第一章 約束の訪問者
古びたインクと紙の匂いが満ちる空間で、蒼井湊は生きていた。彼の営む古書店「時紡ぎ堂」は、街の片隅で静かに呼吸している。背表紙の褪せた本棚に囲まれ、窓から差し込む午後の光が埃を金色にきらめかせる。湊にとって、この静寂こそが日常であり、砦だった。
その均衡が崩れたのは、ある雨の日のことだった。ドアベルがちりん、と寂しげな音を立て、一人の女性が入ってきた。濡れた傘から滴る雫が、使い古された床板に小さな染みを作る。年の頃は湊と同じくらいだろうか。透き通るような白い肌と、何かを探るような深い眼差しが印象的だった。湊には全く見覚えのない顔だった。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、彼女は真っ直ぐにカウンターへ進み出た。そして、コートのポケットから、古びた真鍮の鍵を一つ、ことりと置いた。繊細な細工が施された、見慣れない鍵だ。
「約束のものを、いただきに参りました」
凛とした、しかしどこか震えを帯びた声だった。
湊は眉をひそめた。約束? この鍵にまつわるどんな約束も、彼の記憶には存在しなかった。
「申し訳ありません。何かのお間違いでは……?」
「いいえ、間違いではありません」彼女は静かに首を振る。「あなたが、忘れているだけです」
その言葉は、湊の胸に冷たい棘のように突き刺さった。忘れている。それは、彼が最も恐れる言葉だった。湊は、原因不明の記憶障害を患っていた。それは、毎晩眠りに就くと、その日に起きた出来事の中から「最も重要だと脳が判断した記憶」を一つだけ、綺麗さっぱり失ってしまうという奇妙な症状だった。彼はそれを、生きるために課せられた『忘却の税』と呼んでいた。
だからこそ、湊は日記をつけていた。日々の出来事を克明に記し、翌朝、失われた記憶の断片をそこから拾い上げる。それが彼の命綱だった。
「心当たりがありません」湊は努めて冷静に答えた。
女性は悲しげに瞳を揺らがせたが、すぐに表情を引き締めた。「では、明日また来ます。それまでに、思い出してください。あなたの『最も大切なもの』と、引き換えですから」
そう言い残し、彼女は鍵を置いたまま店を出ていった。雨音が遠ざかる彼女の足音をかき消していく。
カウンターの上に残された真鍮の鍵が、鈍い光を放っていた。最も大切なもの。それは一体何だ? 湊は背筋に走る悪寒を覚えながら、急いで日記帳を開いた。今日のこの不可解な出来事が、今夜納めるべき『忘却の税』になってしまう前に。一字一句、詳細に書き留めなければ。震える手でペンを握りしめながら、彼はまだ見ぬ明日の自分に向けて、必死に今日の記憶を刻みつけていった。
第二章 失われる糸口
翌朝、湊は重い頭痛と共に目覚めた。昨夜の雨は上がり、窓の外では鳥がさえずっている。いつもの朝だ。しかし、胸の内に巣食う靄のような不安が晴れることはない。彼はベッドから起き上がると、すぐに机の上の日記帳を開いた。
昨日の日付のページには、乱れた筆跡で、謎の女性と真鍮の鍵のことが記されていた。やはり忘れている。彼女の顔、声、そして彼女が放った謎めいた言葉の感触が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側にあるように、現実味を帯びてこない。日記がなければ、昨日の出来事は彼の人生に存在しなかったも同然だった。
午後になり、ドアベルが鳴った。昨日と同じ時間に、彼女は現れた。
「思い出していただけましたか?」
期待を込めた眼差しが、湊を射抜く。彼は正直に告げるしかなかった。
「すみません……。日記で読んだのですが、どうしても実感が湧かないんです」
彼女の肩が、微かに落ちた。その落胆の色はすぐに消え、彼女は静かに店内を見渡すと、ある一点を指差した。
「では、ヒントを。あそこにある本……『失われた時を求めて』。あれが、最初の鍵です」
それは、ガラスケースの中に鎮座する、貴重な初版本だった。湊は言われるがままに本を取り出し、頁を一枚一枚丹念に調べた。しかし、書き込みも、栞も、何も挟まってはいない。ただの、美しい古書だった。彼が顔を上げると、彼女はもういなかった。
その夜、湊は日記に『失われた時を求めて』のことを詳しく書き記した。だが、翌朝、彼はその本を調べたという記憶そのものを失っていた。
奇妙な日々が始まった。彼女は毎日、同じ時間に現れる。そして、思い出せない湊に、一つずつヒントを与えて去っていく。二人の思い出が詰まっているというオルゴール。湊が初めて彼女に贈ったという、押し花の栞。湊が彼女のために作ったという、星空を模した万華鏡。
ヒントは増えていく。しかし、湊の記憶のパズルは一向に完成しない。ピースを手に入れるたびに、そのピースに関する最も重要な記憶を失ってしまうからだ。まるで、穴の空いた網で水をすくうような、虚しく、終わりのない作業だった。
湊は次第に追い詰められていった。この女性は誰なんだ? ストーカーか? それとも、自分が過去に犯した何らかの罪の復讐者か? 彼女が与えるヒントは、どれも温かく、親密なものばかりだ。だが、それを覚えていない湊にとっては、不気味な侵食でしかなかった。日記のページは増えていくが、彼の心はますます空っぽになっていく。自分自身が信用できないという恐怖が、じわじわと彼の精神を蝕んでいった。
第三章 忘却の税の正体
その日、湊は日記を読み返していて、ある異変に気づいた。ここ数日の自分の筆跡。全体的にはいつも通りなのだが、謎の女性について記述している箇所だけ、インクが滲み、文字の輪郭が微かに震えている。まるで、無意識の自分が何かを訴えようと、もがいているかのようだ。
もう限界だった。このままでは、狂ってしまう。湊は一つの決意を固めた。
「今夜は、眠らない」
忘却の税から逃れる唯一の方法。彼は店のシャッターを下ろし、鍵をかけた。コーヒーを何杯も淹れ、カウンターにこれまでの日記と、彼女が残していったヒントの品々を並べた。鍵、オルゴール、栞、万華鏡。バラバラの証拠が、一つの物語を語りたがっているように見えた。
時計の針が真夜中を指そうかという、その時だった。
カチャリ、と静かな音がして、閉めたはずの店のドアが開いた。そこに立っていたのは、彼女だった。合鍵を持っているのか。驚きと恐怖で凍りつく湊を見て、彼女はさらに驚いた顔をした。
「どうして……起きているんですか? あなたはいつも、この時間にはもう……」
その言葉が、雷となって湊の脳を撃ち抜いた。彼女は、なぜ自分が眠っている時間を知っている?
「あなた、は、一体誰なんだ」絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、湊が初めて見る、彼女の剥き出しの感情だった。
「私を……本当に、覚えていないのね。湊さん」
彼女は、震える声で語り始めた。彼女の名前は、遥(はるか)。蒼井湊の、妻だった。
数年前、二人は事故に遭った。湊は一命を取り留めたが、脳に損傷を負った。それが、この奇妙な記憶障害の原因だった。そして、事故の衝撃は、彼の記憶から最も大切な存在――妻である遥の顔、声、その存在の全てを、根こそぎ奪い去ってしまった。
「お医者様は言ったわ。新しい記憶を植え付けるのは、ほぼ不可能だって。でも、私は諦めきれなかった」
遥は、毎日、初めて会う他人として夫に会いに来ていたのだ。二人の思い出の品をヒントに、奇跡が起こることを信じて。彼が記憶を取り戻してくれることを、ただひたすらに祈って。
「『約束のもの』は、私たちの結婚の誓い。『最も大切なもの』は……私自身のことよ。あなたの愛の記憶」
湊は、その場に崩れ落ちそうになった。サスペンスだと思っていた。自分を脅かす存在だと思っていた。だが、違った。彼女は、終わりのない絶望の中で、たった一人で愛を繋ぎ止めようとしていたのだ。
そして、彼が毎晩納めていた『忘却の税』。その正体は、その日、遥と過ごしたかけがえのない時間。彼が失い続けていたのは、他の何でもない、妻との『最も重要な記憶』だったのだ。日記の筆跡の乱れは、記憶を失った魂が、それでも彼女を思い出そうとしていた悲痛な叫びだった。
第四章 明日の君への伝言
打ちのめされた沈黙が、二人を包んだ。インクと古い紙の匂いに、遥の微かなかすかな嗚咽が混じる。湊は、言葉を失っていた。自分が忘却の淵をさまよっている間に、愛する人がどれほどの孤独と戦ってきたのか。想像を絶する事実に、胸が張り裂けそうだった。
「ごめん……。すまない……」
やっとの思いで口にした言葉は、あまりにも無力だった。
遥は涙を拭い、静かに微笑んだ。その笑顔は、ひどく痛々しく、そしてこの世の何よりも美しかった。
「いいの。謝らないで。あなたを失いたくなかった。たとえ毎日忘れられても、毎日あなたに新しく出会えるなら、それでよかったの」
その言葉が、湊の心の最も深い場所に届いた。彼はゆっくりと立ち上がり、震える腕で遥を抱きしめた。初めて触れるはずなのに、その温もりは、ずっと昔から知っているような気がした。魂が、覚えている。
明日になれば、また遥を忘れてしまうだろう。この衝撃的な夜の記憶すら、「最も重要な記憶」として税金のように奪い去られるかもしれない。忘却という名の怪物は、これからも毎日、彼の元へやってくる。
だが、湊の中で何かが確実に変わっていた。これまでは、ただ忘れることを恐れ、失われた過去に怯え、孤独に殻を閉ざしてきた。だが、今は違う。目の前に、守るべき存在がいる。たとえ記憶がなくなっても、この温もりと、彼女を愛しいと思うこの感情は、消えないはずだ。
彼は、忘却に抗うのではなく、それを受け入れた上で、愛し続けることを選ぼうと決意した。
遥を腕に抱いたまま、湊はカウンターの日記帳に目をやった。そして、新しいページを開くと、ペンを手に取った。彼は、今日の全ての出来事を書き記した。妻の名前、事故のこと、忘却の税の正体。そして、その文章の最後に、彼はこう書き加えた。
『明日の僕へ。
これを読んだら、きっと君は混乱し、絶望するだろう。だが、一つだけ約束してほしい。
目の前にいる女性を、力いっぱい抱きしめてあげてほしい。
彼女の名前は、遥。
君が世界で最も愛した人だ。そして、今も君を愛し続けてくれている人だ。
たとえ記憶がなくても、大丈夫。
君の心は、きっと彼女を覚えているはずだから』
ペンを置き、湊はもう一度、愛する妻を強く抱きしめた。
終わることのないサスペンスのような毎日の中で、彼は確かな希望を見出していた。記憶ではなく、意志の力で愛を紡いでいく。明日、また新しく彼女に出会い、そして、新しく恋に落ちるのだ。その決意だけが、忘却の闇を照らす、唯一の光だった。