第一章 色褪せた英雄譚
古書店特有の、埃とインクと時間が混じり合った匂いが、水島蓮(みずしま れん)の肺を満たしていた。彼は書架の奥で見つけた一冊の本に心を奪われていた。作者不明、タイトルもない、分厚い革張りの本。ページをめくるたび、壮麗な剣と魔法の世界が立ち上がってくる。邪悪な魔王、それに立ち向かう七人の英雄、失われた王国の謎、そして世界を救うための壮大な旅路。蓮は、退屈で目的のない大学生活から逃れるように、その物語に没頭した。
最後のページ。英雄たちが魔王を討ち果たし、世界に光を取り戻す。歓喜に沸く民衆。故郷へと帰る者、王国の再興に尽力する者、それぞれの未来が暗示され、物語は幕を閉じる。蓮は深い溜息をつき、物語の終わりを惜しんだ。「俺も、こんな世界に行けたらな……」。そう呟き、最後の1ページをめくった、その瞬間だった。
古びた紙から放たれたとは思えないほどの眩い光が、蓮の視界を白く塗りつぶした。浮遊感。遠ざかる意識。次に目を開けた時、彼は石畳の上に倒れていた。
見上げると、空には緑色と紫色の二つの月が浮かんでいた。ひんやりとした空気が肌を撫で、嗅いだことのない甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。目の前には、物語で読んだばかりの城塞都市「アークソフィア」の威容が広がっていた。天を突く白亜の塔、巨大な城壁、精緻な彫刻が施された凱旋門。間違いない。ここは、あの物語の世界だ。
蓮の心は高揚感で打ち震えた。本当に来てしまった。自分は選ばれたのかもしれない。この世界で、新たな物語を始める主人公に。彼は逸る気持ちを抑え、都市の正門へと歩き出した。
しかし、近づくにつれて、蓮は奇妙な違和感に気づいた。物語では、常に活気と喧騒に満ちていると描写されていたはずの城下町が、まるで時が止まったかのように静まり返っているのだ。道行く人々の顔には笑顔がなく、どこか諦観を帯びた穏やかな表情が浮かんでいるだけ。彼らの服装は色褪せ、建物の壁には蔦が絡まり、英雄たちの偉業を讃えるはずの広場の噴水は、とうの昔に枯れていた。
凱旋門の脇には、伝説の「聖騎士オルドの断罪の剣」が突き立てられているはずだった。そこにあったのは、鞘から半ば抜け落ち、赤錆に覆われた、ただの鉄の塊だった。かつては眩い光を放っていたという魔法石は、子供たちの石蹴り遊びの道具にでもなったのか、どこにも見当たらない。
世界は救われたはずだ。なのに、なぜこんなにも寂寞としているのだろう。まるで、盛大な祭りが終わった後の、静けさと虚しさだけが取り残されたかのようだった。蓮は、自分の胸にぽっかりと穴が空いたような、不可解な喪失感に包まれた。ここは本当に、自分が憧れた英雄譚の世界なのだろうか。
第二章 終わった世界の住人
蓮はあてもなく、静かな街を彷徨った。人々に話しかけても、彼らは蓮を奇妙な目で見つめ、「旅の方かね」と呟くだけで、会話は続かない。彼らの瞳の奥には、揺らぐことのない凪のような諦めが宿っていた。
腹の虫が鳴き、蓮は広場の隅で干し果物を売っていた老婆に声をかけた。なけなしの知識で、物語に登場した通貨の名前を口にすると、老婆――エリアナと名乗った――は、くしゃくしゃの笑顔で首を横に振った。
「そんなもの、もう誰も使いはしないよ。物々交換さね。あんたさん、何か交換できるものを持っておるのかい」
蓮が途方に暮れていると、エリアナは「まあ、いいさ」と言って、皺だらけの手で干し果物を一つ握らせてくれた。その乾いた優しさが、かえって蓮の心を締め付けた。
「あの、聞きたいんですが……。魔王は討伐されたんですよね? 世界は平和になったはずじゃ……」
蓮の問いに、エリアナは遠い目をして頷いた。
「ああ、もう百年も昔の話さね。わしらの祖父母の、そのまた祖父母の時代の、おとぎ話だよ」
百年。蓮の読んだ物語は、この世界では遠い過去の歴史、あるいは伝説になっていたのだ。彼は自分が何か大きな使命を帯びて召喚されたのだという期待を打ち明けた。世界に新たな脅威が迫っているのではないか、と。しかし、エリアナは困ったように眉を下げただけだった。
「脅威? まさか。魔王が封じられてからというもの、この世界では争いも、大きな事件も、何一つ起こっちゃいない。ただただ、毎日が静かに過ぎていくだけさ」
納得できない蓮は、物語の知識を頼りに、自力で世界の謎を解き明かそうと決意した。彼はまず、七英雄の一人「大賢者ノア」が住んでいたという湖畔の塔を目指した。しかし、そこに聳え立っていたのは、壁が崩れ落ち、蔦に覆われた廃墟だった。かつて無数の魔法書が並んでいたはずの書架は空っぽで、鳥たちの巣になっていた。
次に、魔王が封印されたという「嘆きの谷」へ向かった。そこには禍々しい瘴気など微塵もなく、穏やかな風が吹くただの谷間が広がっていた。封印の祭壇は風化し、刻まれたルーン文字もほとんど判読できない。あまりの拍子抜けに、蓮はその場にへたり込んだ。
彼の知る壮大な物語は、確かにここで起こったのだ。だが、それは花火のように打ち上がり、そして完全に消え去ってしまった。残されたのは、燃えカスと静寂だけ。自分は英雄ではなかった。観客が全員帰った後の、空っぽの劇場に迷い込んだ、ただの部外者だった。焦燥感と、自分が何者でもないという無力感が、鉛のように彼の身体にのしかかってきた。
第三章 黄昏図書館の真実
元の世界に帰りたい。その一心で、蓮はエリアナに助けを求めた。何か、この世界の理を超えた知識を持つ存在はいないのか、と。エリアナは少し考えた後、「黄昏図書館へ行ってみるといい」と教えてくれた。そこは、世界の始まりから終わりまで、全ての出来事が記されている場所だという。
都市の最も古い一角に、その図書館はひっそりと佇んでいた。中は薄暗く、空気は乾燥した紙の匂いで満たされている。無限に続くかのように見える書架には、同じ装丁の本がびっしりと並んでいた。ただ一人の司書らしき老人が、静かに蓮を迎えた。
「異世界からの……迷い人か。久しいな」
老人は全てを見透かしたような目で蓮を見つめ、一つの書架へと導いた。
「君がいた世界で、君が読んでいた本はこれだろう」
老人が指さした一冊を手に取ると、蓮は息を呑んだ。それは、自分が古書店で手に入れた、あの革張りの本と寸分違わぬものだった。
「なぜ、これが……」
「この図書館にある本は、全て同じ物語だ。この世界の理そのものだよ」
老人は静かに語り始めた。そして蓮は、彼の価値観を根底から覆す、残酷な世界の真実を知ることになる。
「この世界は、君が読んでいた、あの物語そのものだ。そして、君があの本の最後のページを読み終えた瞬間、この世界の『物語』は完結した」
「……完結?」
「そうだ。英雄は魔王を倒し、世界に平和が訪れた。めでたし、めでたし。そこが終着点だ。それ以降、この世界に大きな出来事は二度と起こらない。新たな脅威も、新たな英雄も、生まれることはない。ここは、物語の『エピローグ』なのだよ」
蓮は愕然とした。静まり返った街、諦観を浮かべた人々、錆びついた伝説の剣。全ての謎が、一本の線で繋がった。
「じゃあ、ここにいる人たちは……」
「彼らは、エピローグを生きる登場人物だ。物語が終わった後の、穏やかで、変化のない日々を、永遠に繰り返している。それが、彼らに与えられた役割だからだ」
老人の言葉が、氷の刃のように蓮の胸を突き刺した。
「君は、いわば読み終えた本に、誤って挟まってしまった栞のようなものだ。物語はもう終わっている。君が活躍するページは、どこにも残されていない」
「帰る方法は……元の世界に帰る方法は、ないんですか」
震える声で尋ねる蓮に、老人は静かに首を振った。
「物語は閉じられた。出口はない。君は、この終わった世界で、漂流者として生き続けるしかないのだ」
絶望が、蓮の全身を支配した。彼は、何かを成し遂げる物語の主人公になりたかった。しかし、彼がたどり着いたのは、物語が永遠に始まらない、エピローグという名の牢獄だった。自分の存在意義が、音を立てて崩れ落ちていく。彼は、この静謐な世界の、ただ一つの不純物でしかなかったのだ。
第四章 小さな物語の始まり
絶望の淵を彷徨い、蓮は無意識のうちにエリアナの家に戻っていた。彼女は、蓮の憔悴しきった顔を見ても何も聞かず、ただ温かいハーブティーを差し出してくれた。
「物語は終わりました。ですが、私たちの暮らしは続いておりますよ」
窓の外では、エリアナの孫たちが、錆びついた聖騎士の盾をソリにして、緩やかな坂道を滑り降りてはしゃいでいた。かつて世界を救った英雄の武具が、子供たちの笑顔を生み出している。エリアナは廃墟となった魔法使いの塔にだけ咲くという希少な薬草を摘んできては、村人のための薬を作っていた。かつて世界の脅威を生み出した場所が、今は人々を癒す場所になっている。
蓮は、はっとした。彼らは「物語」が終わったことを嘆いてはいなかった。絶望もしていない。英雄譚のような劇的な出来事はないけれど、そのエピローグの世界で、彼ら自身のささやかな幸せを見つけ、静かに、しかし力強く「生活」を紡いでいたのだ。そこには、蓮が今まで気づかなかった、確かな温もりと、日々の営みの尊さがあった。
蓮の中で、何かが変わった。
彼は「物語の主人公」になることを、静かに諦めた。その代わり、この「エピローグの世界」の一員として、自分にできることを探そうと決めた。
翌日から、蓮は動き始めた。元の世界で得た、ごくありふれた知識。それが、この停滞した世界では、小さな魔法のように役立った。壊れたまま放置されていた水路を、てこの原理を応用して修理する。土地の性質に合わせた作物の輪作を教え、収穫を少しだけ増やす。物語にはならない、地味で骨の折れる作業の連続。
しかし、水路から勢いよく水が流れ出した時、村人たちから上がった歓声。新しい野菜を初めて口にした子供たちの、驚きと喜びに満ちた顔。そして、エリアナが皺だらけの手で彼の手を握り、「ありがとう、レン。あんたは、この世界に新しい風を運んできてくれた」と微笑んだ時、蓮は胸の奥から込み上げてくる、熱い何かを感じた。
それは、英雄になることよりもずっと深く、温かい充足感だった。大きな物語はなくてもいい。劇的な結末はなくてもいい。日々の小さな営みの中に、誰かの笑顔の中にこそ、生きる意味は宿るのだと、彼はようやく知った。
夕暮れ時、蓮は小高い丘の上から、オレンジ色に染まるアークソフィアの街並みを見下ろしていた。隣にはエリアナの孫が座り、彼の話に目を輝かせている。蓮は、元の世界で読んだ、ウサギとカメの物語を語って聞かせていた。それは、この世界には存在しない、新たな「小さな物語」。
彼はもう、元の世界に帰りたいとは思わなかった。漂流者だった彼は、物語のないこの世界で、ようやく自分の居場所を見つけたのだ。英雄譚は終わった。しかし、彼の、そしてこの世界の人々の、ささやかで愛おしい日々という名の物語は、今、静かに始まろうとしていた。二つの月が空に昇り、優しい光が、新たな物語の語り部となった青年を、静かに照らしていた。