白紙の頁が紡ぐアニム

白紙の頁が紡ぐアニム

0 4505 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 閉じた物語と白紙の本

神保町の古書店街の片隅に、水無月湊(みなづき みなと)が営む「時紡ぎの書斎」はあった。店内に漂うのは、古い紙とインク、そして微かな埃の匂い。それは湊にとって、幼い頃から慣れ親しんだ、世界で一番安心できる香りだった。両親を早くに亡くし、唯一の家族だった祖父からこの店を継いで三年。二十八歳になった湊の毎日は、本の背表紙を眺め、時折訪れる客と当たり障りのない会話を交わすだけの、静かで色のない日々だった。

彼は物語の中に逃げ込むのが得意だった。英雄譚、悲恋、壮大な冒険。ページをめくる間だけは、自分の抱える空虚な孤独を忘れられた。しかし、本を閉じれば現実は変わらない。がらんとした店と、その奥にある生活感の乏しい居住スペース。湊は、自分自身の物語が、とうの昔に終わってしまったかのように感じていた。

その日も、夕暮れのオレンジ色の光が埃をきらきらと照らす、いつもと同じ午後だった。ドアベルがちりんと鳴り、一人の老人が入ってきた。ひどく背の曲がった、顔に深い皺を刻んだ男だった。彼は何も言わず、カウンターに一冊の本を置いた。

それは奇妙な本だった。革らしきもので装丁されているが、表紙には何の模様も、題名もない。湊が手に取ると、ずしりと重い。ページを繰ってみると、さらに奇妙なことに、中身はすべて上質な羊皮紙のような質感の、完全な白紙だった。

「これは……?」

湊が顔を上げると、老人の姿はもうどこにもなかった。まるで陽炎のように、ふっと消えてしまったのだ。

その夜、店を閉めた湊は、カウンターの隅に置かれたままの白紙の本を改めて手に取った。指先でそっと表紙を撫でた、その瞬間。

―――ビリッとした微かな静電気と共に、幻が脳裏をよぎった。

翡翠色の葉を持つ巨大な樹々。空を泳ぐ、鱗粉を撒き散らす魚の群れ。そして、どこからか聞こえる、澄んだ鈴のような笑い声。

「うわっ!」

湊は思わず本を取り落とした。心臓が早鐘を打っている。幻は一瞬で消えたが、そのあまりの鮮やかさに、現実との境界がぐらりと揺らぐ感覚があった。

これは何だ? 疲れているのか?

しかし、もう一度おそるおそる本に触れると、今度は指先からインクが滲み出すような、奇妙な感覚が伝わってきた。この本は白紙ではない。何かを、持ち主の何かを吸い取り、物語を紡ぎ出そうとしている。そんな荒唐無稽な確信が、湊の心を捉えて離さなかった。自分の、この空っぽの人生の記憶でさえ、物語になるのだろうか。そんな淡い期待と、過去と向き合うことへの恐れが、彼の心の中で渦を巻いていた。

第二章 記憶の森アニム

白紙の本を手に入れてから数日、湊はそれに触れるたびに、断片的な異世界のビジョンを見るようになっていた。それは常に同じ世界だった。水晶のように透き通った川が流れ、夜には植物そのものが発光して森を照らす、幻想的な場所。湊はいつしか、その世界に焦がれるようになっていた。現実の灰色の日々とはあまりにも違う、鮮やかな色彩に満ちた世界。

満月の夜だった。その日、湊は言いようのない孤独に襲われ、無意識に白紙の本を強く握りしめていた。「連れて行ってくれるなら、どこへでも……」そう呟いた途端、足元の床が抜け落ちるような浮遊感に襲われた。本のページがひとりでに、凄まじい勢いでめくれ始め、そこから溢れ出した眩い光が、湊の全身を包み込んだ。

次に目を開けた時、湊は古書店の床ではなく、柔らかい苔の上に立っていた。見上げれば、幻で見た翡翠色の葉が天蓋のように空を覆っている。空気は花の蜜のように甘く、澄み切っていた。

「ようこそ、『アニム』へ」

鈴を転がすような声に振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。銀色の髪を風になびかせ、新月のような瞳で湊を見つめている。

「君は……?」

「私はリリア。この世界の案内人よ」

リリアと名乗る少女は、ここはアニム、すなわち魂や記憶が形作る世界だと説明した。人々が忘れ去った記憶、語られることのなかった物語、強く願われた想い。そうしたものの欠片が集まって、この森羅万象を構成しているのだという。

湊はリリアに導かれ、アニムを歩いた。言葉を話す思慮深いキツネ、歌うように咲き誇る花々、思い出を映し出す泉。そのすべてが美しく、そしてどこか切なかった。湊は、自分の知るどの物語よりも、この世界に心を奪われた。

リリアとの日々は、湊の凍てついた心をゆっくりと溶かしていった。彼女は湊の過去を詮索せず、ただ静かに寄り添ってくれた。二人で光る茸を摘んだり、星屑の川で水遊びをしたりするうちに、湊は笑うことを思い出した。人との繋がりがもたらす温かさを、何年かぶりに感じていた。

「ここにいれば、君の心の傷も、いつか美しい森の一部になるわ」

リリアはそう言って微笑んだ。湊は、このままこの場所に留まりたいと、本気で願い始めていた。祖父の死も、埋められない孤独も、この美しい世界がすべて忘れさせてくれるような気がしたのだ。

第三章 箱庭の真実

アニムでの穏やかな時間は、湊にとって何物にも代えがたい宝物になっていた。もう、あの埃っぽい古書店に戻りたいとは思わなかった。彼はついに決心し、リリアに自分の想いを告げた。

「リリア、僕はここに残りたい。君と一緒に、この世界で生きていきたいんだ」

しかし、リリアの反応は湊の予想とは違った。彼女は喜びも驚きもせず、ただ悲しそうに瞳を伏せたのだ。

「……それは、できない相談よ、湊」

彼女の静かな声が、湊の心を冷たく刺した。

「どうしてだ? この世界は、忘れられた記憶が集まってできたんだろう? なら、僕がここに留まることを選んだって……」

「違うの」リリアは首を横に振った。「この世界は、たった一人の人間の、たった一つの巨大な悲しみから生まれたの」

リリアは、衝撃的な真実を語り始めた。このアニムの世界は、湊の祖父が、若くして亡くした最愛の妻――湊の祖母――との記憶を封じ込めるために創り出した、悲しみの箱庭だったのだ。あの白紙の本は、持ち主の最も強い記憶や感情を吸収し、一つの世界を構築する力を持っていた。祖父は、愛する人を失った耐えがたい悲しみと、共に過ごした幸福な記憶のすべてを、その本の中に封じ込めた。そうして生まれたのが、このアニムだった。

「そして、私も……」リリアは自分の胸にそっと手を当てた。「私は、あなたのおじいさまが、あなたのおばあさまを愛した記憶そのもの。彼の心の中にだけ存在した、理想の彼女の姿なのよ」

湊は言葉を失った。自分が逃げ場所として焦がれた美しい異世界が、敬愛する祖父の、生涯をかけた苦悩の結晶だったというのか。祖父が時折見せる、遠くを見るような寂しげな眼差し。その理由が、今、痛いほどに分かった。祖父は、心の大部分をこの箱庭に置き去りにして、残りの力で湊を育ててくれていたのだ。

「おじいさまは、亡くなる直前まで、この世界を消すか残すか、ずっと迷っていたわ。でも、彼にはできなかった。愛した人の記憶を、自分の手で消すことなんて」

リリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは水晶のようにきらめき、地面に落ちると小さな光る花になった。

「だから、あなたに託したの。あの日、あなたに本を渡した老人は、おじいさまの最後の想いが作り出した幻。彼は、孫であるあなたに、この悲しみの連鎖を断ち切ってほしかったのよ。この世界を……終わらせて、と」

湊の足元が崩れていくようだった。自分の孤独の根源は、祖父から無意識に受け継いだ、この巨大な喪失感だったのかもしれない。楽園だと思っていた場所は、愛する祖父の魂を閉じ込めた、美しい牢獄だったのだ。

第四章 君のいない明日へ

選択の時は来た。祖父の魂を永遠の悲しみから解放するために、この美しくも偽りの世界アニムを終わらせるか。それとも、真実から目を背け、愛しいリリアと共に、この箱庭で永遠に生きるか。湊の心は、引き裂かれそうだった。

彼はリリアと共に、アニムでの最後の時間を過ごした。思い出の泉のほとりで、二人は黙って並んで座っていた。

「私が消えることを、悲しまないで」先に口を開いたのはリリアだった。「私は、おじいさまがどれほどおばあさまを愛していたか、その証なの。私という存在を終わらせることは、彼の愛を否定することじゃないわ。むしろ、その愛と悲しみのすべてを、あなたが受け止めて、本当の意味で未来へ受け継いでいくということよ」

彼女は、自分が消える運命を、静かに受け入れていた。その気高い姿に、湊は若き日の祖母の面影を確かに感じた。

「君は……怖くないのか?」

「怖いわ。でも、それ以上に、あなたに自分の物語を生きてほしい。誰かの悲しみの中で立ち止まるんじゃなくて、あなた自身の、白紙のページに」

リリアはそう言って、優しく微笑んだ。

湊は涙をこらえ、ゆっくりと頷いた。彼はもう逃げないと決めた。祖父の悲しみも、自分の孤独も、すべて背負って、現実の世界で生きていく。それが、祖父と、そして目の前のリリアに対する、彼なりの誠意だった。

湊は懐から白紙の本を取り出した。彼が固く閉じようとすると、リリアはそっとその手に自分の手を重ねた。

「ありがとう、湊。あなたに会えて、よかった」

それが、彼女の最後の言葉だった。

湊が本を閉じると、世界が音を立てて崩れ始めた。翡翠色の葉は光の粒子となり、歌う花々は沈黙し、言葉を話す動物たちは森の奥へと消えていく。リリアの身体もまた、足元から少しずつ透き通り、柔らかな光となって空へと溶けていった。彼女は最後まで、穏やかな微笑みを浮かべていた。

次に気づいた時、湊は古書店「時紡ぎの書斎」の床に座り込んでいた。頬を、冷たい涙が伝っていた。手の中にあったはずの本は、カウンターの上に置かれている。しかし、それはもう白紙の本ではなかった。

表紙には、金色の箔押しで『君と生きた森』と記されている。ページをめくると、そこには美しい文字で、若き日の祖父と祖母の出会いから、幸せな日々、そして突然の別れまで、切なくも温かい愛の物語が綴られていた。

そして、最後のページ。そこには、見慣れた祖父の震えるような筆跡で、こう書かれていた。

『湊、お前の物語を生きろ』

湊は本を抱きしめ、声を上げて泣いた。それは、悲しみの涙ではなかった。長い間心の奥底に溜まっていた澱が、すべて洗い流されていくような、温かい涙だった。

やがて彼は顔を上げ、窓の外を見た。見慣れたはずの神保町の街並みが、雨上がりの空のように、鮮やかに輝いて見えた。彼の物語は、まだ白紙のままかもしれない。だが、そのページはもう、孤独と諦めの灰色には染まっていない。

祖父が遺してくれた愛と悲しみを胸に、湊は静かに立ち上がった。彼の人生という、まだ誰も知らない物語を紡ぎ始めるために。時を紡ぐ書斎の主は、今、自分自身の時を、未来へと歩き始めた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る