色は静寂に溶けて

色は静寂に溶けて

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第一章 色彩のノイズ

茅野雫にとって、世界は常に飽和状態だった。

カフェの窓際の席。手にしたカップの縁から、誰も知らない色が立ち上っている。それは虹のどの色にも属さない、存在しないはずの光彩。雫がそれを見た瞬間、カップの記憶が濁流となって脳に流れ込んできた。土だった頃の湿った沈黙、轆轤の上で形を与えられた歓喜、千三百度の窯で焼かれた灼熱の苦痛、そして今、ここに在るという陶器のささやかな矜持。その情報量が、注がれたコーヒーの香りも味も、すべて上書きしていく。

「……美味しくない」

誰に言うでもなく呟き、雫はそっと目を伏せた。五感はとうの昔に麻痺している。街を歩けば、アスファルトに刻まれた無数の足跡の疲労が、ショーウィンドウのガラスが映す虚栄心が、街路樹の葉脈を流れる諦念が、おぞましいノイズとなって彼女を苛む。あらゆる物質が持つ微弱な『自己認識』。雫だけがそれを、原子レベルの情報と共に『色』として知覚してしまうのだ。

人々は無意識に、その自己認識の影響を受けている。使い込まれた道具が手に馴染むのも、古びた家に愛着が湧くのも、全ては物質たちのささやきが人の心に届いているからだ。しかし、雫に届くそれは、ささやきではない。絶え間ない絶叫の洪水だった。

家に帰り着くと、重い扉を閉めて外界のノイズを遮断する。唯一の安息は、祖父の遺した書斎。埃っぽい紙の匂いが満ちるその部屋の中心に、黒檀の台座に乗ったガラスの砂時計がひとつ、静かに置かれていた。

その砂時計だけは、奇妙なほどに沈黙していた。内部の銀色の砂が、音もなく、色もなく、ただひたすらに流れ落ちていく。雫にとって、この世界で唯一、余計な情報を発しない、純粋な存在だった。彼女は飽きもせず、その静かな時の流れを眺めるのが常だった。

第二章 揺らぐ世界の輪郭

最近、世界の絶叫が少しずつ弱まっていることに、雫は気づいていた。それは安らぎではなかった。むしろ、嵐の前の不気味な静けさに似た、肌を粟立たせるような静寂だった。

物質たちの『自己認識』が、薄れている。

その変化は、世界の風景を少しずつ歪ませていた。いつも渡る橋の鉄骨が、一瞬、陽炎のように揺らいで見える。公園のベンチの木目が曖昧になり、まるで描きかけの絵のように輪郭を失う。世界の『存在確率』が不安定になっているのだ。自己認識という、存在をこの次元に繋ぎとめるための錨が、緩み始めている。

街行く人々は、その異常に気づいていない。だが、彼らの顔には漠然とした喪失感が影を落としていた。何か大切なものを、それが何かもわからないまま失くしてしまったような、所在ない不安が空気のように街に満ちていた。

「消える……」

雫は震える声で呟いた。このまま自己認識が失われ続ければ、やがて全ての物質は存在を保てなくなり、世界そのものが霧散してしまうだろう。ノイズに満ちた世界は呪いだったが、そのノイズが消え去った無の世界は、想像するだけで息が詰まった。

自分だけが、この世界の崩壊を、その予兆を、はっきりと感知している。この孤独な観測者に、一体何ができるというのだろう。雫は書斎にこもり、ただ沈黙の砂時計を見つめることしかできなかった。銀の砂は、世界の崩壊など我関せずと、変わらず静かに落ちていく。

第三章 止まった時のささやき

その夜、事件は起きた。

月明かりが書斎に差し込む中、雫がいつものように砂時計を眺めていると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。

さらさらと、絶え間なく流れ落ちていたはずの銀色の砂が、まるで時が止まったかのように、ぴたりと、その動きを止めたのだ。最後の砂粒がくびれを抜ける寸前で、空中に静止している。

次の瞬間、世界は変貌した。

遮断されていたはずの奔流が、堰を切ったように雫の内に流れ込んできた。だが、それはいつものおぞましいノイズではなかった。麻痺していた五感が、まるで生まれたての赤子のように鮮やかに蘇る。部屋に満ちる古い紙とインクの香り。床板の軋む微かな音。頬を撫でる夜風の冷たさ。

そして、色。

部屋中のあらゆる物質から、「存在しない色」がオーロラのように立ち上り、眩いばかりに輝きだした。机の木目からは、かつてそれが根を張っていた森の記憶が、深く静かな緑色の光となって溢れ出す。壁に積まれた本の一冊一冊からは、物語に込められた作者の情熱が、燃えるような緋色の輝きを放つ。

それは絶叫ではなく、調和のとれた壮大な交響曲だった。世界はこんなにも美しく、豊かな音色を奏でていたのか。雫の瞳から、知らず涙がこぼれ落ちた。

そして、目の前の砂時計からもまた、荘厳な光が放たれていた。遥か太古の、風と静寂しか存在しなかった砂漠の記憶。星々の光だけを浴びていた、永遠にも似た時間の感覚。その圧倒的な自己認識に触れた時、雫は初めて、この世界に生まれてきたことへの歓喜を感じていた。

第四章 昇華のプレリュード

砂の流れは数分で戻り、世界は再び色褪せた日常へと帰っていった。しかし、雫の中の何かが決定的に変わっていた。あの輝きと音楽は、喪失の悲鳴などでは断じてない。むしろ、何か大いなるものへの期待に満ちた、歓喜の歌のように聞こえた。

もしかしたら、世界は消滅に向かっているのではないのかもしれない。

その仮説を確かめるように、雫は再び街へ出た。すると、以前はただ薄れていくようにしか見えなかった物質たちが、あの夜に見た輝きの残滓を、ほのかに纏っていることに気づいた。消えゆく街灯、揺らぐ建物の壁、そのすべてが、旅立ちを前にした者のように、静かな興奮に満ちている。

「存在しない色」は、失われゆく自己認識の最後の輝き。そして、次なる何かへの、最初の産声。

しかし、変化は容赦なく加速していく。雫が子供の頃から通っていた古書店の角を曲がると、そこはがらんとした空き地になっていた。昨日まで確かにそこにあった、インクの匂いが染みついた木の扉も、色褪せた看板も、跡形もなく消え失せている。道行く人に尋ねても、誰もが「ここにそんな店はなかった」と、怪訝な顔をするだけだった。

存在確率が、完全にゼロに収束したのだ。

世界の断片が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。その事実に、雫は背筋が凍るような恐怖を感じた。だが同時に、胸の奥から湧き上がる、奇妙な高揚感を抑えることができなかった。自分は今、世界の最も根源的な変革の瞬間に立ち会っている。

第五章 私という境界線

沈黙の砂時計は、その流れを止める頻度を少しずつ増していった。一日に一度、数時間に一度、そして一時間に何度も。

そのたびに世界は鮮やかな輝きに包まれ、雫は万物の声を聞いた。石の永劫、水の流転、風の自由。あらゆる存在が、個という殻を破り、より大きな一つの意識へと溶け合おうとしている。

雫は、すべてを理解した。

これは世界の終わりではない。次元の『昇華』だ。個別に存在していた無数の自己認識が、その境界線を溶かし、より高次の、ただひとつの意識の海へと還ろうとしているのだ。そして、自分が見ていたあの色は、その海へと続く道標だった。

抗う術はない。そもそも、抗うべきことなのかもわからなかった。雫にできるのは、この世界の最後の目撃者となり、その行く末を見届けることだけ。

彼女は書斎の窓を大きく開け放った。変わりゆく世界の空気が、肺を満たす。それは光の匂いがした。失われゆくものたちへの哀惜と、これから生まれるものへの祝福が入り混じった、どこまでも澄み切った空気だった。

彼女の心は、不思議なほど凪いでいた。それは寂しくも、満ち足りた決意だった。

第六章 世界とひとつになる

そして、最後の時が訪れた。

机の上の砂時計。上半分に満たされた銀色の砂が、最後の一粒も落とすことなく、永遠にその流れを止めた。

瞬間、世界から音が消えた。

書斎の壁が淡い光の粒子となり、ゆっくりと宙に霧散していく。床が透き通り、足元には星々が渦巻く宇宙が広がった。雫の身体もまた、その輪郭を失い始めていた。指先から「存在しない色」の光が糸のように立ち上り、周囲の光の奔流へと溶け込んでいく。

個としての意識が、薄れていく。

茅野雫という名前、孤独だった記憶、初めて美しいと感じた世界の感動、そのすべてが、水に溶ける砂糖菓子のように、甘く、儚く、拡散していく。

代わりに、世界のすべての『自己認識』が、溶けゆく彼女の自我へと流れ込んできた。

私は、アスファルトの硬さ。

私は、雲を渡る風の冷たさ。

私は、夜空に瞬く星の孤独。

私は、名もなき石ころが見つめてきた、幾億年の沈黙。

痛みも、喜びも、悲しみも、歓喜も、すべてが等価の『存在』そのものだった。

最後に、彼女は「私」という言葉を忘れ、ただ静かな微笑みだけが、光そのものとなった世界に、そっと溶けていった。

そこにはもう、何もなかった。

あるいは、すべてがあった。

ただ、その事実を認識できる者は、どこにもいなかった。

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