第一章 漆黒の不協和音
柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、音に色がついていた。それは生まれついての体質で、医学的には共感覚(シナスタジア)と呼ばれるらしい。鳥のさえずりはレモンイエローの飛沫となり、車のクラクションは汚れたオレンジ色の棘となって鼓膜を刺す。かつてピアニストだった彼にとって、その感覚は祝福であり、呪いでもあった。ドビュッシーの『月の光』を弾けば、指先から銀色の霧が立ち上り、ショパンの『革命』は、燃えるような緋色と深い藍色の奔流となってホールを満たした。しかし、聴衆の拍手喝采が、無数の色の礫となって降り注ぐ苦痛には、最後まで慣れることができなかった。
三年前の事故で右手の小指と薬指の自由を失って以来、彼はピアノを弾くことをやめ、調律師として生計を立てていた。鍵盤に触れるのは、音を「合わせる」時だけ。自らの色を奏でることは、もうない。
その日、湊が訪れたのは、港を見下ろす丘に建つ古い洋館だった。住人は島崎夫人。八十歳を超えた、上品な佇まいの老婦人で、湊がピアニストになる前から彼を応援してくれていた、数少ない理解者の一人だ。半年に一度、彼女の愛用するベーゼンドルファーの調律に訪れるのが、湊の習慣だった。
呼び鈴を鳴らしても応答がない。ドアには鍵がかかっておらず、微かに開いていた。胸騒ぎを覚えながら重い扉を押し開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。黴と古い木の匂いに混じって、鼻腔の奥をかすかに刺激する甘い香り。ラベンダーだ。夫人が好んで焚いていたポプリの匂いだった。
「島崎さん、柏木です。調律に伺いました」
静寂が支配するホールに、湊の声が吸い込まれていく。彼の声は、自分では「落ち着いた青緑色」に見える。だが、その声に応える色はどこからも返ってこない。居間を抜け、書斎へ続く廊下を歩く。その途中、湊はふと足を止めた。空気が奇妙に歪んでいる。音がないはずの空間に、何かの「残像」が揺らめいていた。
それは、色だった。
鋭く、深く、光を一切吸収してしまうような、絶対的な漆黒。それはどんな音とも違う、異質な色だった。恐怖や絶叫が放つ血のような赤色でもなければ、悲しみが滲む鈍色の灰色でもない。それは、まるで世界のどこかに穴が空き、そこから真空が漏れ出しているかのような、存在しないはずの「音」の色だった。
嫌な予感が背筋を駆け上る。湊は早足で夫人の寝室へ向かった。ドアをノックするが、やはり返事はない。意を決してドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
部屋の中央、安楽椅子に深く身を沈めるようにして、島崎夫人は眠るように息絶えていた。傍らのサイドテーブルには、飲みかけのハーブティーのカップと、読みかけの本が開かれたまま置かれている。部屋には例のラベンダーの香りが満ち、穏やかな昼下がりの死、とでも言うべき光景だった。
駆けつけた警察と医師は、状況から見て心不全による自然死だろうと結論づけた。事件性は見られない、と。誰もがそう納得した。湊を除いては。
彼の網膜には、まだあの漆黒の残像が焼き付いていた。それは、穏やかな死が纏う色ではない。無理矢理引き裂かれた生命が最後に遺す、不協和音の色だった。だが、この感覚を誰に説明できようか。「音の色が見えるんです。現場には、漆黒の音がありました」などと。狂人の戯言だと思われるのが関の山だ。
湊は唇を固く結んだ。警察が引き上げた後も、彼はしばらくその場に佇んでいた。島崎夫人は、ただ穏やかに死を受け入れるような人ではなかった。彼女の奏でるピアノの音は、いつも生命力に満ちた、鮮やかな黄金色をしていたのだから。
信じられるのは、自分だけが見た、あの漆黒の音だけ。湊は、誰にも理解されない孤独な捜査を開始することを、静かに決意した。
第二章 偽りの色彩
島崎夫人の葬儀は、しめやかに行われた。参列者の数は少なく、そのほとんどが遺産相続の権利を主張する遠い親戚たちだった。彼らの交わすお悔やみの言葉は、一様に濁った黄土色をしていた。それは貪欲と欺瞞の色だ。湊は彼らから距離を置き、ホールの隅で壁に寄りかかっていた。
刑事から聞いた話では、夫人は莫大な資産を、長年支援していた若手芸術家のための財団に寄付する、と遺言状に記していたらしい。親戚たちが不満の声を漏らすのも無理はなかった。
その輪の中に、ひときわ異彩を放つ青年がいた。伏し目がちで、どこか儚げな印象を与える、細身の男。彼が、遺産の寄付先となる財団が支援する画家の一人、三上和也だと、湊はすぐに察した。島崎夫人は生前、彼の才能をことのほか愛でていた。
湊は、そっと彼に近づいた。
「三上さん、ですね。柏木と申します。夫人のピアノの調律を」
「……ああ、あなたが」
三上の声は、揺らめくような淡い青色をしていた。不安と、深い悲しみが入り混じった、繊細な色合いだ。少なくとも、黄土色の親戚たちとは全く違う。
「夫人には、本当にお世話になりました。僕みたいな無名の画家に、アトリエまで用意してくださって……。恩返しもできないまま、逝かれてしまうなんて」
彼の言葉に嘘の色は感じられない。だが、その青色の奥に、何か別の色の気配が潜んでいるような気がして、湊は釈然としないものを感じていた。
数日後、湊は改めて島崎邸を訪れた。遺品整理が始まる前に、もう一度だけ、あのピアノを確かめておきたかったのだ。許可を得て音楽室に入ると、主を失ったベーゼンドルファーが静かに佇んでいた。
湊は鍵盤の蓋をそっと開け、いくつかの和音を鳴らしてみた。澄んだ、しかしどこか寂しげな音が響く。調律は完璧なままだ。夫人は、なぜ亡くなる直前に調律を依頼してきたのだろうか。
ピアノを隅々まで調べていると、譜面台の裏に、一冊の古いノートが挟まっているのに気がついた。それは手書きの楽譜だった。走り書きのような音符が並び、所々に修正の跡がある。未完の曲のようだった。タイトルはない。
湊は椅子に腰かけ、楽譜を譜面台に置いた。右手の不自由な指で、メロディをたどたどしく弾き始める。それは、どこか懐かしく、切ない旋律だった。悲しみを湛えながらも、その奥に確かな希望の光を感じさせるような、複雑な響き。
弾き進めるうち、湊は楽譜に奇妙な書き込みがあることに気づいた。いくつかの音符の横に、小さな色鉛筆で、円が描かれているのだ。ある音には青、ある音には緑、そしてある箇所には、鮮やかな黄金色の円が。
それは、ただの記号だろうか。いや、違う。湊の脳裏に、ある仮説が雷のように閃いた。
まさか、島崎さんも――?
彼はもう一度、三上和也の声を思い出した。あの揺らめく淡い青色。楽譜に記された青色の円は、まさにその色と酷似していた。
そして、鮮やかな黄金色。それは、かつて島崎夫人が希望に満ちてピアノを弾いていた時の音の色そのものだった。
島崎夫人は、湊と同じ共感覚の持ち主だったのだ。この楽譜は、単なる曲ではない。彼女が「色」で遺した、最後のメッセージなのかもしれない。
全身に鳥肌が立った。同時に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。この世界で、同じ色彩を見ていた人がいた。その事実に、湊は深い孤独の底から救い上げられたような感覚を覚えた。
第三章 沈黙の楽譜
楽譜の謎に没頭するうち、湊は一つの重大な事実に突き当たった。曲のクライマックス、最も情熱的な旋律が奏でられるべき箇所で、楽譜は突然、全休符で途切れていた。そして、その全休符の上には、黒い色鉛筆で、深く塗りつぶされた円が描かれていた。
漆黒の円。
あの日、現場で感じた「音の残像」と同じ色だった。
湊は息を呑んだ。これまで彼は、あの漆黒の音を、何者かが発した声や物音だと考えていた。犯人の絶叫、あるいは凶器が立てた音。だが、もしこの楽譜が示す通りだとしたら?
全休符が意味するのは、「無音」。
あの漆黒の正体は、音そのものではなく、「完全な沈黙」だったのではないか。
意図的に作り出された、不自然な静寂。誰かが、島崎夫人の声、あるいは彼女が助けを呼ぶための音を、完全に消し去ったのだとしたら。それは、心不全による自然死という結論を根底から覆す、恐ろしい仮説だった。
湊は再び三上和也に会うことにした。彼のアトリエを訪ねると、三上は憔悴しきった様子で彼を迎え入れた。壁には、島崎夫人を描いたと思われる肖像画が何枚もかけられている。そのどれもが、愛情と敬意に満ちた筆致で描かれていた。
「この楽譜に見覚えはありますか」
湊がノートを差し出すと、三上は目を見開いた。
「これは……夫人が若い頃に作曲していた曲です。完成させるのが夢だと、おっしゃっていました」
「楽譜に描かれた、この色の円の意味が分かりますか?」
三上は首を横に振った。
「さあ……。夫人は時々、不思議なことをおっしゃいました。『あなたの声は、本当に綺麗な青色をしているのね』とか、『今日の夕焼けは、まるでラフマニノフの協奏曲みたいだわ』とか……」
やはり、間違いない。湊は確信した。そして、三上の声の「青色」に潜んでいた別の色の気配の正体にも気づいた。それは、彼が描く絵の具の色であり、島崎夫人への純粋な思慕の色だった。彼は犯人ではない。
では、誰が?
湊の思考は、再びあの漆"黒の沈黙"に戻った。音を完全に消す。そんなことが可能なのか。耳栓や防音室のような物理的な方法ではない。なぜなら、湊が感じたのは、部屋全体を覆うような絶対的な無音の「残像」だったからだ。まるで、音の波そのものを打ち消すような、何か特殊な力が働いたかのような。
その時、湊の脳裏に、一つの記憶が蘇った。葬儀の日、参列者に甲斐甲斐しくお茶を配っていた、一人の初老の女性。長年、島崎家に仕えてきた家政婦の、田所トメだ。彼女の立ち居振る舞いは常に控えめで、その声は、穏やかで人当たりの良い「薄緑色」をしていた。
しかし、湊は一度だけ、彼女の色の「揺らぎ」を見たことがある。それは、親戚の一人が遺産について下品な冗談を言った時だった。一瞬、彼女の薄緑色の声が、まるで感情を失ったかのように、のっぺりとした「灰色」に変わったのだ。すぐに元の色に戻ったため、気のせいかと思っていたが……。
感情を完璧に隠すことができる人間。その声は、色を失う。
もし、彼女が島崎夫人の共感覚を知っていたとしたら? そして、その感覚を逆手に取る方法を知っていたとしたら?
湊は、最後のピースをはめるべく、再びあの洋館へと向かった。
第四章 灰色の告白
湊が島崎邸の音楽室を訪れると、田所トメがピアノにワックスをかけていた。主を失った後も、彼女は甲斐甲斐しくこの家を守っているようだった。
「柏木様。またいらっしゃったのですか」
彼女の声は、いつもの穏やかな薄緑色だった。
「ええ。少し、気になったことがありまして」
湊はまっすぐに彼女の目を見つめた。「島崎夫人は、音に色が見える人でした。あなたも、そのことをご存知でしたね?」
田所の指が、一瞬だけ止まった。だが、表情は変わらない。
「さあ……。奥様は、時々詩的なことをおっしゃる方でしたから」
「彼女が遺した楽譜です」
湊は例のノートを開き、漆黒の円が描かれた全休符のページを彼女に見せた。「この『漆黒の沈黙』を作り出したのは、あなたですか」
その瞬間、田所の声から、色が消えた。薄緑色のオーラがすっと掻き消え、無機質な「灰色」が露わになる。感情というフィルターを全て取り払った、空虚な色。
「……何のことです?」
「あなたは、夫人の心臓が弱いことを知っていた。そして、彼女が助けを呼べない状況を作り出した。音を消すことで」
湊は続けた。「どうやったのかは分かりません。おそらく、特定の周波数をぶつけて音を相殺するような、特殊な装置でも使ったのでしょう。夫人が苦しみ、必死に声を出そうとしても、その声は誰にも届かない。完全な静寂の中で、恐怖と絶望が彼女の心臓を止めた」
田所は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、ガラス玉のように何の感情も映していなかった。
「あの人は、全てを若造にやると言ったのです。何十年も、この私があの方に尽くしてきたというのに。私の人生は、この家と共にあったというのに。なのに、ぽっと出の若造に……」
その声は、もはや灰色ですらなかった。音としての響きはあっても、湊には何の色彩も見えない。それは、感情を完全に殺した者だけが発することのできる、無色の声だった。
彼女は、島崎夫人が共感覚者であることを長年の付き合いの中で知り、それを疎ましく、そして嫉ましく思っていた。自分には見えない世界を見、自分には理解できない言葉を語る主人。その特別な世界を、彼女は最も残酷な形で利用したのだ。全ては、遺産が自分のものにならないと知った絶望からだった。
やがて、田所は自らの犯行を認めた。彼女が使ったのは、知人から手に入れたという実験段階のノイズキャンセリング装置だった。小さな機械だったが、一部屋の音をほぼ完全に打ち消すほどの性能があったという。彼女の告白は、色を失ったまま、淡々と続いた。
事件が解決した後、湊は一人、音楽室のピアノの前に座っていた。そして、島崎夫人が遺した未完の楽譜を、もう一度弾き始めた。漆黒の全休符で途切れた、その先を。
彼の指が、自然と動き出す。失われたはずのメロディが、彼の内側から溢れ出てくる。それは、島崎夫人の悲しみを受け止め、乗り越え、そしてその先にある希望を奏でる旋律だった。彼の指から紡ぎ出される音は、銀色の霧となり、淡い青となり、そして力強い黄金色の光となって、静かな部屋を満たしていく。それは、時を超えて交わされる、二人の共感覚者による魂の対話だった。
事故以来、初めてだった。自分の意志で、自分の色を奏でたのは。もう二度とピアニストとして舞台に立つことはないだろう。だが、それでよかった。
湊は、自分のこの体質を、呪いではなく、世界を豊かに彩る個性として受け入れることができた。彼は調律師として、これからも音と色に満ちた世界を生きていく。失われた音を調律し、忘れられた色彩を呼び覚ますために。
窓の外では、夕日が港を茜色に染めていた。それはまるで、壮大な交響曲のフィナーレのように、美しく、そしてどこか切ない色をしていた。