女の曇りのない瞳は、俺の心の奥底まで見透かしているような気がした。
俺は少しだけ、自分のことを話した。人の言葉に疲れ、静かな場所を求めてここに行き着いた、と。もちろん、能力のことは伏せたまま。陽菜は黙って耳を傾け、そして静かに言った。
「ここの空気、私も好きです。たくさんの物語が、静かに息をしている感じがして」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。誰にも理解されないと思っていた俺の孤独な城を、彼女は「好きだ」と言ってくれた。濁った色に満ちた世界で、彼女の言葉だけが、確かな輪郭を持って俺の心に届いた。
俺たちは、多くの言葉を交わすわけではなかった。それでも、同じ空間で、同じ静寂を共有する時間は、何物にも代えがたい安らぎを俺に与えてくれた。俺は、陽菜にだけは心を開けるかもしれない、と淡い期待を抱き始めていた。彼女となら、この忌まわしい能力を忘れて、ただの人間として生きていけるかもしれない。
しかし、時折、陽菜が見せるふとした表情に、俺は微かな違和感を覚えていた。本のページを繰る手が不意に止まり、窓の外を遠い目で見つめる時の、寂しげな横顔。俺が「どうかしたか」と尋ねると、彼女はいつも「なんでもないよ」と笑ってごまかす。その言葉は透明で、嘘の色は全く見えなかった。だからこそ、俺はそれが彼女の真実なのだと信じていた。信じようとしていた。
第三章 虹色の嘘
ぱったりと、陽菜が店に来なくなった。一日、三日、一週間。彼女がいつも座っていたソファだけが、ぽっかりと空白のように存在を主張していた。心配が胸を締め付ける。彼女は住所も連絡先も教えてくれなかった。唯一の手がかりは、彼女が着ていた制服だけだ。
俺はいてもたってもいられず、近隣の高校をいくつか訪ね歩いた。そして、ある高校で「桜井陽菜」という生徒が長期で休んでいることを突き止めた。教師から聞いた住所を頼りに、俺は彼女の家へと向かった。
インターホンを押すと、憔悴しきった表情の女性――陽菜の母親だろう――が現れた。俺が『言の葉堂』の店主だと名乗ると、彼女の目が見開かれた。
「いつも娘が、お世話になっております」
彼女の口元から、澱んだ灰色の靄が立ち上る。「陽菜さんは、ご在宅ですか」と尋ねると、母親は苦しげに顔を歪めた。
「あの子なら、今、遠くの祖母の家に……少し、気分転換に」
それは、濁りきった嘘の色だった。俺は構わず食い下がった。「何かあったんですね。教えてください」
母親の目から涙がこぼれ落ちた。彼女の口から語られたのは、残酷な事実だった。陽菜が重い病気を患っており、もう長くはないこと。そして今、市内の総合病院に入院していること。彼女たちは、俺という束の間の安らぎの場所に、これ以上心配をかけたくなかったのだという。その思いやりすら、濁った嘘の色をしていた。
俺は病院へと走った。病室のドアを開けると、消毒液の匂いと共に、変わり果てた陽菜の姿が目に飛び込んできた。以前よりもずっと痩せ、顔色は青白い。それでも彼女は、俺の姿を認めると、力なく微笑んだ。
「店長さん……どうしてここに?」
「君が、来ないからだ」
声が震える。ベッドのそばの椅子に腰掛けると、陽菜は俺の顔をじっと見つめた。その瞳は、以前と変わらず澄み切っていた。
「ごめんなさい、心配かけちゃって。ちょっとね、疲れが出ただけ。すぐに良くなるから」
彼女がそう言った、瞬間だった。
俺は、信じられない光景を見た。
彼女の唇から、ふわり、と靄が生まれた。だが、それは俺が知っているどの嘘の色とも違っていた。それは、濁っていなかった。ヘドロのような緑でも、粘つく黄土色でも、澱んだ紫でもない。
それは、雨上がりの空にかかる虹のように、七色にきらめく、温かい光の粒子だった。
あまりの美しさに、俺は言葉を失った。それは紛れもなく「嘘」の形をしていた。けれど、醜くも汚くもない。ただひたすらに優しく、そして切ないほどに美しい色だった。
「また、お店に遊びに行くね。まだ読んでない本、たくさんあるんだから」
陽菜が続ける。その言葉からもまた、美しい虹色の光が、はかなく生まれ、そして消えていった。
ああ、そうか。俺は、今まで勘違いしていたのだ。
嘘は、自分を守るためや、他人を欺くためだけの、醜いものではなかった。
相手を絶望の淵に突き落とさないため。僅かな希望を繋ぎ止めるため。愛する人を、その優しい世界から引き剥がさないため。
そんな、祈りのような嘘が存在したのか。
俺が今まで見てきた無数の嘘は、人間のエゴや弱さの産物だった。だが、陽菜が今ついている嘘は、彼女の優しさ、そのものだった。俺の世界が、根底から覆された。俺の能力が、初めて、人の心の最も美しい部分を映し出した瞬間だった。
第四章 世界が色づく時
俺は、陽菜の虹色の嘘を、黙って受け入れた。
「そうか。じゃあ、早く元気になれよ。新しい本、入荷しとくから」
俺の言葉に色はなかった。それは、心からの真実だったからだ。陽菜は、安心したように微笑んだ。
それから俺は、毎日病院に通った。彼女が好きだと言っていた古い冒険小説や、優しい結末の童話を、彼女の枕元で読み聞かせた。陽菜は穏やかな顔でそれに耳を傾け、時々「ありがとう」と囁いた。その感謝の言葉は、もちろん透明だった。
俺はもう、人の言葉に色がつくことを恐れなかった。病院の廊下で医師が家族にかける、気休めの言葉から立ち上る濁った色も、見舞客が交わす上辺だけの会話に漂う汚れた色も、ただ、それもまた人間なのだと受け入れられるようになっていた。世界は、濁った色と、透明な言葉と、そして、ごく稀に存在する虹色の嘘でできている。その全てが混じり合って、人の世は成り立っているのだ。
陽菜は、秋の終わりに、静かに旅立った。まるで、物語の最後のページを閉じるときのように、安らかな顔だった。
彼女がいなくなってから、数年の時が流れた。『言の葉堂』は今も、町の片隅で静かに時を刻んでいる。俺の世界からは、虹色の嘘を見る機会は永遠に失われた。けれど、俺の目に映る世界は、もうモノクロームではない。
街行く人々から立ち上る濁った色の嘘を見ても、かつてのような嫌悪感は湧いてこない。その色の奥に、彼らの弱さや、悲しみや、守りたい何かがあるのかもしれない、と思えるようになったからだ。陽菜が、俺に教えてくれたのだ。色のない真実だけが尊いわけじゃない。色の奥にある、人の心を想像することを。
今、俺はカウンターで万年筆を走らせている。小さな物語を、書き始めたのだ。
それは、嘘の色が見える孤独な青年が、たった一度だけ、世界で最も美しい虹色の嘘に出会う物語。
窓の外に目をやると、夕焼けが空を茜色に染めていた。その燃えるような赤と、溶け合うような橙のグラデーションは、まるで陽菜が最後に俺に見せてくれた、あの優しい嘘の色のように見えた。
ありがとう、陽菜。君がくれたこの色彩を、俺は一生忘れない。