時紡ぎ堂と白紙の物語

時紡ぎ堂と白紙の物語

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第一章 白紙の頁が囁くとき

水無月湊(みなづき みなと)の人生は、古書のインクと埃の匂いに満ちていた。街の片隅でひっそりと営む古書店「時紡ぎ堂」。その名の通り、そこは忘れられた時間たちが眠る場所だった。湊自身もまた、現実という喧騒から逃れ、物語の影に隠れるように生きていた。三十代も半ばに差し掛かり、かつて抱いた夢や情熱は、積年の埃を被った稀覯本のように、書棚の奥で色褪せている。

その日、古書市場から仕入れた段ボールの底に、奇妙な一冊が紛れ込んでいるのを見つけた。革と思しき素材で装丁されたそれは、タイトルも、著者名すら記されていない、完全な無地の本だった。まるで、これから紡がれる誰かの物語を、静かに待ちわびているかのように。

好奇心よりも先に、不思議な引力に導かれてページをめくる。しかし、中はどこまでいっても純白のまま。インクの染みひとつない、生まれたての雪原のような白紙が続くだけだった。だが、指先が紙に触れた瞬間、湊は微かな違和感を覚えた。それはインクの匂いではない。甘く、それでいてどこか切ない、知らない花の香り。そして脳裏を稲妻のように駆け抜ける、強烈な既視感。知っているはずのない風景、聞いたことのない旋律。記憶の扉を無理やりこじ開けようとするような感覚に、湊は思わず本を取り落とした。

その日から、彼の日常は静かに軋み始める。眠りに落ちると、決まって同じ夢を見た。空に七色の川が流れ、言葉が光の粒子となって舞う、幻想的な世界の夢だ。

そして、長雨が続いたある夜のこと。店じまいを終え、カウンターで一人、冷めた珈琲を啜っていると、書棚の一角がぼんやりと青白い光を放っていることに気づいた。あの、無地の本だった。

恐る恐る手に取ると、本は生き物のように微かに温かい。湊が震える指で最初のページに触れた、その時だった。

真っ白だったはずの紙の上に、まるで湧き水が滲み出すように、流麗な文字がひとりでに浮かび上がり始めたのだ。

『水無月湊は、世界の終わりを間近にしていた。彼だけが、それを救うことができる』

自分の名前。そして、理解不能な文章。パニックに陥る湊を嘲笑うかのように、本はさらに光を増し、彼の身体を包み込む。インクと埃の匂いが遠ざかり、代わりに夢で嗅いだあの花の香りが満ちていく。視界が白く染まり、ページに吸い込まれるような浮遊感に襲われた。それが、湊が「時紡ぎ堂」で体験した、最後の記憶だった。

第二章 言葉が創りし世界、アストラルーン

次に目を開けたとき、湊は柔らかな苔の上に横たわっていた。見上げれば、空にはオーロラのような七色の光の川が流れ、周囲には水晶でできたかのように透き通った木々が立ち並んでいる。空気に満ちる甘い花の香りと、耳に心地よい風の音。それは、幾度となく夢で見た光景そのものだった。

「……目が覚めましたか?創生の紡ぎ手さま」

鈴を転がすような声に振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を三つ編みにし、草木染めの簡素な衣服をまとっている。年の頃は十代半ばだろうか。その瞳は、伝説の生き物でも見るかのように、驚きと期待にきらめいていた。

「紡ぎ手……?ここは、どこなんだ」

「ここはアストラルーン。言葉が力を持つ、物語の世界です」

少女はリラと名乗った。彼女の説明によれば、この世界は「紡ぎ手」と呼ばれる人々が語り、紡ぐ物語によって形作られ、維持されているという。しかし今、アストラルーンは存亡の危機に瀕していた。世界の記憶を奪い、全てを白紙に戻してしまう「忘却の霧」が、日増しにその領域を広げているのだという。

「伝説にはこうあります。『世界が忘却に沈むとき、始まりの言葉を携えた創生の紡ぎ手が、白紙の頁より現れる』と。それが、あなたなのです」

リラの真剣な眼差しを受け、湊の脳裏に、失われた記憶の断片が蘇る。アストラルーン。それは、彼がこの世で唯一心を許した親友、陽菜(ひな)と二人だけで創り上げた、空想の世界の名前だった。子供の頃、ノートの隅に描き続けた、二人だけの秘密の王国。

湊は全てを思い出した。この水晶の森も、七色の天の川も、かつて陽菜と夢中で語り合った設定そのものだ。どういうわけか、あの頃の空想が、今こうして目の前に実体として存在している。

「そんな……馬鹿な……」

だが、目の前の現実はあまりに鮮やかで、疑う余地はなかった。リラに導かれて訪れた街は、建物の半分が霧に飲まれ、輪郭を失いかけている。人々は表情を失い、大切な思い出さえ忘れていく恐怖に怯えていた。

「お願いです、紡ぎ手さま。あなたの言葉で、この世界を救ってください」

湊は戸惑った。現実から逃げ続けた自分が、世界を救う?冗談じゃない。しかし、消えかけた街並みを見つめるうち、彼の心の奥底で、忘れかけていた感情が疼き始めた。陽菜と笑い合った日々。物語を創造する無上の喜び。この世界は、湊にとって、そして陽菜にとっても、かけがえのない宝物だったはずだ。

「……やってみよう」

湊は、震える声でそう答えた。彼はリラに導かれ、忘却の霧に侵された場所に立つ。そして、脳裏に眠る陽菜との記憶を懸命に手繰り寄せ、言葉を紡ぎ始めた。

「ここに、陽光を浴びて輝く煉瓦の広場があった。噴水からは清らかな水が溢れ、子供たちの笑い声が響いていた……」

すると、奇跡が起きた。湊の言葉が光の粒子となり、霧を払いのけていく。輪郭を失っていた建物が再び形を取り戻し、色褪せた世界に鮮やかな色彩が蘇る。人々から歓声が上がり、リラは涙を浮かべて湊を見つめていた。

その日から、湊はアストラルーンを救うために言葉を紡ぎ続けた。それは、失われた過去を取り戻す旅であり、同時に、彼自身が現実世界で失っていた「創造する喜び」と「誰かと繋がる温かさ」を取り戻す旅でもあった。彼はもう、無気力な古書店主ではなかった。世界を救う希望を託された、「創生の紡ぎ手」なのだ。

第三章 忘却の霧に眠る真実

湊の言葉の力により、アストラルーンは少しずつ輝きを取り戻していった。しかし、忘却の霧は依然として世界の中心から湧き出ており、根本的な解決には至っていない。湊とリラは、霧の発生源である「原初の書物庫」を目指すことを決意した。

険しい山道を越え、記憶の海を渡り、二人はついに巨大な書物庫へとたどり着く。そこは、天井が見えないほど高く、世界の全ての物語が納められているという伝説の場所だった。だが、その大半は霧に覆われ、白紙に戻りかけている。

書物庫の中心。霧が最も濃い場所に、人影があった。

背の高い書架にもたれかかり、静かに佇むその人物に、湊は息を呑んだ。長い黒髪、白いワンピース。忘れるはずもない。現実世界で、数年前に交通事故で帰らぬ人となったはずの、彼のたった一人の親友。

「陽菜……?」

呼びかけに、その人影はゆっくりと振り返った。その顔は紛れもなく陽菜だったが、その姿は生者のそれではなく、どこか希薄で、深い哀しみを湛えた瞳をしていた。

「……湊。どうして、ここへ来たの?」

陽菜の声は、風に掻き消えそうなほどか細かった。彼女は死んだのではなかった。事故の後、意識不明のまま眠り続け、その魂だけが、かつて二人で創ったこの世界、アストラルーンに迷い込んでいたのだ。

そして、湊の心を打ち砕く事実が告げられる。忘却の霧を生み出していたのは、他の誰でもない、陽菜自身だった。

「私が目覚めることは、もうない。だから、湊には私のことを忘れて、現実でちゃんと生きてほしかった。あなたがこの世界を思い出すたびに、あなたの魂はここに引かれてしまう。現実のあなたが、壊れてしまう。だから……私はこの世界を消そうとしたの。忘却の霧はね、私の『忘れてほしい』っていう、ただの我儘なのよ」

陽菜は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。湊を救うために、彼女は自らが愛した世界を、自らの手で消し去ろうとしていたのだ。

衝撃の事実に、湊は言葉を失った。これまで自分がしてきたことは何だったのか。世界を救うという正義は、陽菜の悲痛な願いを踏みにじる行為でしかなかった。良かれと思って紡いだ言葉の一つひとつが、彼女を苦しめる刃となっていた。

「お願い、湊。この世界を、私と一緒に忘れて。そして、あなたの人生を生きて」

最大の敵は、邪悪な何かではなかった。愛する友の、あまりにも優しく、あまりにも悲しい願いそのものだった。湊の価値観は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

世界を救うことは、陽菜の願いを裏切り、彼女を永遠にこの孤独な場所に縛り付けることになる。かといって、彼女の願いを聞き入れれば、この美しく、かけがえのない世界は、人々の思い出と共に完全に消滅する。どちらを選んでも、待っているのは喪失だけだ。湊は、人生で最も過酷な選択を迫られていた。

第四章 君へ贈る最後の物語

深い沈黙が、霧に満ちた書物庫を支配していた。リラは不安げに湊を見つめ、陽菜は哀願するような瞳で彼を見つめている。湊は固く目を閉じ、これまでの全てを反芻した。現実から逃げていた自分。この世界で取り戻した生きる実感。そして、目の前で泣いている親友の魂。

やがて、彼はゆっくりと目を開けた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。

「陽菜、僕は君を忘れない」

きっぱりとした声だった。湊は陽菜に向かって、一歩、また一歩と歩み寄る。

「君を忘れることが、君のためになるなんて、そんな悲しい嘘はつかないでくれ。君と創ったこの世界は、僕にとってもかけがえのない宝物なんだ。君がいた証なんだ。それを消すことなんて、僕にはできない」

湊は、世界を消すのでも、ただ救うのでもない、第三の道を選んだ。それは、このアストラルーンという「物語を完成させる」ことだった。

彼は、その場にそっと座り込み、最後の言葉を紡ぎ始めた。それは、陽菜との出会いから始まる、二人の思い出の物語。初めてアストラルーンの地図を描いた日のこと、くだらないことで笑い合った放課後のこと、そして、彼女がどれほど湊にとって大切な存在だったかということ。

彼の言葉は、もはや世界を再生するための力ではなかった。一人の人間に向けた、感謝と愛情、そして、永遠の別れを告げるための、鎮魂の詩だった。

「……そして、少女は光になった。彼女は世界から消えたのではない。彼女の優しさと、強さと、その笑顔は、この世界の風となり、光となり、川の流れとなり、永遠に生き続ける。彼女の名は陽菜。僕が最も愛した、物語の主人公だ」

湊が物語を紡ぎ終えた瞬間、原初の書物庫は眩いばかりの光に包まれた。忘却の霧は完全に晴れ渡り、白紙だった書架は美しい物語で満たされていく。アストラルーンは、かつてないほど完璧で、美しい世界として再生されたのだ。

光の中心で、陽菜の身体が透き通っていく。彼女は、湊が今まで見た中で、最も穏やかな笑顔を浮かべていた。

「ありがとう、湊。私の物語を、こんなにも素敵に終わらせてくれて」

それが、陽菜の最後の言葉だった。彼女は無数の光の粒子となって舞い上がり、再生された世界そのものの中に、優しく溶け込んでいった。

気づくと、湊は「時紡ぎ堂」の冷たい床の上で目を覚ましていた。夜は明け、窓から朝の光が差し込んでいる。手元には、あの一冊の本があった。ページをめくると、そこにはアストラルーンでの冒険が、一字一句違わぬ美しい物語として綴られていた。本の表紙には、金色の文字でタイトルが浮かび上がっている。

『君と紡いだアストラルーン』

湊の頬を、一筋の涙が伝った。だが、その表情は不思議なほど晴れやかだった。彼は陽菜を失ったのではない。彼女との物語を、永遠にその胸に刻むことができたのだ。喪失は、永遠の絆へと昇華された。

それから、湊は変わった。古書店には、以前よりも多くの人が訪れるようになった。彼はもう、書物の影に隠れるように生きる男ではなかった。訪れる客一人ひとりと目を合わせ、楽しそうに言葉を交わし、物語がいかに人生を豊かにするかを熱心に語っている。彼は、自らの人生という物語を、前向きに、そして力強く紡ぎ始めていた。

ある晴れた午後、湊は店の窓を開け、アストラルーンの空を流れていた七色の川によく似た、美しい夕焼けを見つめていた。優しい風が店内を吹き抜け、開かれた本のページをパラパラと優しくめくっていく。それはまるで、遠い世界の誰かからの、返事のようだった。

湊は、そっと微笑んで呟く。

「僕たちの物語は、まだ始まったばかりだよ」

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