空の記憶

空の記憶

1 4458 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 知らない家族写真

「お父様が、倒れました」

受話器の向こうから聞こえる母の震える声は、まるで遠い国の出来事のように現実味がなかった。俺、高橋健太、三十四歳。東京のコンサルティング会社で働き、実家のある海辺の町にはもう何年も帰っていなかった。父・雄一郎とは、昔からそりが合わなかった。厳格で、無口で、俺のやることなすこと全てを否定するような目で見ている、そんな男だった。

新幹線に飛び乗り、駆けつけた病院の個室で見た父は、俺の記憶の中の威圧的な姿とは似ても似つかぬ、ただのか細い老人になっていた。脳梗塞。一命は取り留めたものの、医師は深刻な顔で「高次脳機能障害の可能性があります」と告げた。そして、その懸念は最悪の形で現実のものとなる。

数日後、父が目を覚ました。ベッドのそばに立つ俺と母を交互に見て、そして、ひどく困惑した顔でこう言ったのだ。

「はじめまして。どなたでしょうか?」

記憶喪失。それも、ここ数十年分の記憶がごっそりと抜け落ちているらしかった。自分の名前も、妻である母のことも、そしてもちろん、息子の俺のことも、父は完全に忘れてしまっていた。

退院後、父を連れて実家に戻った。ぎこちない空気が、埃っぽい家の隅々にまで満ちている。俺は会社に長期休暇を申請し、しばらく実家で父の介護を手伝うことにした。それは義務感からであり、愛情からではなかった。少なくとも、その時はそう思っていた。

ある雨の午後、父の書斎を整理していた時のことだ。本棚の奥、分厚い専門書の後ろに隠されるように置かれた、古びた木箱を見つけた。蓋を開けると、防虫剤の匂いと共に、数枚の写真が出てきた。セピア色に変色したそれらは、俺が生まれる前のものらしかった。若い両親が、幸せそうに微笑んでいる。そして、その隣には――見知らぬ少女がいた。七、八歳だろうか。おかっぱ頭で、父と同じ形の大きな瞳をしたその子は、俺の幼い頃のアルバムには存在しない顔だった。

一枚の写真の裏には、掠れたインクでこう書かれていた。『サキと、初めての海。』

サキ。誰だ、この子は。写真の中の三人は、どう見ても完璧な「家族」だった。俺の知らない、もう一つの家族。心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じた。俺が生まれる前、この家には一体何があったのか。記憶を失くした父と、何かを隠しているような母、そして写真の中の謎の少女。俺の家族という名の物語は、冒頭のページが破り取られたまま、始まっていたのかもしれない。

第二章 空白のアルバム

父との奇妙な共同生活が始まった。雄一郎と名乗るその男は、俺が知る「父親」とは全くの別人だった。昔の父は、俺が何を話しても「くだらん」と一蹴するような人間だったが、今の父は、俺の仕事の話に「ほう、それは面白い」と目を輝かせ、子供のように純粋な好奇心を向けてくる。そのあまりの変化に、俺は戸惑いを隠せなかった。

「健太くんは、すごい仕事をしているんだね」

夕食の席で、父は感心したように言った。他人行儀な「くん」付けが、胸に小さく突き刺さる。

「別に。ただの会社員だよ」

俺はぶっきらぼうに答えながら、味噌汁をすする。その味噌汁の塩辛さが、やけに喉に染みた。

俺は父の記憶を取り戻す手がかりを探すという名目で、家の隅々を探索し始めた。本当の目的は、あの少女「サキ」の正体を探ることだった。父の日記、古い手紙、卒業アルバム。しかし、サキに繋がるものは、あの写真以外どこにも見当たらなかった。まるで、その存在自体が意図的に消し去られたかのように。

母に単刀直入に尋ねてみた。

「なあ、母さん。サキって誰か知ってるか?」

洗い物をしていた母の手が、ぴたりと止まった。その背中が、一瞬で硬直するのが分かった。

「……さあ。昔の、遠い親戚の子じゃないかしら」

声が微かに震えている。嘘だ。その動揺は、明らかに何かを隠している者のそれだった。それ以上、俺は何も聞けなかった。母の悲しげな横顔が、これ以上踏み込むことを拒んでいた。

そんな日々の中、俺と父との関係には、少しずつ変化が生まれていた。父の趣味は、模型飛行機作りだった。書斎の棚には、バルサ材で作られた精巧な機体がいくつも並んでいる。昔は、俺がそれに触ろうものなら、雷が落ちたものだ。だが、今の父は違った。

「健太くんも、手伝ってくれないか」

そう言って、設計図とカッターを俺に差し出した。最初は渋々だった。しかし、二人で黙々と翼の骨組みを組み立てる時間は、不思議と苦痛ではなかった。紙やすりで木材の表面を滑らかにする感触。接着剤のツンとした匂い。その一つ一つが、俺と父の間に、これまで存在しなかった「共有された時間」を刻んでいくようだった。

ある晴れた日、完成したばかりのグライダーを手に、近くの丘へ行った。父がそれを空へ放つと、機体は風を捉え、まるで生きているかのように滑らかに舞い上がった。青い空を悠々と飛ぶグライダーを見上げながら、父はぽつりと言った。

「気持ちがいいなあ。どうしてだろう、すごく懐かしい気がする」

その横顔は、俺が今まで見たことのない、穏やかで満ち足りた表情をしていた。俺は、このまま父の記憶が戻らなくてもいいのかもしれない、とさえ思い始めていた。過去の確執も、謎も、全てこの穏やかな時間の中に溶けてしまえばいい。だが、運命はそんな安易な逃避を許してはくれなかった。

第三章 再生された悲劇

決定的な証拠は、屋根裏部屋の最も奥まった場所にある、鍵のかかったトランクの中から見つかった。母が隠していた鍵を偶然見つけ、俺は禁断の扉を開けてしまったのだ。中に入っていたのは、一本の古い8ミリフィルムだった。映写機は父の書斎にあった。俺は家族が寝静まった深夜、まるで共犯者のように息を殺しながら、書斎の壁に白い光を灯した。

カタカタと音を立てて回り始めたフィルムが映し出したのは、俺の知らない過去の風景だった。そこには、若い頃の両親と、あの写真の少女「サキ」がいた。夏の日差しの中、三人は庭でバーベキューをしている。父はサキを肩車し、母は楽しそうに笑っている。サキが、俺が一度も向けられたことのないような、無邪気な笑顔を父に向けている。それは、幸福そのものを切り取ったような映像だった。

俺は、自分が生まれる前の家族の姿に、奇妙な嫉妬と疎外感を覚えた。この幸福な輪の中に、俺の居場所はない。

映像は切り替わり、海辺のシーンになった。あの日付は、俺が生まれるちょうど一年前の夏。サキは赤い浮き輪を持って、波打ち際ではしゃいでいる。カメラを回している父に、大きく手を振っている。その時だった。一瞬の出来事だった。サキが足を滑らせ、強い引き波にさらわれた。カメラが激しく揺れ、父の絶叫が聞こえる。映像はそこで無情に途切れていた。

心臓を鷲掴みにされたような衝撃。呼吸ができない。サキは、俺の姉だった。そして、事故で死んでいたのだ。

愕然とする俺の脳裏に、母が俺を妊娠したと知った時の、父の日記の一節が蘇った。それは、トランクの底からフィルムと一緒に出てきたものだった。

『サキが、還ってくるのかもしれない』

全身の血が凍りつく感覚。そういうことだったのか。俺は、亡くなった姉の「代わり」だったのだ。父が俺に厳格だった理由。母が時折見せる、深い悲しみを湛えた瞳の理由。家族の間に常に流れていた、見えない冷たい川の正体。全てのピースが、最も残酷な形で繋がってしまった。

父が失ったのは、単なる記憶ではなかった。彼が忘れたかったのは、愛する娘を失った耐えがたいほどの悲しみと、その身代わりとして生まれてきた息子を、純粋に愛することができなかった罪悪感そのものだったのだ。俺が父に対して感じていた壁は、父が自分自身を守るために築いた、悲しみの防壁だった。

俺は映写機のスイッチを切った。暗闇と静寂が、恐ろしいほど重く書斎にのしかかる。俺という存在は、一つの死の上に成り立っていた。俺が今まで信じてきた「家族」というものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

第四章 父と飛ばす空

翌朝、俺は眠れぬまま夜を明かし、幽霊のような足取りでリビングへ向かった。父はすでに起きていて、窓辺の椅子に座り、穏やかな表情で庭を眺めていた。その無垢な姿を見た瞬間、俺の中にあった怒りや絶望は、行き場を失って霧散していくのを感じた。この人に何を問い詰めろというのか。真実を突きつけたとして、何が変わるというのか。

俺は父の向かいに座り、静かに口を開いた。

「なあ、親父。サキちゃん、ていう子を知ってるか?」

俺が初めて彼を「親父」と呼んだことに、彼は気づかない。ただ、その名前を聞いて、一瞬、遠い目をした。そして、ふっと柔らかく微笑んで言った。

「……サキ。綺麗な名前だね。どこかで聞いたことがあるような、ないような……」

その答えを聞いて、俺の中で何かがすとんと腑に落ちた。

そうだ、これでいいのだ。父は、忘れることで救われたのだ。過去の呪縛から解放され、ようやく穏やかな時間を取り戻したのだ。ならば、俺がその記憶を無理にこじ開ける権利などない。俺は、姉の「代わり」だったのかもしれない。だが、それでも父と母は、不器用ながらも必死に俺を育ててくれた。その事実まで否定する必要はない。

その日の午後、俺は屋根裏部屋へ上がり、8ミリフィルムと日記をトランクに戻し、固く鍵をかけた。過去は過去として、そこに封印する。俺たちが生きるべきは、「今」なのだ。

数ヶ月が過ぎた。父の記憶は戻らないままだったが、俺は東京の仕事を調整し、週末ごとに実家に帰るようになっていた。

あの丘の上で、俺と父は再び模型飛行機を飛ばしていた。澄み渡った秋空に、俺たちが作ったグライダーが美しい弧を描く。

「見ろ、健太。高く飛んだぞ」

父が、少年のようにはしゃいで俺の肩を叩く。俺はその手を振り払わず、ただ黙って空を見上げていた。

風が頬を撫でていく。その風の中に、会ったことのない姉の声が聞こえたような気がした。

『ありがとう、健太』

俺は心の中で、静かに答える。

――姉さん、見てるか。俺たちは、今、家族をやり直しているんだ。血の繋がりや、失われた記憶だけが家族じゃない。こうして同じ空を見上げ、同じ時間を分かち合うこと。それもまた、一つの家族の形なんだと、俺は今なら思えるよ。

空を見上げる父の横顔は、俺が知らなかった、そしてずっと見たかったであろう、ただの優しい父親の顔をしていた。悲しい真実の上に、それでも俺たちの新しい物語は始まっていく。空の記憶は空に返し、俺たちは、地面にしっかりと足をつけて、明日へ向かって歩き出すのだ。その一歩は、決して軽くはない。だが、隣には父がいる。それだけで、もう十分だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る