残光のパレット

残光のパレット

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第一章 透明な残像

水野響の日常は、香りと色で織り上げられていた。調香師である彼にとって、世界は香りのライブラリであり、その一つ一つが記憶や感情と結びついている。だが、彼にはもう一つの、誰にも明かしたことのない知覚があった。人の強い記憶に触れると、その感情が「色」として見えるのだ。それは幼い頃の事故以来、彼にまとわりつく共感覚の呪いであり、祝福でもあった。

だから彼は、人との物理的な接触を極力避けて生きてきた。握手も、肩が触れ合う満員電車も、彼にとっては感情の濁流に呑まれるような苦行だった。濁った赤は怒り、淀んだ青は悲しみ、嫉妬は腐ったような深緑。そんな色の洪水から逃れるように、響はアトリエに籠り、ただ純粋な植物や樹脂の香りと向き合うことで心の平穏を保っていた。

そんな彼に、唯一心を許せる存在がいた。倉田唯。学生時代からの友人で、今は小さな街で人気のパティスリーを営む、太陽のような女性だった。彼女の記憶から見える色は、いつも温かく、輝いていた。焼きたてのタルトのような甘いオレンジ色、友人たちとの笑い声が聞こえるような弾ける黄色。彼女のそばにいる時だけ、響は自分の能力を呪わずにいられた。

その唯が、忽然と姿を消した。

警察からの電話は、アトリエの静寂を無慈悲に切り裂いた。三日前から店にも出ず、誰とも連絡が取れないという。響は、なにかの間違いだと思いたかった。だが、受話器から聞こえる刑事の事務的な声が、悪夢を現実に引きずり下ろす。

いてもたってもいられず、響は警察の許可を得て、唯のアパートメントを訪れた。整然と片付いた部屋は、主の不在をかえって際立たせていた。甘い焼き菓子の香りが微かに残る空間で、響は唯がいつも座っていたアンティークの椅子に、震える指でそっと触れた。

その瞬間、彼の脳裏に色が溢れた。しかし、それは今まで見たどんな色とも違っていた。赤でも青でも黄色でもない。それは、まるで真水のように「透明」だった。だが、ただの無色ではない。その透明な光は、内側から淡い虹色の粒子を放ち、静かに、そして絶え間なくまたたいていた。痛みも、喜びも、悲しみも感じられない。そこにあるのは、絶対的な静寂と、形容しがたいほどの純粋な存在感だけだった。

「……なんだ、この色は」

響は愕然と呟いた。これは、人の記憶から放たれる色ではない。感情のスペクトルから完全に逸脱した、未知の色。唯の身に何が起きたのか。この透明な残像は、彼女が残した唯一の手がかりであり、響を底知れぬ謎の淵へと突き落とす不気味な招待状だった。

第二章 濁色の迷路

唯の失踪は、事件として扱われ始めた。しかし、部屋に荒らされた形跡はなく、怨恨や金銭トラブルの線も浮かんでこない。捜査は早々に行き詰まりを見せていた。響は、警察には話せない自分の能力を使い、独自に彼女の足取りを追うことを決意した。あの透明な色の正体を突き止めなければ、唯を見つけ出すことはできない。そう直感していた。

まず向かったのは、唯が経営するパティスリー『Le Soleil Levant(ル・ソレイユ・ルヴァン)』だった。店のドアノブに触れると、様々な客の記憶の色が混ざり合って流れ込んでくる。期待に満ちた柔らかなピンク、子供の誕生日を祝う幸福なゴールド。だが、その中に、ひとき発見したくない色が混じっていた。

「水野さん……唯のこと、何か分かりましたか?」

声をかけてきたのは、唯の一番弟子である若いパティシエだった。響は意を決して彼と握手を交わす。瞬間、粘つくような深緑の色が視界を覆った。嫉妬だ。唯の才能と人気に対する、暗く澱んだ感情。しかし、それは失踪に直接結びつくような凶暴な色ではなかった。ただ、人の心の裡に巣食う、ありふれた小さな棘に過ぎない。

「いえ、まだ何も……。何か変わったことはありませんでしたか」

「特に……。あ、でも、最近、唯さん、よく難しい本を読んでいました。哲学書みたいな。休憩中もずっと考え込んでいる様子で」

響は礼を言って店を出た。他人の心に土足で踏み入るような行為に、軽い吐き気と罪悪感を覚える。自分の能力は、真実を暴くための便利な道具ではない。それは、他人の魂の断片を、本人の許可なく盗み見る行為に他ならなかった。

次に、唯がよく通っていたという駅前の古書店を訪れた。白髪の店主に唯の写真を見せると、彼はすぐに頷いた。

「ああ、このお嬢さんなら。最近、よくいらっしゃってましたよ。特に、現象学とか、世界の知覚に関する本を熱心に探されていましたな」

店主が指さした棚の一冊に、響は手を伸ばした。古びた装丁の哲学書。その背表紙に指が触れた瞬間、微かだが、あの感覚が蘇った。透明で、虹色にまたたく光の粒子。それはまるで、本の活字のインクに染み込んでいるかのようだった。

「この本を、彼女は?」

「ええ、買っていかれました。同じ著者の本を何冊も」

響は確信した。この本が、唯とあの謎の色を繋ぐ鍵だ。彼は店主に頭を下げ、アパートに戻ると、改めて唯の部屋を捜索した。本棚の隅に、同じ著者の本が数冊並んでいるのを見つけ出す。その中の一冊から、一枚の栞がはらりと落ちた。それは、小さな天文台の写真が印刷された、手作りの栞だった。裏には、走り書きのような文字で、山の名前と、小さな星のマークが記されているだけだった。

第三章 天文台の告白

栞に記された山は、街から車で二時間ほど離れた場所にあった。舗装もされていない林道を抜けた先に、その天文台はひっそりと佇んでいた。白く塗られたドームは所々が剥げ落ち、時の流れを感じさせる。響は車を降り、錆びついた鉄の扉を押し開けた。

中には、銀髪を後ろで束ねた、痩身の老人が一人、静かに星図を眺めていた。響の気配に気づくと、彼はゆっくりと振り返る。その穏やかな瞳は、すべてを見透かしているかのようだった。

「……倉田唯さんを探しに来ました。ここにいるんでしょう?」

響は単刀直入に切り出した。老人は驚いた様子もなく、静かに頷いた。

「やはり、君が来たか。唯くんから聞いていたよ。特別な知覚を持つ友人がいる、と」

響は警戒を解かずに老人へと歩み寄り、差し出された彼の手を取った。その瞬間、視界が真っ白に染まった。いや、違う。白ではない。あの「透明」な光だ。唯の椅子から感じたものよりも遥かに強く、深く、そして澄み切った、虹色のまたたき。それはまるで、宇宙の深淵そのものを覗き込んでいるような、荘厳でさえある光景だった。

「あなた一体、何を……」

「落ち着きなさい」老人は静かに言った。「唯くんは、失踪したのではない。誘拐されたのでもない。彼女は、自らの意思でここに来たのだよ」

その言葉は、響の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。老人は、響を観測室の椅子に座らせ、ゆっくりと語り始めた。

「君が『色』を見るように、唯くんは、他人の感情を『味』として感じていた。喜びは極上の蜂蜜のように甘く、感謝は芳醇な果実酒のようだった。彼女が作る菓子が人々を幸せにしたのは、彼女が純粋な幸福の『味』を知っていたからだ。しかし……その能力は、彼女にとって耐え難い十字架でもあった」

老人の言葉は、響の知らない唯の姿を浮き彫りにしていく。

「他人の怒りは、舌を焼く唐辛子のように辛く、悲しみは、口の中にいつまでも残る苦汁のようだった。嫉妬は腐った金属の味、憎悪は……想像を絶する不快な味だったそうだ。彼女は、毎日、何十人もの客が持ち込む感情の『味』を、その身一つで受け止め続けていた。やがて、彼女の心と体は、その毒に蝕まれていった」

響は息を呑んだ。あの太陽のような笑顔の裏で、唯がそんな地獄を味わっていたとは、思いもしなかった。

「彼女は救いを求めて、哲学や物理学の世界に没頭した。そして、この天文台に辿り着いた。ここは、あらゆる感覚情報を遮断できる特殊な設備がある。彼女は、全ての『味』から解放されることを望んだのだ」

そこで初めて、響は「透明な色」の正体を理解した。それは、感情の不在。苦しみも喜びもない、絶対的な「無」の状態。純粋な存在そのものの色。唯は、怪物のような共感覚から逃れるために、自ら感覚の牢獄へと入ったのだ。

「救うべき被害者」だと思っていた親友が、自らの意思で世界から消えた。その事実は、響の価値観を根底から覆した。自分は唯の何を見ていたのだろう。彼女の苦しみに気づかず、ただその温かい色に安らぎを感じていただけの、独りよがりな傍観者ではなかったのか。自分の能力は、人を理解するためのものではなく、ただ表層をなぞるだけの傲慢な力だったのではないか。激しい自己嫌悪が、響の胸を締め付けた。

第四章 無色のレクイエム

老人に導かれ、響は天文台の地下へと続く螺旋階段を下りた。ひんやりとした空気の中、分厚い防音扉の前で立ち止まる。この向こうに、唯がいる。

「彼女は今、生まれて初めて、心の安らぎを得ている」と老人は静かに言った。「誰の感情にも穢されない、静寂の中でね」

響は、扉にそっと手を触れた。冷たい鉄の感触の奥から、確かに伝わってくる。穏やかで、静謐で、どこまでも澄み切った、あの透明な光。虹色の粒子は、まるで満天の星々のように、安らかにまたたいていた。それは、苦しみの果てに辿り着いた魂の平穏の色だった。

扉を開けて、彼女をこの世界に引き戻すべきか。無理やりにでも、あの笑顔を取り戻すべきか。一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、それは自分のエゴでしかない。響は、扉から伝わる静かな光を見つめながら、唯の選択を、彼女の魂のあり方を、そのまま受け入れることを決めた。それは、響にとって初めて、自分の能力を「他人の魂を覗き見るため」ではなく、「他者の決断を尊重するため」に使った瞬間だった。

彼は、何も言わずに踵を返し、地上へと戻った。

天文台を後にし、街へと向かう帰り道。車の窓から見える夕暮れの街は、様々な光と色に満ちていた。家路を急ぐ人々の姿、店の窓から漏れる灯り。以前なら、そこから流れ込む感情の濁流に顔をしかめていただろう。しかし今、響の目には、それらが少し違って映っていた。行き交う人々から放たれる、怒りの赤も、悲しみの青も、嫉妬の緑も。その一つ一つが、それぞれの人生を必死に生きる人間の、どうしようもなく愛おしい営みの欠片に見えた。

アトリエに戻った響は、夜が更けるのも忘れ、新しい香水の創作に取り掛かった。ガラスのビーカーに、様々な香料を数滴ずつ、慎重に垂らしていく。彼が目指しているのは、特定の感情を喚起する香りではない。喜びでも、悲しみでも、情熱でもない。

それは、まるで磨き上げられた水晶のように無色透明でありながら、光の角度によって淡い虹色を放つような香り。雨上がりの大気のように澄み渡り、全てを包み込み、そして、ただ「そこに在る」ことだけを静かに肯定する香り。

それは、もう会うことのない親友・唯に捧げる、鎮魂歌(レクイエム)であり、彼女が教えてくれた世界の新しい見方を受け入れ、生きていくという自分自身の決意表明でもあった。

外が白み始める頃、一つの香りが完成した。響はそれを一滴、手首につける。そこから立ち上ったのは、色のない、しかし無限の色彩を内に秘めた、静かな希望の香りだった。

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