木偶の心、鏡の舞

木偶の心、鏡の舞

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第一章 動かぬ傑作

江戸八百八町の片隅、神田の裏通りに、その男の工房はあった。名を甚内(じんない)という。齢は三十路手前、しかしその腕は既に江戸随一と噂されるほどの、からくり人形師であった。彼が作る人形は、まるで命が宿っているかのように精巧で、肌の温もりさえ感じさせる木彫りの滑らかさ、衣の襞(ひだ)に揺れる影の深さ、そして何よりも、硝子玉の瞳に湛えられた感情の機微は、見る者の心を捉えて離さない。

だが、甚内の人形には奇妙な評判がつきまとっていた。彼の工房を訪れた者は誰一人として、その傑作が「動く」ところを見たことがないのである。注文主が手にするのは、息をのむほど美しい、しかし決して動かぬ木偶。甚内は、完成した人形に仕込まれた絡繰(からくり)を決して披露せず、ただ静かに客へと手渡すのだ。「絡繰は、持ち主のみがご覧ください」と、蚊の鳴くような声で呟くだけで。

その日、工房の戸を叩いたのは、日本橋の大店『越後屋』の一人娘、お絹と名乗る娘だった。梅の花が綻ぶような可憐な娘で、その瞳には聡明さと、拭いきれぬ悲しみの影が同居していた。

「甚内様でいらっしゃいますね。噂に違わぬ、素晴らしい人形の数々……」

工房に並べられた見本の人形たちを見回し、お絹は感嘆の息を漏らした。それらは皆、俯き、目を閉じ、あるいは袖で顔を隠し、その表情をはっきりと見せぬものばかりだった。

「……して、ご用件は」

甚内は、鑿(のみ)を握ったまま、顔も上げずに問いかけた。人と目を合わせるのが、彼は極端に苦手だった。木を削る音だけが、二人の間の気まずい沈黙を埋めていた。

「はい。亡き母の面影を写した人形を、一つ作っていただきたいのです」

甚内の手が、ぴたりと止まった。

「母は、病で昨年の秋に……。いつも笑顔の絶えない、陽だまりのような人でした。その笑顔を、もう一度見たくて。どうか、私の母が笑う人形を、作っていただけないでしょうか」

黄金に換えても惜しくない、と娘は言った。生活の厳しい甚内にとって、それは喉から手が出るほど欲しい仕事であった。だが、「笑う」という、あまりにも明確で、あまりにも強い感情の表現を求められ、彼の内側で警鐘が鳴り響いていた。

甚内には秘密があった。彼が絡繰を決して人前で動かさぬのには、理由がある。彼の作る人形は、ただの絡繰仕掛けではなかった。それは、作り手である甚内自身の、隠された心を映し出す鏡なのだ。彼が怒れば人形は拳を握り、悲しめば俯いて震える。彼自身が意識せずとも、心の奥底の微かな揺らぎさえも、人形は忠実に、そして時に過剰に、その動きで表現してしまうのだった。

感情を殺して生きてきた甚内にとって、その能力は呪いでしかなかった。だから彼は、感情を読み取られぬよう、表情のない人形ばかりを作り、決して人前で動かさなかった。

「……お断りだ」

絞り出すような声だった。

「なぜでございますか。お代が足りぬと?」

「そうではない。……私には、笑う人形は作れぬ」

それは嘘偽りのない本心だった。感情を殺し続けた甚内は、もう何年も心から笑ったことがなかった。笑い方さえ忘れてしまった男に、どうして陽だまりのような笑顔が作れようか。

しかし、お絹は引き下がらなかった。彼女は懐から一枚の似顔絵を取り出した。それは、彼女が拙い手で描いた母の笑顔だった。絵は上手いとは言えなかったが、そこには確かに、描いた者の深い愛情と、描かれた者の温かな人柄が滲み出ていた。

「これが、母です。どうか、この笑顔を……」

その絵を見た瞬間、甚内の胸の奥が、ちくりと痛んだ。それは、彼がとうの昔に失くしたはずの、温かい感情の残滓だった。彼は顔を上げ、初めてお絹の瞳をまっすぐに見た。その目に宿る切実な願いに、抗うことはできなかった。

「……承知、いたしました」

甚内は、自らに課した禁忌を破る覚悟を決めた。それが、己の運命を大きく揺るがすことになるなど、知る由もなかった。

第二章 心の残像

人形作りは、困難を極めた。お絹は母の思い出を語り、その笑顔がいかに周囲を明るくしたかを、身振り手振りを交えて甚内に伝えた。日向の匂い、春風の優しさ、小川のせせらぎ。彼女が紡ぐ言葉はどれも温かく、光に満ちていた。甚内は黙ってそれを聞き、ただひたすらに鑿を振るった。

しかし、彼が彫り上げる人形の顔には、どうしても微笑が浮かばなかった。目元は優しく、口元にはかすかな笑みの形が刻まれる。だが、それはどこか寂しげで、陽だまりというよりは、月明かりの下で咲く花のような、儚い表情にしかならないのだった。

「違う、これではない……」

夜更けの工房で、甚内は何度も己の無力さに頭を掻きむしった。彼の心は、お絹の語る光に満ちた思い出に触れるたび、己の内の闇を強く意識させられた。彼の乾いた心では、あの陽光のような笑顔は生み出せない。人形は、彼の心のありようを正確に写し取ってしまう。

お絹は、制作の様子を見るために、足繁く工房に通った。彼女は甚内の無口を気にするでもなく、傍らで裁縫をしたり、町の話をしたりして、静かな時間を共有した。初めは戸惑っていた甚内も、いつしかその穏やかな気配に、強張っていた心が少しずつ解かされていくのを感じていた。

ある雨の日の午後だった。お絹は、ぽつりと母との最後の日のことを語り始めた。

「母は、最後まで笑顔でした。苦しいはずなのに、『大丈夫よ』と笑って……。でも、私が見ていないところで、きっと一人で泣いていたのだと思います。そう思うと、今でも胸が張り裂けそうで……」

彼女の声は震え、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。甚内は何も言えず、ただ作業台の上の作りかけの人形に目を落とした。

その夜、甚内が一人で絡繰の調整をしていると、信じられないことが起きた。作業台に置かれた人形が、すっ、と静かに腕を上げたのだ。そして、その小さな木の指先で、己の目元をそっと拭うような仕草をした。それは、紛れもなく涙を拭う動きだった。

甚内は息をのんだ。彼自身は、泣いていなかった。だが、昼間のお絹の涙、その悲しみが、彼の心に深い残像として焼き付いていた。人形は、彼の心を通して、お絹の悲しみに共鳴したのだ。

己の能力の恐ろしさに、甚内は改めて身震いした。これはただ、自分の感情が漏れ出すだけではない。他者の心さえも写し取り、暴いてしまう力なのだ。もし、お絹がこれを見たら……。彼女の心の奥底の悲しみを形にしてしまったこの人形を、彼女はどう思うだろう。

甚内は衝動的に人形を壊そうと、金槌を手に取った。しかし、涙を拭う仕草をする人形の姿が、不意に、一人で泣いていたであろうお絹の母の姿と重なった。彼は金槌を振り上げることができなかった。その人形には、もはや彼一人のものではない、誰かの切ない心が宿っているように思えた。

第三章 鏡の舞

人形が完成に近づいたある日、工房の戸が乱暴に開けられ、お絹が血相を変えて飛び込んできた。その顔は青ざめ、息は乱れていた。

「甚内様! 大変なことに……!」

聞けば、越後屋が、悪徳な高利貸しと結託した奉行所の役人によって、不当な借金の形に店を乗っ取られようとしているという。亡き父が交わしたという身に覚えのない証文を突きつけられ、もはや打つ手がない、と彼女は涙ながらに訴えた。

「父が心血を注ぎ、母が守り抜いた店が……。あのような者たちの手に渡るなど……!」

悔しさに唇を噛みしめるお絹の姿を見て、甚内の心の奥底で、これまで感じたことのないほど激しい感情が燃え上がった。それは、静かで、しかしどこまでも熱い怒りの炎だった。理不尽な力で、ささやかな幸せを踏みにじろうとする者たちへの、どうしようもない憤り。

その瞬間だった。工房の隅に置かれていた、完成間近のお絹の母の人形が、音もなく立ち上がった。

甚内も、お絹も、息をのんでその光景を見つめた。

人形は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、甚内が目指した「陽だまりの笑顔」ではなかった。慈愛に満ちた目元はそのままに、しかしその口元は真一文字に固く結ばれ、瞳には凛とした、決して屈することのない強い意志の光が宿っていた。それは、悲しみを乗り越え、不正に立ち向かう者の、気高く、そして怒りに満ちた表情だった。

人形は、お絹が涙を拭う仕草をしたのと同じように、そっと自らの目元に手をやった。だが、今度は涙を拭うのではない。その仕草には、涙など見せぬという決意が込められていた。そして、すっと懐から小さな扇子を取り出すと、毅然とした動きで舞い始めたのだ。

それは、激しい舞ではなかった。一つ一つの動きは静かで、抑制が効いている。しかし、袖の翻り、足の運び、指先の僅かな角度に至るまで、全てに研ぎ澄まされた怒りと、決して揺るがぬ正義が込められていた。

「あ……」

お絹が、か細い声を漏らした。彼女はその舞に見覚えがあった。

「その舞は……母が……」

それは、生前のお絹の母が、家族にだけ見せた舞だった。理不尽な仕打ちに遭い、表立って怒れない時、彼女は決まって部屋にこもり、一人静かにその「怒りの舞」を舞うことで、心を鎮めていたという。誰にも、もちろん甚内にも話したことのない、家族だけの秘密。

「なぜ……なぜ、甚内様がこの舞を……?」

お絹の問いに、甚内は答えることができなかった。だが、彼には分かっていた。自分の能力は、呪いなどではなかった。それは、言葉にならない、人の心の最も深い場所にある想いを受け取り、それを形として映し出す「鏡」だったのだ。お絹の絶望と怒り、そして亡き母への想いが、彼の心という鏡を通して、人形に奇跡を宿らせた。

彼はこれまで、自分の感情が漏れ出すことを恐れ、心を閉ざしてきた。だが、今、初めて心の底から願っていた。この人形を、この舞を、お絹のために動かしたい、と。この人形に宿った魂で、彼女を救いたい、と。

第四章 木偶に宿る魂

翌晩、悪徳高利貸しと役人たちが開く宴の席に、甚内とお絹は乗り込んだ。場違いな二人に、男たちの嘲笑が浴びせられる。だが、甚内は臆することなく、持参した桐の箱を静かに宴席の中央に置いた。

「拙者、からくり人形師にございます。今宵、皆様に、世にも珍しい人形の舞をお目にかけたく、参上いたしました」

甚内の言葉に、一同は更に囃し立てる。しかし、箱から現れた人形の、鬼気迫るほどの美しさに、次第にその声は静まっていった。

甚内は人形を舞台に置くと、深く息を吸い、お絹のほうを見た。彼女は固唾を飲んで、彼に頷き返す。二人の心は、一つだった。

甚内の心が、お絹の悲しみと怒り、そして正義を求める強い意志と完全に共鳴する。すると、人形は再び、あの気丈で、しかしどこか哀愁を帯びた「怒りの舞」を舞い始めた。

静まり返った宴席に、人形が衣を擦る微かな音だけが響く。その舞は、ただの人形戯とは思えぬほどの魂を宿していた。それは、愛するものを守るために立ち上がった一人の女性の、声なき叫びそのものだった。

見る者たちは、いつしかその舞に魅入られていた。そして、役人たちの上座に座っていた奉行が、はっと顔色を変えた。彼は若い頃、まだ一介の同心だった時に、越後屋の先代、つまりお絹の母に大きな恩を受けたことがあった。病に倒れた妻の薬代を、黙って工面してくれたのが彼女だったのだ。その気丈な振る舞い、不正を憎む強い眼差し。人形の舞に、彼は在りし日の恩人の面影を、その魂の気高さを見た。

「……やめい」

奉行の、威厳のある声が響いた。

「その証文、まやかしであろう。越後屋を陥れんとする悪逆に、これ以上の加担はできぬ!」

奉行の一喝で、場の空気は一変した。高利貸しは顔面蒼白になり、不正は暴かれ、越後屋は救われた。

事件が解決した後、お絹は工房を訪れ、甚内に深々と頭を下げた。

「甚内様。ありがとうございました。あの人形には、母の魂が宿っておりました」

その言葉を聞き、甚内は初めて、自らが作り上げた人形を見て、穏やかに微笑んだ。彼の呪いだと思っていた力は、言葉にならない心を繋ぎ、伝えるための架け橋だったのだ。

「笑う人形は、作れませなんだ」

甚内が申し訳なさそうに言うと、お絹は首を振った。

「いいえ。母は最後に、笑っておりました。あの舞の最後に、ほんの少しだけ口元が綻んだのを、私は見ました。それは、私を守り抜くことができた、安堵の笑みでした。最高の笑顔です」

甚内は、それ以上何も言わなかった。ただ、工房に差し込む夕陽が、並べられた人形たちの影を優しく床に伸ばしているのを、静かに見つめていた。

それからというもの、甚内の作る人形は、相変わらず無口な主の代わりに、多くの人々の心を映し、繋いでいったという。

ある晴れた日の午後、甚内は新しい木材に向かっていた。彼の傍らには、まだ目鼻も描かれていない、作りかけの小さな人形が置かれている。甚内が鑿を手に取ると、その木偶は、まるで新しい命の誕生を喜ぶかのように、ほんのかすかに、希望に満ちた優しい身じろぎをした。

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