深淵の夢が誘う

深淵の夢が誘う

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第一章 深淵への序曲

佐倉悠斗の日常は、鉛色の空の下、淡々とした筆致で描かれたモノクロームの絵画のようだった。フリーランスのデザイナーとして、自宅の小さなアトリエでひたすらモニターと向き合う日々。彼の人生には、ドラマティックな展開も、心躍る冒険も存在しなかった。少なくとも、あの夜までは。

その夜、悠斗は鮮烈な悪夢にうなされた。湿気を帯びた薄暗い廃屋。腐朽した床板が軋む音。カビの匂いが鼻腔を突き、冷たい空気が肌を撫でた。そして、そこで繰り広げられる、おぞましい光景。見知らぬ若い女性が、影のような男に襲われている。抵抗する女性の叫び声は、まるでガラスが砕けるように悠斗の鼓膜を突き刺した。男の影がゆっくりと女性の首に手を伸ばし、そして……。悠斗は全身にびっしょりと汗をかき、心臓が警鐘のように鳴り響く中で、跳ね起きる。朝日はすでに窓を越え、彼の部屋を淡いオレンジ色に染めていたが、夢の残像は目の奥に焼き付いて離れなかった。

「夢…だったのか…」

悠斗は荒い息を整え、夢で見た光景がただの想像の産物であることを自分に言い聞かせた。しかし、妙な違和感が残った。夢の中の廃屋の構造、壁のシミの形、床に散らばったガレキの一つ一つまで、驚くほど鮮明に記憶に残っているのだ。特に、壁に無造作に描かれた、朱色の粗野な鳥の絵が、妙に心に残っていた。

その数日後、悠斗はいつものようにニュースサイトを閲覧していた。地元で未解決の女性殺害事件が報じられている。被害者は20代の女性。発見場所は、郊外の廃屋。掲載されていた現場の遠景写真に、悠斗は息を呑んだ。それは紛れもない、あの夜、夢で見た廃屋だった。腐食した屋根、傾いた壁、そしてわずかに映り込む、夢で見た鳥の絵らしきもの。彼の日常は、一瞬にして鮮やかな色彩を取り戻し、しかしそれは同時に、おぞましい予感の色に染まっていった。

それからというもの、悪夢は毎夜、悠斗を襲うようになった。夢の中では、廃屋の様子はより鮮明に、女性の姿はより明確に、そして犯人の影はより深く、彼の中に刻み込まれていく。そして、夢を見るたびに、彼の現実世界での五感に微細な変化が訪れ始めた。ある日は、いつものコーヒーの香りが薄く感じられ、またある日は、デザインの微妙な色合いの差が曖昧に感じられるようになった。それはまるで、彼の五感が、現実の光景から少しずつ色褪せていくかのようだった。

第二章 夢が紡ぐ微かな手がかり

悠斗は、毎夜繰り返される悪夢から逃れる術を見つけられずにいた。寝るのが怖く、かといって眠らないわけにもいかない。疲労が蓄積し、彼の目には常に隈ができていた。しかし、同時に、夢が持つ奇妙な「情報源」としての側面に、抗しがたい魅力を感じ始めていた。警察に夢の話をしても信じてもらえないだろう。そう悟った悠斗は、自らの手で事件の真相を突き止めようと決意した。

彼は夢の中で見た手がかりを、細心の注意を払ってノートに記録していった。殺された女性の着ていたワンピースの柄、犯人の影が残した足跡の大きさ、廃屋に漂っていた独特の土と鉄の匂い、そして壁に残された朱色の鳥の絵。それらの断片的な情報が、奇妙なパズルのピースのように彼の頭の中に散らばっていた。

昼間は、ノートを片手にインターネットで廃屋の場所を特定しようと試みた。郊外の廃屋はいくつもあったが、夢で見た特徴と合致する物件が一つだけ見つかった。それは地元で「幽霊屋敷」として知られる、古びた洋館だった。悠斗は、自身の五感の衰えを日々実感していた。特に視覚は顕著だった。モニターに映る色彩のグラデーションが、以前よりも単調に見える。聴覚もまた鈍くなり、街の喧騒が遠く聞こえるようだった。しかし、夢の中の光景だけは、驚くほど鮮明さを増していった。

ある夜の夢で、彼はさらなる衝撃的な手がかりを得る。女性が殺される直前、か細い声で何かを呟いていたのだ。それは聞き取れるかどうかの微かな音だったが、悠斗の耳にははっきりと届いた。

「…赤…い…鳥…」

その言葉は、悠斗の脳裏に焼き付いていた朱色の鳥の絵と結びついた。そして、彼は夢の中で、犯人の影が残した匂いを嗅いだ。それは、古びた革と、微かに甘い、どこか懐かしいような香水の混じった匂いだった。現実世界では、嗅覚もまた麻痺し始めていたが、夢の中では信じられないほど鋭敏になっていた。

廃屋の場所を特定し、「赤い鳥」という言葉が浮かび上がったことで、悠斗の心にわずかな希望が灯った。この夢は、彼に真実を教えてくれようとしている。そう信じて疑わなかった。だが、その代償は大きかった。彼は知らぬ間に、現実というキャンバスから、色彩と音を奪われていたのだ。

第三章 現実と虚構の境界線

「赤い鳥珈琲店」。悠斗は、夢で得た手がかりから、ついに被害者・美咲が勤めていたカフェを突き止めた。店の看板には、確かに朱色の鳥のイラストが描かれている。店の中は、焙煎されたコーヒー豆の香りが漂い、落ち着いたジャズが流れていた。しかし、悠斗の鼻はほとんどその香りを捉えられず、耳にはジャズの旋律も濁って聞こえた。

彼は美咲の元同僚だという女性に話を聞いた。彼女は、美咲が事件に巻き込まれたことを今も悲しんでいるようだった。「美咲さんは、本当に明るくて、優しい人でした。でも…ここ数ヶ月、悩んでる様子で…」

「何か、心当たりは?」悠斗は声を絞り出した。

「ええ…実は、美咲さんのことをしつこく追い回す男性がいたんです。毎日、店に来ては美咲さんを見つめていて…まるで、獲物を狙う鷹のように。美咲さんもすごく怖がっていました」

同僚の女性は続けた。「その人、絵とか骨董品を集めるのが趣味だって言ってたんです。特に、抽象画に詳しいって。それで、よく店の壁に飾ってあった鳥の絵を褒めていたわ」

「鳥の絵…ですか?」

「ええ、あの朱色の鳥の絵。美咲さんがデザインしたもので、この店のシンボルだったんです」

悠斗の心臓が激しく脈打った。夢で見た廃屋の壁にあった朱色の鳥の絵。それは、美咲がデザインした、このカフェのシンボルだったのだ。そして、美咲をストーキングしていた男が、絵の収集家であり、その絵に執着していた。点と点が線でつながり、事件の輪郭が、輪郭がはっきりと見えてきた。

しかし、同時に悠斗の感覚の麻痺は深刻化していた。もはや、色彩はほとんど識別できず、世界はグレーの濃淡で構成されているかのようだった。音も遠く、もはや人の声も聞き取りづらい。彼の脳裏には、夢の中で見た光景だけが鮮明に広がっていた。現実と夢の境界線は曖昧になり、どちらが本当の世界なのか、もはや彼には判断がつかなくなっていた。

その夜の夢で、ついに犯人の顔が鮮明になった。それは、以前カフェで見かけたことのある、どこか見覚えのある男だった。端正な顔立ちだが、その目はどこか冷たく、底の見えない闇を湛えていた。その男こそが、美咲をストーキングしていた絵の収集家、黒田という男だった。

悠斗は確信した。この夢こそが、唯一の真実なのだ。しかし、その確信とは裏腹に、彼の五感は急速に現実から遠ざかっていった。世界は音を失い、色を失い、香りも感触も、すべてを奪っていく。この真実に近づくことで、なぜ彼は現実の全てを失っていくのだろうか?まるで、彼の五感が「真実から目を背けさせる」かのように、意図的に機能不全に陥っているのではないか?あるいは、この夢そのものが、彼を惑わすための罠なのではないか、という疑念が、彼の心の奥底に芽生え始めていた。

第四章 偽りの影、真実の淵

悠斗は、夢で見た犯人の特徴と、カフェで聞いたストーカーの情報を照合し、美術品の収集家である黒田という男を容疑者として特定した。彼の名前を警察に匿名で伝えたが、明確な証拠がないためか、捜査は進まなかった。悠斗は自ら黒田の情報を集め始めた。黒田は地元では名の知れた資産家で、彼には完璧なアリバイが存在した。事件発生時、彼は遠方の美術品オークションに参加していたことが、複数の証言と記録で裏付けられていたのだ。

悠斗は混乱した。夢は真実を教えてくれるはずではなかったのか?彼の夢は、警察の捜査と全く合致しない。世界はグレーの濃淡から、さらに深く暗い闇へと沈んでいく。もはや色彩は認識できず、音もほとんど聞こえない。手のひらで触れるものの感触も曖昧で、食物の味も、花の香りも、何も感じられない。彼は夢の中でしか世界を認識できない状態に陥っていた。

そんなある日、悠斗は過去の記憶と夢が重なり始めることに気づいた。彼の脳裏に、幼い頃の断片的な記憶が蘇る。荒れた洋館、影のような男、そして悲鳴。彼は幼い頃、ある事件に巻き込まれ、そのショックで一部の記憶を失っていたのだ。それが、彼が毎夜見ている夢と酷似している。美咲の事件と彼の過去が、まるで鏡合わせのように反響し合っているかのようだった。

「もしかして、夢で見ていたのは…美咲さんじゃなくて…」

悠斗は、夢の中で殺されていた女性の顔が、少しずつ、自分の幼い頃の母親の顔と重なっていくことに気づいた。そして、犯人の影もまた、彼の父親の影、あるいは、彼自身が抑圧していた「何か」の象徴に見え始めた。彼の脳は、幼い頃の深いトラウマを、現在の未解決事件と結びつけることで、再構築していたのではないか?彼が見ていた「真実」は、現実の事件とは全く別の、彼自身の深層心理が作り出した、ねじ曲がった幻だったのではないか?

彼の五感が麻痺していったのは、真実を追い求めた代償ではなく、彼の脳が、あまりにも辛い過去の真実、彼自身が目を背けていた「それ」から、彼を守ろうとした防衛反応だったのかもしれない。五感を奪うことで、彼を幻の中に閉じ込め、現実の痛ましい過去から目を逸らさせようとしていたのだ。美咲の事件は、その再構築された夢と、偶然にも重なっただけ。あるいは、彼の無意識が、現実の事件を自身の過去の幻に引きずり込んだのかもしれない。

悠斗は恐怖に震えた。彼が真実だと信じて追い求めてきたものは、すべて偽りだった。そして、その偽りの夢が、彼の全てを奪い去ったのだ。

第五章 夢の終わり、そして始まり

悠斗は、自身の五感喪失と、夢と現実の乖離に絶望し、精神科医の診察を受けることになった。医師は、彼の症状が「解離性遁走」の一種である可能性を示唆した。幼い頃に経験した深刻なトラウマ、彼の母親が失踪した事件が、彼の中で未解決のまま深く抑圧されており、それが現実の事件をトリガーとして、悪夢という形で再発したのだと。彼の五感の麻痺は、現実の苦痛から彼自身を切り離そうとする、脳の極端な防衛反応だった。

「夢の中で見たのは、現実の事件ではなく、あなたの心の深い部分が作り出した、過去の記憶の再演だったのかもしれません」医師の言葉は、まるで麻痺した耳の奥に響くようだった。

悠斗は、これまで目を背けてきた幼い頃の記憶と向き合った。母親の失踪は、実は父親のDVが原因だったこと。そして、彼自身がその現場を目撃し、あまりの恐怖に記憶を消し去ってしまったこと。夢の中で犯人だと思っていた「影」は、父親の姿であると同時に、彼自身の深い恐怖と罪悪感の象徴だった。彼は、自身のトラウマを再構築し、無意識のうちに「事件」を作り上げていたのだ。

数日後、ニュースで美咲殺害事件の真犯人が逮捕されたという速報が流れた。悠斗が見ていた夢とは全く異なる人物による犯行だった。彼の夢が真実ではなかったことが、ようやく現実として彼の中に落とし込まれた。

悠斗の五感が完全に回復することはなかった。世界は相変わらず色を失い、音は遠く、触れるものも曖昧なまま。しかし、彼はその現実を受け入れた。五感を失ったことで、彼はこれまで見えていなかった心の景色を見つめることができるようになった。彼のデザインは、もはや視覚に頼るだけでなく、触覚や、記憶、そして心の動きを表現するような、より深く、本質的なものへと進化していった。彼は、見えない世界の中で、これまで気づかなかった豊かな内面の世界を発見したのだ。

彼は、アトリエの窓から差し込む、もはや色を認識できない光を見つめた。あの悪夢は終わった。しかし、彼は新しい「真実」への旅路を歩み始めた。五感を失ったことで、彼は初めて本当に「見る」ことができるようになったのかもしれない。彼が見ているのは、もはや外界の色や形ではない。彼の心に映し出される、無限の色彩と形なのだから。

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