記憶の森と硝子の空

記憶の森と硝子の空

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第一章 結晶の囁き

意識が浮上する感覚は、深い水の底から水面を目指すそれに似ていた。瞼の裏でちらつく光が徐々に輪郭を結び、水島蓮(みずしま れん)はゆっくりと目を開けた。

最初に映ったのは、見たこともない意匠の天井だった。いや、天井ではない。幾重にも重なる葉が織りなす、緑の天蓋だ。苔の匂いと、湿った土の香りが肺を満たす。体を起こすと、柔らかな草の感触が指先に伝わった。見渡す限り、そこは静謐な森の中だった。

「どこだ……ここは……」

絞り出した声は掠れ、森の静寂に吸い込まれて消えた。昨夜、自棄になって安酒を呷り、古びたアパートの固いベッドに潜り込んだはずだった。夢の続きだろうか。しかし、頬を撫でる風の生暖かさも、足元でカサリと音を立てる落ち葉の感触も、あまりに現実的だった。

蓮は立ち上がり、周囲を警戒しながら歩き始めた。この森は奇妙だった。聳え立つ木々の幹や、地面に張り巡らされた根、転がる石ころの表面から、まるで内側から発光しているかのような、淡い光を放つ無数の結晶が生えていたのだ。水晶のようでもあり、宝石のようでもあるそれらは、青や緑、琥珀色といった様々な色合いで、森全体を幻想的な光で満たしていた。

まるで作り物のような美しさに、蓮はしばし我を忘れて見入っていた。写真家を目指していた頃の自分がここにいれば、狂喜乱舞してシャッターを切り続けたことだろう。だが、今の蓮は、夢破れてカメラさえ手放した、ただの無気力な青年だった。

ふと、足元の木の根に埋まるようにして輝く、拳ほどの大きさの乳白色の結晶が目に留まった。何かに導かれるように、蓮はそっとそれに指先を伸ばす。

触れた瞬間、奔流が脳髄を直撃した。

知らないはずの光景が、凄まじい速度で頭の中に流れ込んでくる。陽だまりの中、皺くちゃの手で孫の頭を撫でる温かい感触。祭りの夜、妻と二人で見上げた大輪の花火の音。初めて自分の店を持った日の、ペンキの匂いと誇らしさ。病床で薄れゆく意識の中、家族に囲まれて感じる感謝と寂寥感。

「うわっ……!」

蓮は悲鳴を上げて手を引いた。心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。今のは何だ? まるで、見知らぬ誰かの一生を、数秒で追体験したかのようだった。老人の喜びも、悲しみも、後悔も、自分の感情であるかのように生々しく胸に焼き付いている。

混乱したまま後ずさると、背後で微かな物音がした。振り返った蓮の目に映ったのは、純白の簡素な衣をまとった一人の少女だった。銀色の髪が月光を吸ったように輝き、大きな紫色の瞳が、驚きと警戒の色を浮かべて蓮を見つめていた。

「……あなた、結晶に、触ったの?」

少女の声は、澄んだ鈴の音のように森に響いた。その声が、この世界の非日常性を決定的に蓮に告げていた。

第二章 森の番人と禁忌

少女はリナと名乗った。彼女はこの「記憶の森」の番人だという。蓮が触れた結晶は、この世界「アニムス」で生を終えた人々の記憶が形を成したものだと、リナは淡々と語った。

「死者の魂は天へ昇り、遺された記憶がこの森で結晶になるの。森は、そうやって少しずつ広がっていく」

リナに導かれ、森の奥にある小さな小屋で、蓮は話を聞いていた。彼女によれば、蓮のように別の世界から迷い込む者は「マレビト」と呼ばれ、極めて稀な存在らしい。

「結晶に触れてはだめ。他人の記憶は甘い毒。何度も触れれば、自分の記憶との境界が曖昧になって、やがて自分を見失う。そうなったマレビトを、私は何人も見てきた」

リナの紫色の瞳には、年齢にそぐわない深い憂いが宿っていた。蓮は、先ほどの衝撃的な体験を思い出し、彼女の言葉に頷くしかなかった。

元の世界へ帰る方法は分からない、とリナは言った。蓮は仕方なく、彼女の世話になりながら、森での生活を始めた。日は、森の木々が目覚めるように光を増し、夜は、無数の記憶の結晶が星々のように瞬く。そこは、蓮がいた灰色の都会とは何もかもが違う、静かで美しい世界だった。

リナはあまり自分を語らなかったが、森のあらゆるものに詳しかった。どの結晶がどんな人物の記憶なのか、まるで古い友人の話をするかのように教えてくれることもあった。偉大な音楽家の記憶は、触れずとも周囲に美しい旋律を響かせ、勇敢な騎士の記憶は、冬でも周囲の雪を溶かすほどの熱を放っていた。

蓮は、そんな輝かしい記憶の結晶を遠巻きに眺めながら、複雑な感情を抱いていた。写真家になる夢を諦め、何も成し遂げられなかった自分。それに比べ、結晶となった人々は、何と豊かな人生を送ったのだろう。彼らの人生を少しだけ覗いてみたい。ほんの少しだけなら、自分を見失うことなどないのではないか。そんな黒い誘惑が、日に日に心を蝕んでいった。

「どうして、そんなに寂しそうな顔をしているの?」

ある晩、月光の下で結晶の光を眺めていた蓮に、リナが問いかけた。

「俺には……何もないからだ。あの結晶たちみたいに、誇れるような記憶なんて一つも」

自嘲気味に吐き捨てると、リナは静かに首を振った。

「記憶に、価値の大小なんてない。ただ、そこにあったという事実だけが、尊いものなの」

彼女の言葉は、蓮のささくれた心を優しく撫でた。この少女は、一体どれだけの時間、この森で記憶たちと向き合ってきたのだろう。蓮は、ミステリアスな彼女にもっと近づきたいと思うようになっていた。同時に、彼女が時折見せる、深い孤独の影が気になっていた。

第三章 濁った光の真実

森での生活がひと月ほど過ぎた頃、蓮は森の最深部で、これまで見たこともない結晶を発見した。それは大樹の根本に突き刺さるように存在し、ひときわ大きく、しかし光は病んだように濁り、明滅を繰り返していた。まるで、苦しんでいるかのように。

蓮がそれに近づこうとすると、どこからか現れたリナが、血相を変えて彼の腕を掴んだ。

「だめ! それにだけは、絶対に触らないで!」

見たこともないほど必死な彼女の様子に、蓮は戸惑った。

「どうしてだ。何か知っているのか? もしかしたら、俺が帰るための手がかりが……」

「手がかりなんてない! お願いだから、ここから離れて!」

リナの拒絶は、逆に蓮の疑念と好奇心を煽った。彼女は何かを隠している。この世界に来てからずっと感じていた違和感の正体が、あの結晶にあると直感した。

「離してくれ、リナ。俺は、知らなければならないんだ」

制止を振り切り、蓮は濁った結晶に手を伸ばした。リナの絶望的な叫び声が、背後で木霊した。

指先が触れた瞬間、世界が反転した。

それは、今まで経験した記憶の流入とは全く異質だった。他人の記憶ではない。これは、紛れもなく自分の記憶だ。

──雨の夜。横断歩道。鳴り響くクラクション。ヘッドライトの強烈な光。体に走る、骨が砕けるほどの衝撃。アスファルトに叩きつけられ、急速に冷えていく体温。遠ざかる意識の中で、脳裏をよぎったのは、諦めた夢、伝えられなかった想い、そして、「死にたくない」という、みっともないほど必死な生の渇望だった。

そうだ。俺は、交通事故に遭って……死んだ、あるいは、死にかけている。

だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。記憶の視点が切り替わる。今度は、車の中からだ。雨で滲むフロントガラスの向こうに、傘もささずに飛び出してきた人影。ブレーキが間に合わない。絶望的な衝突音。ハンドルを握る、男の震える手。そして、助手席で顔を覆い、小さく悲鳴を上げる少女。

その少女の顔は──リナだった。

「……嘘だろ……」

現実に戻った蓮は、よろめきながら後ずさった。目の前で、リナが蒼白な顔で立ち尽くしている。

「全部……思い出したのね」

彼女の声は、か細く震えていた。

「どういうことだ……説明してくれ……!」

リナはゆっくりと語り始めた。あの事故で、蓮は意識不明の重体になった。そして、同じ車に乗っていたリナもまた、頭を強く打ち、蓮と同じように昏睡状態に陥ったのだと。

ここは異世界などではない。二人の生死を彷徨う意識が、互いに引かれ合い、作り出した精神の境界領域。それが、この「記憶の森」の正体だった。森の結晶は、二人が無意識下でアクセスした、死者たちの記憶情報の断片。アカシックレコードのようなものかもしれない、とリナは言った。

「ごめんなさい……あなたを轢いたのは、私の父だった。私は、その罪悪感から逃げたかった。そして、あなたに生きていてほしかった。だから、無意識にあなたをこの世界に繋ぎ止めて……目覚めさせないようにしていたの」

リナは、蓮と同じ、現実からの逃避者だった。彼女は父親の罪と向き合うのが怖くて、蓮は無気力な自分の人生と向き合うのが怖くて、二人でこの偽りの楽園に閉じこもっていたのだ。リナが番人として振る舞っていたのも、全ては蓮をこの森に留めておくための方便だった。

濁った光を放つ結晶は、二人の共有された「事故の記憶」。この森で唯一の、そして最も忌むべき、二人の真実だった。

第四章 二人の夜明け

全てが明らかになった森は、もはや幻想的な美しさを失っていた。結晶の光は色褪せ、ただの冷たい石のように見える。蓮は地面に座り込み、頭を抱えた。騙されていた怒りよりも、自分の弱さから目を逸らし続けてきた愚かさが、胸を抉った。

リナは、蓮のそばに静かに膝をついた。

「……私を、憎んでいるでしょう?」

その問いに、蓮はゆっくりと顔を上げた。リナの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝っている。その姿は、森の番人ではなく、ただ罪悪感に苛まれる、か弱い少女のものだった。

憎しみはなかった。彼女もまた、事故の被害者であり、深い傷を負っていたのだ。そして、この偽りの世界で、彼女は蓮の孤独を癒してくれた。それは紛れもない事実だった。

「いいや」蓮は、掠れた声で答えた。「俺も、逃げていただけだ。君がいなければ、俺はとっくに他人の記憶に溺れて、自分をなくしていたかもしれない。……ありがとう、リナ」

蓮の言葉に、リナは驚いたように目を見開いた。そして、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。蓮は、その小さな背中を、ただ黙ってさすり続けた。

どれくらいの時間が経っただろうか。泣き止んだリナが、顔を上げて言った。

「……帰ろう。私たちの、本当の世界へ」

「ああ」蓮は、力強く頷いた。「帰ろう。そして、もう一度始めよう」

他人の輝かしい記憶ではない。たとえ失敗と後悔に満ちていても、自分自身の人生を、この手で、この足で歩んでいく。蓮の心には、失っていたはずの確かな意志の光が灯っていた。

二人が固く手を取り合い、現実へ戻ることを強く意識した瞬間、世界が眩い光に包まれた。森の木々が、無数の結晶が、光の粒子となって溶けていく。それは、まるで夜明けの光が、長い夜の終わりを告げるかのようだった。美しい、けれど少しだけ切ない、記憶たちの葬送だった。

次に目を開けた時、蓮の目に映ったのは、見慣れた白い天井だった。消毒液の匂いが鼻をつく。ゆっくりと首を動かすと、隣のベッドで、同じように目覚めたばかりのリナと視線が合った。

やつれた顔、点滴の管。だが、彼女の紫色の瞳には、記憶の森で見たものと同じ、強く澄んだ光が宿っていた。

言葉はなかった。ただ、二人は静かに見つめ合った。昏睡していた長い時間、境界領域で過ごした濃密な日々、そして、これから始まるであろう現実。その全てが、二人の視線の間に溶け合っていく。

やがて蓮は、窓の外に目を向けた。そこには、どこまでも続く、硝子のような青い空が広がっていた。空っぽだったはずの自分の心が、不思議と穏やかに満たされているのを感じる。

これから刻んでいくべき、自分だけの記憶。その始まりを告げる空は、あまりにも美しかった。

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