零秒の残響
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零秒の残響

第一章 零の予兆

夕暮れの交差点。雑踏のノイズが鼓膜を鈍く揺らす中、僕、蓮(れん)の時間は不意に停止した。祝福と期待に満ちた空気が、一人の男を中心に渦を巻いている。彼は跪き、小さなベルベットの箱を恋人へ差し出した。その指が箱を開いた瞬間――僕の世界は無数の破片に砕け散った。

閃光のように脳裏を過る幻覚。指輪が受け入れられ、幸せな結婚式の日に式場が崩落する未来。拒絶され、絶望した男が車の前に飛び出す未来。嫉妬に狂った第三者が二人を刺す未来。ありとあらゆる最悪の結末が、濁流となって僕の意識を飲み込んでいく。こめかみに突き刺さる激痛に耐え、僕は壁に手をついて喘いだ。干渉すれば、さらに予測不能な破局が待っている。それが、僕に与えられた呪われた能力だった。

「また、視たのか」

背後からかけられた声に、僕はゆっくりと振り返る。そこにいたのは、悠人(ゆうと)だった。僕の幼馴染であり、この呪いの唯一の理解者。彼の左手首で淡く光る「寿命計」の数字は、僕の心をさらに締め付けた。残り、三十日を切っている。

「気にするな。お前の目に見えるものが、世界の全てじゃない」

悠人はいつもそう言って、僕の肩を軽く叩く。彼の言葉は慰めであると同時に、僕には理解できない深い意味を孕んでいるように聞こえた。アスファルトに落ちる彼の影は、迫りくる「消去」の時を前にしても、不思議なほど揺らいでいなかった。

第二章 消えた音色

その日は、灰色の雲が空を覆う、音のない朝だった。僕と悠人は、いつもの公園のベンチに座っていた。会話はない。ただ、彼の左手首に表示された寿命計の数字が、無慈悲なカウントダウンを告げているだけだった。

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僕は息を詰める。世界の法則によれば、この数字がゼロになった瞬間、悠人の肉体は塵となり、その存在は僕を含む全ての記憶から完全に消去されるはずだった。

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しかし、何も起こらなかった。

世界は静まり返ったまま、悠人はそこに座っていた。彼は僕に穏やかな笑みを向けると、ゆっくりと立ち上がった。

「またな、蓮」

その一言だけを残し、彼は公園の出口へと歩き去っていく。その背中は雑踏に溶け、あっけなく見えなくなった。

翌日から、世界は静かに、しかし確実に悠人を忘れ始めた。彼の両親は、自分たちに子供がいたことすら覚えていない。僕たちの教室にあった彼の机は、初めから存在しなかったかのように消えていた。僕の記憶だけが、世界から取り残された孤島のように、鮮明なままだった。

そして、奇妙な事件が始まった。都市の交通網が原因不明の麻痺を起こし、公共施設のデータが次々と消失する。人々はそれをシステムの老朽化だと噂したが、僕には分かった。これは、悠人が世界に対して仕掛けている、静かな戦いの狼煙なのだと。

第三章 孤独な追跡者

悠人が住んでいたアパートの部屋は、まるで何十年も誰も足を踏み入れていないかのように、ひやりとした空気に満ちていた。埃の匂いが鼻をつく。家具は全て運び出され、彼の生きた痕跡は完全に消去されていた。ただ一点、部屋の中央に置かれた古いマホガニーの机の上に、ポツンと何かが光を反射していた。

それは、一本の針しか持たない、銀色の懐中時計だった。

僕がそっと手に取ると、ずしりとした重みが伝わる。そして、微かな振動。まるで生きているかのように、時計は僕の手の中でかすかに震えていた。時を刻むためではないこの道具が、何を伝えようとしているのか。僕はそれをコートのポケットにしまい込んだ。

それから僕は、街で頻発する不可解な事件の現場を巡り始めた。サーバーダウンした市庁舎。データが白紙になった中央図書館。全ての現場に共通していたのは、微かに漂う金木犀の香り。悠人が好きだった、あの甘く切ない香りだった。そして、全ての事件が、人々の生活を管理する「寿命計連動システム」の中枢を的確に攻撃していた。彼は何かを壊そうとしている。世界から消えたはずの親友は、今や透明な破壊者となって、この街を徘徊していた。

第四章 懐中時計の律動

深夜、自室のベッドで僕は天井を見つめていた。悠人の寿命計がゼロになる直前、僕が視た幻覚。それは、彼が「消去」される未来ではなかった。むしろ逆だ。彼は消えることなく、正体不明のテロリストとして都市機能を破壊し、世界を大混乱に陥れる……そんな、最悪の未来だった。

今まで僕は、自分の能力を「回避すべき破局の予知」だと信じ込んできた。だから干渉を避けてきた。だが、現実はどうだ? 悠人が引き起こしている事件は、僕が視た幻覚の筋書きを、一歩ずつ忠実になぞっている。

まさか。

全身に鳥肌が立った。あれは「最悪の未来」などではない。悠人が僕にだけ見せた、「これから起こる真実」の予告編だったのだ。彼は僕に、気づいてほしかったのだ。何に? この世界の、何に?

その時、ポケットの懐中時計が強く振動した。テレビの臨時ニュースが、中央銀行のシステムに大規模な障害が発生したと報じている。人々の寿命データと資産データが紐付けられた、この世界の根幹を揺るがす大事件だ。社会の混乱が広がるほどに、時計の振動は激しさを増していく。

僕は悟った。この振動は、「記憶の希薄化」を告げているのではない。この世界の偽りの法則そのものが、悠人の手によって揺さぶられている悲鳴なのだ。

第五章 真実の刻印

悠人が次に向かう場所は分かっていた。この都市の、いや、この世界の心臓部。全ての「寿命計」を統括する、天を突くような白亜の塔――中央サーバータワー「クロノス」。

僕は雨の中を走り、タワーの厳重なセキュリティを駆け抜けた。悠人が僕のために道を開けてくれているかのように、全ての扉が滑らかに開いた。最上階の制御室。ガラス張りの壁の向こうに、嵐に洗われる街の夜景が広がっていた。そして、その中央に彼は立っていた。

「やっと来たか、蓮」

悠人は振り返る。その左手首では、消えたはずの寿命計が静かに、しかし力強い光を放っていた。

「お前は、消去されたんじゃ……」

「消去? あれは僕が創った出口だよ。この窮屈な箱庭からのね」

彼の口から語られた真実は、僕の理解を遥かに超えていた。この世界の寿命計と消去の法則は、かつて悠人が、人々を死の恐怖から解放し、有限な時間を有効に使うために設計した巨大なシステムだったという。だが、結果として生まれたのは、運命に飼い慣らされ、生きる意味を見失った、抜け殻のような人間たちだった。

「消去された者たちは死んだわけじゃない」と悠人は言う。「彼らはただ、このシステムからログアウトしただけだ。僕が用意したもう一つの世界で、本当の時間を取り戻している」

第六章 零秒の先へ

「お前のその目も、僕が与えたものだ」

悠人の告白は続く。僕の能力は、彼が創ったシステムの歪みと、その先に待つ可能性を唯一観測できるセーフティ装置だったのだ。僕が視てきた「最悪の未来」は、システムが崩壊した後の混沌の世界。だがそれこそが、人々が管理された家畜であることをやめ、再び不確かな未来をその手で掴み取るための、唯一の希望だった。

「選べ、蓮」悠人は巨大な中央制御装置を指さす。「このまま偽りの平穏を続けるか。それとも、全てを破壊し、本当の『生』を取り戻すか」

僕はポケットの懐中時計を握りしめた。その振動は最高潮に達し、冷たい金属の盤面に、燐光を放つ一つの記号がゆっくりと浮かび上がった。

悠人の、真の寿命。それは、無限だった。

僕はもう迷わなかった。決断は、とうの昔についていた。

僕は制御装置のコンソールに歩み寄り、冷たいパネルの上に、振動する懐中時計を置いた。瞬間、甲高い警報音と共にシステムが暴走を始める。タワーが激しく揺れ、窓の外で輝いていた街中の寿命計の光が、まるで星が消えるように、次々と闇に飲まれていった。

「それでいい」悠人は満足げに微笑んだ。彼の身体が、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。「ここからは、誰もが自分の時間を見つける旅だ」

「悠人!」

僕の叫びは、光となって拡散していく彼に届いただろうか。管理者としての役目を終えた彼は、この世界から、今度こそ本当に旅立っていった。

第七章 残響の空

システムが崩壊した世界は、静かな混沌に包まれた。手首の数字が消えたことに人々は戸惑い、ある者は嘆き、ある者は解放されたように空を仰いだ。未来が見えなくなった世界で、誰もが初めて、自分の意志で「明日」というものを考え始めていた。

僕はタワーの屋上で、夜明けの空を見つめていた。もう、僕の目に未来の幻覚は映らない。ただ、ありのままの静かな現実が、どこまでも広がっているだけだ。ポケットの中の懐中時計は完全に沈黙し、その一本の針は、天頂を指したまま動かない。

悠人が消えた空には、朝焼けの光を浴びてキラキラと輝く、無数の光の粒子が舞っていた。それはまるで、これから始まる新しい世界の誕生を祝福する残響のようだった。僕は冷たい風を胸いっぱいに吸い込み、不確かで、だからこそ美しい未来に向かって、力強く一歩を踏み出した。

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