第一章 孤独な残響
死は、いつも唐突に訪れ、そして静かに沈黙を残していく。俺、水島蓮(みずしま れん)の仕事は、その沈黙を拭い去ることだ。特殊清掃員。世間が目を背ける孤独の痕跡を、化学薬品の匂いと共に消し去るのが日常だった。
その日、俺が訪れたのは、都心から少し離れた古いアパートの一室だった。依頼主は遠縁の親戚だという。亡くなったのは高橋さん、八十歳。発見が遅れ、夏の熱気が部屋に濃密な死の香りを澱ませていた。防護服に身を包み、黙々と作業を進める。生活の痕跡をゴミ袋に詰めていく。それはまるで、一人の人間の人生を、乱暴に要約していくような作業だった。
部屋は、驚くほど整然としていた。古いが手入れされた家具。きちんと畳まれた寝具。彼の生前の律儀さが伝わってくる。だからこそ、その空間に漂う死の気配は、より一層の孤独を際立たせていた。
すべての作業が終わり、最後の消臭剤を噴霧した、その瞬間だった。
――ひまわり、まだ咲いてるかい。
しわがれた、しかし確かな意志のこもった声が、鼓膜ではなく、頭蓋の内側に直接響いた。俺は動きを止める。またか。この能力とも呪いともつかない現象が、俺に取り憑いて久しい。死者がその場所で最後に発した言葉が、一度だけ聞こえるのだ。それは大抵、苦悶のうめきか、意味をなさない単語の羅列だ。俺はそれに意味を見出そうとせず、ただの疲労が見せる幻聴として処理してきた。
だが、今日の言葉は違った。あまりにも鮮明で、具体的な問いかけだった。俺は無意識に部屋の中を見回す。しかし、ひまわりの絵一枚、造花の一本すらない。ただ、文机の上に、一枚だけ写真立てが置かれていた。セピア色に変色した写真には、満開のひまわり畑を背景に、若き日の高橋さんと、優しそうに微笑む女性が写っている。
「ひまわり……」
俺は呟き、その写真をそっと元の場所に戻した。いつもの残響だ。意味はない。そう自分に言い聞かせ、部屋の扉を閉めた。だが、その老人の声は、消毒液の匂いよりも強く、俺の心に染み付いて離れなかった。
第二章 色褪せた写真の謎
日常は変わらず、死の現場を転々とする日々が続いた。二十代の女性が自ら命を絶ったワンルームマンションでは、「ごめんなさい」という囁きが聞こえた。持病で倒れた中年男性のアパートでは、「水……」という掠れた声が響いた。それらはどれも、死の瞬間の断片であり、俺の心を通り過ぎていくだけのはずだった。
しかし、高橋さんの「ひまわり、まだ咲いてるかい」という言葉だけが、頭の中で何度も再生された。あの穏やかで、どこか切実な響き。それは、単なる断末魔の叫びとは異質な、誰かに向けられた明確なメッセージのように思えた。
週末、俺は休みを取っていたが、何をするでもなく、ただ無為に時間を過ごしていた。テレビの音も耳に入らない。ふと、高橋さんのアパートの大家の顔が思い浮かんだ。詮索など、自分の柄ではない。他人の人生に深入りしても、ろくなことにはならない。そう分かっていながら、俺の足は自然とあのアパートへ向かっていた。
「高橋さん、ですか。ええ、物静かないい方でしたよ」
大家の老婆は、縁側でそう言った。
「奥様に先立たれてからは、ずっとお一人でねえ。ご夫婦、本当に仲が良かったから。毎年夏になると、二人でどこかに出かけていたのを思い出しますよ」
「どこへ行っていたか、ご存知ですか?」
俺の問いに、老婆は少し考え込み、やがて皺くちゃの顔で笑った。
「さあ……。でも、いつもひまわりの話をしていましたねえ。故郷のひまわり畑が、日本一なんだって、自慢げに。奥様との、思い出の場所だったんでしょう」
故郷。ひまわり畑。その言葉の組み合わせが、俺の記憶の深い場所にある扉を、軋ませながらこじ開けた。俺にも、故郷があった。音楽家の夢に破れ、家族とも顔を合わせづらくなって、もう十年以上も帰っていない場所。その故郷の町外れに、広大なひまわり畑が広がっていた。子供の頃、夏になると決まって連れて行かれた、太陽の匂いがする場所。
まさか。そんな偶然があるはずがない。だが、高橋さんの写真に写っていた、なだらかな丘陵に広がる黄色い絨毯は、俺の記憶の中の風景と不気味なほど一致していた。
俺は、自分のこの能力を疎んできた。死者の最後の言葉など、聞きたくもなかった。それはただ、生きることへの執着や後悔の残滓であり、聞く者の心を蝕むだけだと思っていたからだ。だが、もし、あの言葉に意味があるとしたら? 俺がそれを確かめもせずに聞き流すことは、高橋さんの最後の想いを踏みにじることになるのではないか。
気づけば、俺はスマートフォンの画面で、故郷へ向かう夜行バスのチケットを予約していた。
第三章 ひまわり畑の答え
夜行バスに揺られ、十数年ぶりに降り立った故郷の駅は、記憶の中よりもずっと寂れていた。そこからさらにローカル線を乗り継ぎ、バス停から歩くこと三十分。目の前に、黄金色の海が広がった。夏の終わりの陽光を浴びて、少しだけ首を垂れたひまわりたちが、風に揺れている。その光景は、俺が忘れていたはずの、幼い日の夏の匂いを連れてきた。
畑の入り口に、小さな木造の休憩所があった。壁には、この畑の歴史を紹介する写真が何枚も飾られている。その一枚に、俺は釘付けになった。高橋さんの部屋にあった、あの写真だ。若い高橋さんと、隣で微笑む女性。写真の下には、真鍮のプレートが打ち付けられていた。
『このひまわり畑を愛し、守り続けた高橋正雄・春子夫妻に、心からの感謝を込めて』
心臓が大きく脈打った。やはり、ここのことだったのだ。俺がプレートを呆然と見つめていると、後ろから優しい声がした。
「懐かしい写真でしょう? この畑を始めた、高橋さんご夫婦よ」
振り返ると、エプロン姿の初老の女性が、お茶の入った盆を持って立っていた。休憩所の管理人らしい。
「あの、このご夫婦のこと、ご存知なんですか?」
「ええ、もちろん。春子さんには、昔からお世話になってね。ご主人が都会で働いている間も、春子さんはここで子供たちにピアノを教えていたのよ」
ピアノ、という単語が、雷のように俺の全身を貫いた。
「まさか……高橋、春子先生?」
俺の声は震えていた。女性は驚いたように目を丸くし、そして、何かを思い出したように顔をほころばせた。
「あら! あなた、もしかして、蓮くんじゃない? 小さい頃、春子先生にピアノを習っていた……。先生、いつもあなたのことを自慢していたわ。『あの子の弾くピアノは、まるでひまわりのように明るくて、人を元気にする力がある』って」
記憶の洪水が、堰を切ったように溢れ出す。そうだ。春子先生。いつも優しく、俺の拙い演奏を、太陽のような笑顔で褒めてくれた先生。発表会で失敗して泣いていた俺の頭を撫で、「蓮くんの音は、ちゃんと人の心に届いているわ」と言ってくれた。俺が音楽家を目指すきっかけをくれた、大切な恩師。
夢に破れ、ピアノから逃げ出した俺は、先生の記憶さえも、意図的に心の奥底に封じ込めていたのだ。高橋さんとは、春子先生の夫だったのか。
「ご主人はね、奥様が亡くなってからも、毎年夏になるとここへ手伝いに来てくれていたの。でも、去年から足腰が弱ってしまってね……。今年は来られないって、寂しそうに電話があったきり……」
俺は、すべてを理解した。高橋さんの最後の言葉。「ひまわり、まだ咲いてるかい」。それは、最愛の妻・春子先生との思い出の場所への問いかけであり、そして、春子先生が「ひまわり」のようだと愛した、かつての教え子である俺の「音楽」は、まだ咲いているのかという、遠い空からの問いかけでもあったのだ。俺が捨て去った夢の残響が、時を経て、こんな形で俺の元へ届いた。
俺は、ひまわり畑に向かって、ただ立ち尽くしていた。頬を伝うのが、汗なのか涙なのか、もう分からなかった。
第四章 新しいソナタ
東京に戻った俺の日常は、表面的には何も変わらなかった。相変わらず防護服を着て、孤独が残した染みを消していく。だが、俺の内側では、何かが決定的に変わっていた。
死者の最後の残響は、今も聞こえる。だが、それはもう、不気味な幻聴ではなかった。短い言葉の向こう側にある、誰かの人生の最後の瞬間に、俺は静かに耳を傾けるようになった。それは悲しく、時に無念に満ちている。しかし、その一つ一つが、確かに生きた証なのだと思えるようになった。俺の能力は、呪いではなく、誰にも届かなかった最後の想いを受け取るための、孤独な役割なのかもしれない。
ある日の夜、俺は実家に電話をかけた。十数年ぶりのことだった。電話口の母はひどく驚き、そして泣き声になった。ぎこちない会話を交わした後、俺は一つの頼み事をした。
数日後、実家から大きな荷物が届いた。中に入っていたのは、俺が高校卒業と同時に物置の奥に押し込んだ、古い電子ピアノだった。鍵盤にはうっすらと埃が積もっている。
俺は椅子に座り、そっと蓋を開けた。鍵盤に指を置く。どんな音を奏でればいいのか分からない。もう、昔のように滑らかに指は動かないだろう。
それでも、俺はゆっくりと指を沈めた。
ポーン。
部屋に、一つの音が響いた。それは決して美しい音ではなかった。長年のブランクを感じさせる、硬く、不器用な音。だが、それは絶望の音ではなかった。確かな、始まりの音だった。
窓の外では、西日が街をオレンジ色に染めていた。その光が部屋に差し込み、まるで一輪のひまわりのように、俺とピアノを優しく照らし出す。
これからも俺は、死者たちの最後の声を聞き続けるだろう。その声と共に、彼らの孤独を拭い去っていく。だが、もう俺自身は孤独ではなかった。あのひまわり畑で受け取った温かい残響が、俺の心の中で、新しいソナタを奏で始めていたからだ。再び弾き始めたこの音が、いつか誰かの心を照らすひまわりのようになる日を夢見て、俺はもう一度、鍵盤に指を置いた。