永遠のその先にある色彩
第一章 灰色のカンバスと禁忌の記憶
世界は、まるで古びた銀板写真のように停滞していた。
空は常に鉛色で、風は止まり、人々の瞳には刹那の光しか宿らない。ここでは瞬き一つが永遠であり、昨日という概念は塵となって消え失せる。全ての住人は『今』という名の檻に閉じ込められ、直前の記憶さえも新しい刺激によって上書きされ続けていた。
ただ一人、エリオを除いて。
エリオの手には、一枚の絵画が握られている。それは、この灰色の世界が持ち得ない『色彩』を放つ、呪われた遺物だ。
彼がその絵画に視線を落とす。極彩色の花畑、頬を撫でるような翠緑の風、そして暖かな光を放つ太陽。その光景を目にするたび、エリオの脳裏には激痛と共に『記憶』が蘇る。
「……ここは、僕の故郷だ」
懐かしさが胸を焦がした瞬間、遠くで轟音が響いた。
地平線の彼方にあった巨大な時計塔が、音もなく崩れ去り、虚無へと溶けていく。
エリオが過去を思い出す代償。それは、この世界の『未来』が削り取られることだった。明日起こるはずだった出来事、出会うはずだった人々、その可能性が物理的に消滅していく。
それでも彼は、絵画から目を離せない。そこに描かれた、こちらに微笑みかける一人の少女の姿が、あまりにも愛おしかったからだ。
第二章 忘却の少女
「ねえ、エリオ。何をそんなに見つめているの?」
声をかけてきたのは、アリアだった。色素の薄い髪、硝子玉のような瞳。彼女は、絵画の中の少女と瓜二つだった。だが、彼女の瞳には絵画の色彩は映らず、ただの白い板に見えているらしい。
「アリア、君はこの場所を覚えているかい? 丘の上で、僕たちは約束をしたんだ」
「約束? ううん、知らない。でも……なんだか素敵な響きね」
アリアは無邪気に笑うと、すぐに興味を失って道端の石ころを拾い上げた。彼女の中では、今の会話すら既に過去の彼方へ消え去ろうとしている。
この世界に『後悔』はない。失ったものを認識できないからだ。同様に『希望』もない。積み重なる時間がないからだ。
エリオは唇を噛み締める。絵画の中の風景は、見るたびに鮮明さを増していた。最初はぼやけていた背景が、今では草の葉脈一本まで克明に描かれている。
それと同時に、絵画の外――現実の世界では、建物の崩落や道の消失が頻発していた。まるで、絵画が現実を侵食しているかのように。
「エリオ、あなたの話を聞いていると、胸が変な感じがするの。ここにはない何かが、私を呼んでいるような……」
アリアがふと、胸を押さえて呟いた。彼女の記憶は消えているはずなのに、魂の深淵に刻まれた何かが共鳴している。
エリオは確信した。この絵画は単なる記憶の記録ではない。もっと恐ろしく、もっと美しい『何か』への扉なのだと。
第三章 逆流する因果
異変は加速する。
空の裂け目から虚無が溢れ出し、街を飲み込み始めた。人々は逃げ惑うことさえ忘れている。彼らにとって、消滅さえもが『今』の出来事に過ぎないからだ。
エリオは絵画を抱きしめ、崩れゆく広場に立ち尽くしていた。
脳内に溢れ出す記憶の奔流。それはもはや、単なる回想ではなかった。
「違う……これは過去じゃない」
エリオは叫び、膝をついた。
彼が『故郷』だと思い込んでいた風景。それは、一度たりとも彼が訪れたことのない場所だった。
彼が思い出していたのは、過ぎ去った時間ではない。この灰色の世界が選び取れなかった、誰も到達し得なかった『理想の未来』だったのだ。
この世界に未来がないのは、エリオが『理想の未来』を過去として認識し、観測し続けていたからだ。彼が絵画を見るたび、不完全な『今』の未来は否定され、完全なる『理想』へと書き換えられていく。
彼は破壊者であり、同時に創造主だった。
「僕は……この世界を殺して、あの場所へ行こうとしていたのか」
絶望が喉を焼き、涙が溢れ出す。目の前で、アリアの体が半透明に透け始めていた。
「エリオ、怖いよ。私、消えちゃうの?」
初めて、アリアの瞳に『恐怖』という感情が宿った。それは彼女が『これから』を――未来を失うことを認識した証だった。
「ごめん、アリア。僕が、君を……」
エリオは選択を迫られる。
絵画を手放せば、灰色の世界は続き、アリアは感情を持たぬまま永遠を生きる。
描き続ければ、この世界は消滅し、絵画の中の『理想の未来』が現実となる。
「いや、違う。僕が求めていたのは過去じゃない。君と笑い合える、明日だったんだ!」
エリオは咆哮し、絵画を空へと掲げた。
絵画から爆発的な色彩が溢れ出し、灰色の空を塗り替えていく。青、緑、茜色。
世界が軋みを上げて崩壊し、再構築されていく。激流のような光の中で、エリオはアリアの手を強く握りしめようとした。
しかし、その手は空を切った。
第四章 観測者のいない楽園
柔らかな日差しが、頬を撫でる。
翠緑の丘には、色とりどりの花が咲き乱れていた。風が草木を揺らし、生き生きとした音色を奏でている。
「……あれ? 私、いつの間にここで寝ていたのかしら」
アリアはゆっくりと体を起こした。その瞳には、空の青さが鮮やかに映っている。
彼女の隣には、バスケットに入ったランチと、読みかけの本。
遠くから、友人たちが彼女を呼ぶ声が聞こえる。「アリア、早くおいでよ! 今日はピクニックの約束でしょう?」
「待って、今行く!」
アリアは弾むような足取りで駆け出した。彼女の心には、昨日の思い出と、明日への楽しみが満ち溢れている。後悔も希望も、すべてが存在する世界。
彼女はふと、足を止めて振り返った。
誰もいない、ただ風が吹き抜けるだけの丘の上。そこには何もないはずなのに、なぜか胸が締め付けられるような、懐かしい温かさを感じた。
「……だれ?」
問いかけは風に溶け、答えは返らない。
この世界は、『理想の未来』として完成した。
かつてエリオと呼ばれた存在は、もうここにはいない。
彼は世界の理(ことわり)そのものとなった。この世界が二度と色褪せず、明日が明日として訪れるよう、時間の外側から『過去』として世界を観測し続ける概念となったのだ。
キャンバスにはもう、何も描かれていない。
ただ、アリアの笑顔だけが、永遠に続く未来の中で輝き続けていた。
透明な風となって、エリオは彼女の髪を優しく撫でる。
誰も彼を認識することはない。けれど、それでいい。
君が明日を夢見ることができるなら、僕は永遠に、過ぎ去った昨日であり続けよう。