言葉の質量、愛の引力

言葉の質量、愛の引力

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第一章 無重力の言葉

水野拓海の右の手のひらには、奇妙な天秤が載っている。もちろん、比喩的な意味でだ。彼は幼い頃から、他人の発する言葉に物理的な「重さ」を感じる体質だった。古びた商店街の片隅でひっそりと営む『みずの古書店』の静寂は、彼にとって唯一の避難所だった。

世間に溢れる言葉の大半は、驚くほど軽い。社交辞令や上辺だけの共感は、乾いた落ち葉のようにカサカサと掌を滑り落ちていく。悪意のない嘘は、発泡スチロールの欠片ほどの質量しかなく、虚しいだけだ。逆に、覚悟を決めた告白や、偽りのない感謝の言葉は、磨かれた鉄球のようにずしりと指に食い込むほどの重さがあった。拓海は、その重みに安らぎと、生きているという実感を得るのだ。しかし、そんな重い言葉に出会う機会は滅多にない。だから彼は、言葉の洪水から逃れるように、沈黙を守る古い本たちに囲まれて生きていた。

その日、店のドアベルがちりんと乾いた音を立てた。入ってきたのは、一人の女性だった。陽の光を吸い込んだような、柔らかな栗色の髪。大きな瞳は、古い書物の背表紙を興味深そうに眺めている。

「いらっしゃいませ」

拓海が発した言葉は、自分でもわかるほど、少しだけ重かった。真実、客を歓迎していたからだ。

女性は彼に気づくと、ふわりと微笑んだ。

「こんにちは。素敵な場所ですね。時間が止まっているみたい」

その言葉が、拓海の右手に届いた瞬間、彼は息を呑んだ。

重さがない。

軽いのでも、重いのでもない。まるで無重力だ。掌の上で形をなさず、質量という概念そのものが存在しないかのように、ただそこを通過していく。水中の気泡のように、触れることもできず、意味だけが空中に溶けて消えた。

拓海は混乱した。嘘でも真実でもない言葉など、あり得るのだろうか。彼はこれまで、どんなに空虚な言葉でも、必ず何かしらの質量を感じ取ってきた。だが、彼女の言葉にはそれが一切なかった。

「何か、お探しですか」

なんとか声を絞り出すと、彼女は首を横に振った。

「いいえ、特に。ただ、この匂いが好きなんです。古い紙と、インクと、誰かの時間の匂い」

まただ。無重力の言葉が、拓海の周りを漂う。それは不思議な感覚だった。普段なら言葉の重さに一喜一憂し、神経をすり減らす彼が、彼女の前では心が凪いでいくのを感じた。評価する尺度が機能しないのだから、疲れることもない。

「葉山詩織、といいます」

彼女はそう名乗った。その自己紹介の言葉さえも、重力から解き放たれていた。拓海は、目の前に現れたこの謎めいた女性、葉山詩織から、目が離せなくなっていた。彼の静かな世界を揺るがす、初めての無重力だった。

第二章 重さを忘れる日々

詩織は、それから頻繁に古書店を訪れるようになった。特定の何かを買うわけでもなく、ただ一、二時間ほど店内の椅子に腰掛け、静かに本を読んだり、時折拓海と他愛もない話をしたりして過ごした。

彼女との会話は、拓海にとって奇妙な安らぎをもたらした。言葉の重さを測るという、彼にまとわりつく呪いのような習慣から、完全に解放される時間だったからだ。詩織が語る「今日の空は綺麗ですね」も、「この紅茶、美味しいです」も、すべてが無重力だった。拓海は、その言葉が真実か嘘かなどと考える必要がなく、ただ音として、意味として、純粋に受け取ることができた。生まれて初めて、普通の人間のように誰かと対話しているような錯覚さえ覚えた。

「水野さんは、どうして古本屋さんになったんですか?」

ある雨の日、詩織が静かに尋ねた。店内に響く雨音と、ページをめくる微かな音だけがBGMだった。

「……静かだから、ですかね。本は、黙ってそこにいてくれるので」

拓海は正直に答えた。彼の言葉は、ずしりと重みを帯びていたはずだ。だが、詩織はそれを意に介した様子もなく、ただ穏やかに頷いた。

「わかります。私も、静かな場所が好きです。騒がしいと、自分の声が聞こえなくなるような気がして」

その言葉もまた、ふわりと宙に浮いていた。拓海は、彼女の過去や内面について探ろうとする自分に気づいた。彼女はなぜ、これほどまでに無重力なのだろう。感情の起伏がないのだろうか。あるいは、何かを巧みに隠しているのだろうか。しかし、問い詰めることはできなかった。この心地よい無重力の空間を、自らの手で壊したくなかったからだ。

二人の距離は、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。拓海は、自分が詩織に惹かれていることを自覚していた。彼女のミステリアスな雰囲気も、時折見せる寂しげな瞳も、すべてが彼の心を捉えた。彼女となら、この厄介な体質の自分でも、穏やかな関係を築けるかもしれない。そんな淡い希望が、彼の胸に芽生え始めていた。

しかし、安らぎが深まるほど、微かな違和感もまた濃くなっていく。ある時、拓海が大切にしていた初版本を彼女に見せた。それは彼にとって宝物で、その本への愛情を語る彼の言葉は、鉛のような重さを持っていたはずだ。詩織は「すごいですね」と微笑んだが、その言葉はやはり無重力だった。まるで、目の前の出来事と彼女の感情が、細い糸一本でかろうじて繋がっているかのように。彼女の心は、いつもどこか遠い場所にあるような気がしてならなかった。その違和感の正体に、彼はまだ気づいていなかった。

第三章 空虚の告白

その日は突然訪れた。詩織が店に来る時間になっても、彼女の姿はなかった。胸騒ぎを覚えながら一日を終えようとしたその時、拓海のスマートフォンが鳴った。表示されたのは、登録した覚えのない番号だった。

「……葉山詩織さんのご関係者様でしょうか」

電話の向こうから聞こえてきたのは、冷静な医療従事者の声だった。詩織が道で倒れ、病院に搬送されたという。

拓海は、雨の中を夢中で走った。たどり着いた病室の白いベッドの上で、詩織は蒼白な顔で眠っていた。その姿は、まるでこの世から色が抜け落ちてしまったかのようだった。しばらくして目を覚ました彼女は、拓海の姿を認めると、力なく微笑んだ。その表情には、いつもの穏やかさとは違う、深い諦観が滲んでいた。

「驚かせて、ごめんなさい」

その謝罪の言葉さえ、重さがなかった。拓海は、たまらず彼女の手を握った。冷たく、か細い手だった。

「一体、何があったんですか。どうして……」

問いかける彼の言葉は、不安と焦燥で重く震えていた。詩織は、天井をぼんやりと見つめながら、静かに語り始めた。

「私、病気なんです。進行性の、記憶障害……みたいなもの。新しいことを覚えられなくなるだけじゃなくて、少しずつ、古い記憶や感情も、言葉との繋がりが薄れていって、消えてしまうの」

拓海の頭の中で、何かが砕ける音がした。

「私の言葉に、重さがないでしょう?」

詩織は、まるで彼の秘密をすべて知っているかのように続けた。

「それはね、嘘でも本当でもないから。私の心が紡いでいる言葉じゃないの。頭の片隅に残っている記憶の断片が、状況に合わせて自動的に組み合わさって、音になっているだけ。だから、そこに私の実感は、もうほとんどないのよ」

衝撃だった。彼が安らぎを感じていたあの無重力の言葉は、彼女が嘘つきだからでも、感情がないからでもなかった。それは、彼女の心が失われゆく過程で生まれる、空虚な残響だったのだ。彼女の苦しみの、紛れもない象徴だった。

拓海は愕然とした。自分はなんて愚かだったのだろう。彼女の言葉に重さがないことを、自分にとって都合の良い「安らぎ」として消費していた。彼女が時折見せた寂しげな表情の裏にある、想像を絶する孤独と恐怖に、全く気づこうともしなかった。

「だから、水野さんといると楽だった。あなたは、私の空っぽの言葉を、ただ受け止めてくれたから」

詩織の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、どんな言葉よりも重く、拓海の心を貫いた。彼は、自分の右手に載せていた天秤が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。

第四章 最も軽い、最も重い言葉

あの日を境に、拓海の世界は一変した。彼は、言葉の重さを測ることをやめた。いや、意識してやめたというより、できなくなったのだ。詩織の告白が、彼の体質そのものの意味を根底から覆してしまった。何が真実で、何が嘘か。そんな二元論では到底測れない、人間の心の複雑さと儚さを、彼は叩きつけられたのだ。

拓海は毎日、詩織の病室に通った。彼女の病状は、ゆっくりと、しかし着実に進行していた。会話は次第に成り立たなくなり、彼女が発する言葉は、意味の通らない単語の羅列になることも増えた。それでも拓海は、彼女のそばに居続けた。

もはや言葉の重さに頼ることはない。彼は、詩織のすべてで彼女を理解しようと努めた。指先の微かな動き、呼吸のリズム、瞳の奥に宿る一瞬の光。言葉にならないコミュニケーションの中に、失われゆく彼女の心の断片を探した。彼はただ、彼女の手を握り、静かに古書店の出来事を語り聞かせた。彼の言葉が重いかどうかなど、もうどうでもよかった。ただ、届けたかった。君がここにいること、僕がここにいること、その事実だけを。

ある秋の終わりの午後。窓から差し込む光が、病室の床に長い影を作っていた。詩織の呼吸は浅く、弱々しかった。拓海は、いつものように彼女の手を握りしめていた。

「詩織さん。聞こえますか」

彼は、自分の魂を絞り出すように、言葉を紡いだ。

「あなたに出会えて、よかった。僕の世界は、あなたのおかげで変わったんだ。本当に、ありがとう」

それは、拓海が人生で発した中で、最も重い言葉だった。彼自身の右手が、その途方もない質量に痺れるほどだった。

その時、奇跡が起きた。

それまで虚空を見つめていた詩織の瞳が、ゆっくりと拓海に向けられた。そして、かさついた唇が、微かに動いた。

「……あり…が、とう」

それは、ほとんど音にならないような、か細い声だった。

だが、その言葉は。

その言葉だけは、拓海の右の掌に、確かな感触を残した。それは鉄球のような重さではなかった。まるで、一粒の砂金のような、ほんのわずかで、けれど紛れもない質量。彼女の心が、最後に振り絞ったであろう、けして空っぽではない、真実の結晶だった。

拓海の頬を、熱いものが伝った。

詩織は、その数時間後、眠るように静かに息を引き取った。

季節が巡り、冬が来た。拓海は、変わらず古書店に立っている。彼の右手の天秤は、もうない。だが、彼の世界は以前よりも遥かに豊かになっていた。言葉の重さという呪縛から解き放たれ、彼は今、人と人が繋がることの本当の意味を知っている。

店の片隅で、彼は一冊の古い本を手に取った。ずしりとした紙の重みが、心地よかった。その重なり合うページの中に、彼は詩織との記憶という、何よりも重く、そして温かい引力を感じていた。空を見上げると、無重力だった彼女の言葉が、今は夜空の星々のように、彼の道筋を静かに照らしているような気がした。

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