沈黙の家が叫ぶとき
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沈黙の家が叫ぶとき

第一章 錆びた匂いの帰郷

バスの扉が開いた瞬間、肺腑を犯したのは湿気ではない。赤錆の粉塵を直接喉に擦り込まれたような、ざらついた異物感だった。

アオイは咳き込み、アスファルトに唾を吐く。唾液に色はついていない。だが舌の奥には、古い血の味がへばりついて離れない。

この土地が、拒絶している。あるいは、貪欲に求めている。

レインコートのポケットで、右手が勝手に痙攣を始めた。指の関節が軋み、爪が掌に食い込む。アオイは左手で右の手首を強く握りしめ、その震えをねじ伏せる。彫刻刀を握るために酷使してきた指は今、自身を取り巻く空間の「歪み」を感知し、勝手に形を探ろうと暴れていた。

実家へ続く坂道は、生き物の食道のように濡れて黒光りしていた。

両親からの手紙には『体調不良』とだけあった。だが、あの震える筆跡は、助けを乞うというよりは、生贄を誘い込む罠の招待状に見えた。

門の前に立つ。黒い瓦屋根が、降り続く雨を吸って膨張しているように見える。庭木は剪定されず、節くれだった枝が互いに絡み合い、締め上げ、樹皮が裂けて白濁した樹液を垂らしていた。

引き戸を開ける。

蝶番が悲鳴を上げ、玄関の闇がアオイを飲み込む。

靴を脱ぐ足裏に、床板の微細な振動が伝わる。家が呼吸している。壁紙の裏、天井板の隙間、柱の木目。そこかしこから、不可視の粘液が糸を引くように漂っていた。

「……アオイか」

奥の襖が開き、父が現れた。

アオイは息を呑むのを堪えた。父の輪郭がぼやけている。老いたからではない。父の身体の周囲だけ空間がねじれ、まるで水槽のガラス越しに見ているように像が揺らいでいるのだ。

そして、父の左目は濁り、焦点が合っていない。その視線はアオイを通り越し、背後の闇に怯えていた。

「お母さんは?」

「寝ている。……痩せたな」

会話が噛み合わない。父はアオイの顔を見ようとしない。視線を合わせれば、アオイの背後にいる「何か」に気づいてしまうと恐れるように、床の染みを見つめ続けている。

「姉ちゃん」

階段の上から、声が降ってきた。

レンだ。制服姿の弟は、手すりを握りしめてアオイを見下ろしている。

その手すりを握る指が、異様だった。

爪の間から、黒い煙のようなものが立ち昇り、手すりの木材を黒く変色させている。レン自身は気づいていないのか、それとも無視しているのか。

「レン、その手」

「え?」

レンが自分の手を見る。黒い煙は一瞬で霧散し、そこにはただの白い手があった。だが、手すりには指の跡が焦げたように残っている。

「何でもない。……帰ってきたんだ」

レンの声は冷たかった。歓迎の色はない。むしろ、邪魔者が来たという苛立ちと、微かな安堵がない交ぜになった複雑な響きがあった。

アオイは吐き気を覚えた。

この家には、言葉にならない汚泥が溜まっている。家族全員が何かを腹の底に隠し持ち、それが腐敗ガスとなって家全体を満たしている。

アオイの「感覚」は、それを幻覚としてではなく、物理的な圧迫感として捉えていた。皮膚が粟立つ。見えない視線が、全身の毛穴から侵入してくる。

「部屋に行くわ」

逃げるように階段を上がる。レンとすれ違う際、弟からは腐った果実のような甘ったるい臭いがした。

かつての自室。荷物を放り出す。

ベッドに腰を下ろすが、休まるどころか、耳鳴りが激しくなる。

キー、キー、とガラスを引っ掻くような音が、脳の深部で響く。

音源は、天井だ。

頭上。屋根裏。

幼い頃、祖母が「あそこにはネズミが出るから近づくな」と言っていた場所。だが、今の音はネズミの足音ではない。もっと重く、引きずるような音。

アオイは衝動的に立ち上がった。

机を椅子の上に重ね、天井板を押し上げる。埃とカビ、そして強烈な鉄錆の臭気が吹き降りてきた。

懐中電灯の光が闇を切り裂く。

梁の上に、一枚の古びた和紙が釘で打ち付けられていた。

家の見取り図だ。

だが、墨で描かれた線の上に、無数の赤い手形が押されている。誰かの血で、何度も、何度も上書きされた手形。

アオイは図面を引き剥がした。

乾いた和紙がパリパリと音を立てる。

図面の中心、座敷の下にあたる部分が、黒く塗りつぶされていた。そこに、白字で殴り書きされた文字。

『空洞(うつろ)』

その文字を見た瞬間、アオイの右手が激痛に襲われた。骨が砕けるような衝撃。

視界が反転する。

赤ん坊の泣き声。女の悲鳴。「契約だ」と叫ぶ男の怒号。土を掘るスコップの音。

過去の残響(エコー)が、鼓膜を突き破る。

ドォン、と階下で重い音がした。

地鳴りではない。家そのものが、異物の侵入を検知して痙攣したのだ。

アオイは図面を握り潰し、天井裏から飛び降りた。

この家の下には、空洞がある。

そこが、腐敗の源泉だ。

第二章 歪む空間、暴かれる傷跡

廊下に出た瞬間、アオイは平衡感覚を失った。

廊下が伸びていた。

数メートル先の階段が、遥か遠く、霧の向こうに霞んでいる。壁の木目が人の眼球のようにギョロギョロと動き、アオイを追尾する。

足元の床板が波打ち、一歩踏み出すたびに足首まで沈み込む。まるで沼地だ。

「な……に……」

現実が溶解している。アオイの認識能力が、家の隠蔽工作(ベール)を剥ぎ取り、その下にある混沌を暴き出してしまったのだ。

「やめてくれよ!」

叫び声が聞こえた。レンだ。

長い廊下の向こう、レンが壁に背を押し付け、頭を抱えていた。

彼を取り囲むように、壁から無数の「腕」が生えている。白く、細く、弱々しい腕。それらがレンの服を掴み、髪を引っ張り、耳元で何かを囁いている。

「レン!」

アオイは泥のような床を蹴って走った。足が重い。空気が水飴のようにまとわりつく。

アオイが近づくと、壁の腕たちが一斉にこちらを向いた。掌の中央に、パックリと裂けた口がある。

『オマエノセイダ』

『オマエガキタカラ』

無数の囁きが重なり、不協和音となって脳を削る。

アオイは反射的に右手を振るった。

「消えろ!」

イメージを叩きつける。彫刻刀で余分な木片を削ぎ落とすように、右手の指先で空を薙ぐ。

青白い火花が散り、壁の腕たちが切断されてボトボトと床に落ち、黒いシミとなって消えた。

レンが顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。

だが、アオイを見て浮かべた表情は、感謝ではなかった。

憎悪だ。

「なんで帰ってきたんだよ!」

レンが叫んだ。「姉ちゃんがいなきゃ、上手くいってたんだ! あと少しで、僕の番は終わったのに!」

「何……?」

背後の襖が開き、両親が這い出してきた。

二足歩行ではない。四つん這いだ。関節がありえない方向に曲がり、蜘蛛のように床を這ってくる。

父の顔面には、苦悶と恍惚が張り付いていた。

「アオイ、お前だ……お前が『器』なんだ」

父が涎を垂らしながら笑う。「お前の才能、その異常な感受性。それが『あの人』の好物なんだ。お前を差し出せば、我々は許される」

「許される? 何を言ってるの」

アオイは後ずさる。背中が冷たい壁にぶつかる。

母が首を傾げた。ゴキ、と鈍い音が鳴る。

「契約よ、アオイ。この家が栄えるための。代々、一人だけ優れた子を地下の『岩』に食わせるの。そうすれば、残りの凡人は幸せになれる。あなたは特別すぎた。だから二十年も待たせてしまったの」

アオイの心臓が早鐘を打つ。

恐怖ではない。激しい怒りと、そして深い絶望が胸を焼いた。

芸術大学への進学を許してくれたのも、個展を開かせてくれたのも、応援してくれたのも。

すべては、アオイという「生贄」の価値を高め、熟成させるためだったのか。

「僕じゃ足りないんだよ!」

レンが泣き叫ぶ。「僕には才能がない! 絵も描けないし、勉強もできない! だから岩が怒り出したんだ! 姉ちゃんが代わってよ! 姉ちゃんは天才なんだろ!?」

弟の言葉が、鋭利な刃物となってアオイの腹を刺した。

保身。自己愛。犠牲への強要。

これが家族の正体。

アオイは胃酸が逆流し、口元を押さえた。美しい思い出、家族の団欒、優しい言葉。それらすべてが、いま目の前でドロドロの汚物に変わっていく。

「……最低」

アオイは呟いた。

吐き気が止まらない。このままここから逃げ出して、東京へ戻ればいい。この醜い怪物たちが自滅するのを、遠くから笑って見ていればいい。

だが。

アオイの右手が、熱く脈打っていた。

逃げるな、と指先が告げている。

目の前にあるのは、醜悪で、歪で、腐りきった「素材」だ。

彫刻家が、素材の前で逃げ出してどうする。どんなに汚れた原石でも、削り、磨き、形を与えれば、それは意味を持つ。

「案内しなさい」

アオイは顔を上げ、冷徹な目で両親と弟を睨みつけた。

「その地下室へ。私が終わらせてやる」

父がヒヒ、と喉を鳴らし、床板を剥がした。

そこには、暗黒の口が開いていた。カビと鉄錆、そして何百年分の乾いた血の匂いが吹き上がってくる。

アオイは躊躇なく、その闇へと飛び込んだ。

第三章 血の契約と、造られた才能

地下空間は、予想よりも遥かに狭かった。

四方を湿った土壁に囲まれた、六畳ほどの空洞。

その中央に、不定形の岩塊が鎮座していた。

岩ではない。それは無数の骨と、干からびた肉が圧縮され、化石化したような有機的な塊だった。

表面には血管のように赤い筋が走り、ドクン、ドクンと低い音を立てて脈動している。

岩の表面に、アオイの名前が浮き出ていた。

その横には『未納』の文字。

「さあ、アオイ。それに触れて」

背後から降りてきた父が、懇願するように手を合わせた。「触れて、受け入れればいい。痛みはない。ただ、お前のその『作る力』が消えるだけだ。そうすれば、我々はまた普通の家族に戻れる」

普通の家族。

誰かを犠牲にして成り立つ平穏が、普通なのか。

アオイは岩塊の前に立った。

圧倒的な圧迫感。岩から放射される負のエネルギーが、アオイの精神を侵食しようとする。

『あきらめろ』『らくになれ』『ねむれ』

甘美な誘惑が脳内に響く。

だが、アオイは笑った。

右手を挙げ、岩塊に触れる。

ジュッ、と肉が焼ける音がした。

「熱ッ……!」

激痛。だが、手を離さない。

「私は彫刻家よ。素材が硬ければ硬いほど、燃えるの」

アオイは左手も岩に押し当てた。

両手の爪を立てる。指の腹が裂け、血が滴る。その血が岩に吸い込まれていく。

アオイはイメージする。

この岩塊は「契約」そのものだ。一方的に搾取し、依存させる歪なシステム。

それを破壊するのではない。

形を変えるのだ。

「ぐ、うううううッ!!」

アオイは指を岩に突き刺した。

岩の表面は鋼鉄のように硬いが、アオイの意志(のみ)はそれを豆腐のように貫く。

第一関節まで指が埋まる。爪が剥がれ、神経が悲鳴を上げる。

痛い。痛い。痛い。

だが、この痛みこそが「制作」の実感だ。

「レン! お父さん! お母さん!」

アオイは血を吐くように叫んだ。

「突っ立ってるんじゃないわよ! あんたたちも当事者でしょう!」

家族は呆然とアオイを見ていた。

「来いッ!!」

アオイの怒号に弾かれたように、レンがよろめきながら近づいてきた。

「な、何をすれば……」

「触れなさい! あんたのその弱さを、嫉妬を、全部ここに流し込むのよ!」

レンが恐る恐る岩に手を触れる。

瞬間、岩が赤く発光した。レンの身体から黒い靄が吸い出されていく。

「うわあああ!」レンが絶叫する。「痛い! 心が、痛い!」

「痛くて当たり前よ! それが代償だ!」

アオイは更に深く指をねじ込む。骨が軋む音が響く。

父と母も、何かに突き動かされるように岩に取りついた。

彼らの目から涙が溢れる。何十年分の罪悪感、娘を売ろうとした自己嫌悪、老いへの恐怖。醜い感情の奔流が、岩へと流れ込む。

岩塊が激しく痙攣し始めた。

契約の核が、想定外の負荷に悲鳴を上げている。

一方的な生贄(ワンウェイ)ではなく、全員の負債を共有(シェア)する回路への強制的な書き換え。

アオイの意識が白濁する。

指の感覚がない。腕が炭化していくような灼熱感。

それでも彼女は、血まみれの手で岩を捏ね、削り、形を変え続けた。

かつて「搾取」の形をしていた岩が、次第に丸みを帯び、互いに支え合う「器」の形へと変貌していく。

「あああ……私の、最高傑作……ッ!」

アオイは最後の力を振り絞り、自身の魂の一部をノミとして、岩の中心核に打ち込んだ。

閃光。

地下室全体が白光に包まれ、轟音と共に世界が反転した。

最終章 秘密の再生

鳥のさえずりが聞こえる。

アオイは土の匂いの中で目を覚ました。

仰向けに倒れている。天井には穴が空き、四角く切り取られた青空が見えた。地下室は崩落し、家の一部と融合して埋没したようだ。

「……アオイ」

瓦礫の向こうで、母が座り込んでいた。

その顔は老婆のように皺が増え、髪は一晩で真っ白になっていた。父も同様だ。急速に老け込み、小さくなっている。

レンは傍らで膝を抱えていた。その表情からは、憑き物が落ちたような虚脱感と、深い疲労が滲んでいる。

彼らは失ったのだ。

契約によって維持されていた「不当な若さ」と「偽りの安寧」を。

これからは、年相応に老い、病み、苦しむことになる。

アオイは体を起こそうとして、激痛に顔をしかめた。

右手が、動かない。

そっと目の前に掲げる。

その手は、もはや人間のそれとは違っていた。

指先から肘にかけて、黒い岩のような質感に変質し、赤い幾何学模様が血管のように脈打っている。

爪は黒曜石のように鋭く尖り、掌にはあの岩塊と同じ「眼」のような紋様が刻まれていた。

契約の核を、身体に取り込んだのだ。

彼女自身が、この家の新たな「人柱」であり、同時に「監視者」となった。

「アオイ、その手……」

レンがアオイの腕を見て息を呑む。

「いいの」

アオイは右手をレインコートの残骸で隠した。

ズキズキと疼く痛み。それは永遠に消えないだろう。この痛みがある限り、契約は維持される。家族の苦しみをアオイが濾過し、分散させ、全員で背負うシステム。

「ごめん……ごめんなさい……」

母が泣き崩れた。今度の涙は、保身のための演技ではなかった。

父も地面に手をつき、肩を震わせている。

アオイは立ち上がった。足元がおぼつかない。

かつての家は半壊し、無残な姿を晒している。だが、あの淀んだ空気は消え失せていた。風が通り抜け、カビの臭いも薄れている。

「泣かないでよ」

アオイは言った。声が枯れていた。「まだ終わってないわ。家の修理もしなきゃいけないし、私のこの手のケアもしてもらわなきゃ」

レンが顔を上げ、涙を拭って立ち上がった。

「僕がやるよ。バイトして、金稼ぐから。姉ちゃんの世話も、僕がやる」

その目には、微かだが意志の光が宿っていた。才能はなくとも、生きていく人間の目だ。

アオイは歪に変形した右手を、胸元に強く押し当てた。

異物感。重み。そして、家族全員の心臓の鼓動が、手のひらを通じて伝わってくる感覚。

プライバシーなどない。彼らが恐怖すればアオイも震え、彼らが絶望すればアオイも痛む。

それは呪いだ。

けれど、孤独ではない。

「さあ、片付けましょう」

アオイは瓦礫の山を見渡した。

ここから新しい生活が始まる。美しくも清らかでもない、傷と泥にまみれた再生の日々。

彼女は彫刻家だ。

この壊れた家と、壊れた家族。これらを素材に、死ぬまで彫り続けていく。

その覚悟を込めて、アオイは異形の指で、空を掴むように握りしめた。

AIによる物語の考察

沈黙の家が叫ぶとき:深掘り解説

アオイの帰郷は、異常な感受性を持つ彫刻家としての本能が、家族の家が抱える「歪み」を感知することから始まる。冒頭の「赤錆の粉塵」「古い血の味」、痙攣する右手は、家と家族にまつわる血の契約の歴史、そしてアオイの特異な才能を暗示する。屋根裏の「赤い手形」の見取り図と「空洞(うつろ)」の文字は、代々続く生贄の事実と、その源泉である地下の「岩」の存在を伏線として示していた。

家族の歪んだ姿やレンの嫉妬、両親の保身は、アオイの「才能」が実は家との「契約」における生贄としての価値を高めるためだったという残酷な真実を暴き出す。この物語は、「家族」という名の自己犠牲と保身の構造、そして才能が呪いとなる側面を問いかける。

最終的にアオイは、逃げるのではなく、この醜悪で腐りきった「契約」を、彫刻家として自らの手で「制作」し直す道を選ぶ。痛みと引き換えに、一方的な搾取の連鎖を全員の負債へと書き換えようとするアオイの行為は、家と家族を支配する呪縛からの解放、そして創造的な破壊を描く壮大なテーマを提示している。
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