琥珀色の不在と、君という名の光
第一章 喪失の代償
真鍮のドアベルが、低く、咳き込むような音を立てた。
地下のアトリエに湿った風が吹き込む。入り口に立っていた老婆は、まるで水に溶けかけた砂糖菓子のように輪郭が曖昧だった。彼女が震える手でカウンターにすがろうとした時、その指先は木板をすり抜け、虚空を掴んだ。
「夫の顔が……もう、思い出せないのです」
老婆の声は、遠いラジオのノイズ混じりの放送に似ていた。背景の本棚が、彼女の透けた体を通して歪んで見える。存在の希薄化が始まっている。猶予はない。
俺は何も言わずに革張りの鞄を掴んだ。
雨の匂いが染みついた路地裏、あるいは誰かが捨てた古靴の中。この世界において、失われた記憶は消滅するのではなく、質量を持った結晶となって排出される。持ち主がそれを失った場所で、静かに、誰かに拾われるのを待っているのだ。
老婆の記憶は、錆びついた公園の滑り台の下、泥に埋もれていた。
それは小石ほどの大きさで、拾い上げると、春の土の匂いと、日向干しした布団のような温かい感触が掌に広がった。視覚的な色よりも先に、安らぎという温度が伝わってくる。
アトリエに戻り、俺はその結晶を老婆の胸のあたり――心臓があるべき場所へ押し当てた。
ジュッ、と熱い鉄を水に浸したような音がして、光が老婆の体内へ浸透していく。
半透明だった指先に血色が戻り、揺らいでいた輪郭が硬度を取り戻す。
「……ああ。そうだわ。あの人は、笑うと目尻に深い皺ができる人だった」
老婆は自身の頬に触れ、確かな感触を噛み締めるように涙を零した。その涙は床に落ちても消えなかった。
彼女が何度も礼を言って去っていくと、静寂が戻ってきた。
その直後だ。
脳髄を直接万力で締め上げられるような激痛が走った。
俺は呻き声を上げ、机に突っ伏す。視界が明滅し、俺の中にある「何か」が引き剥がされていく感覚。記憶を修復した代償だ。俺は他人の欠落を埋めるたびに、自分自身の構成要素をランダムに奪われる。
痛みが引いた後、俺は恐る恐る顔を上げた。
壁にかかったカレンダーを見る。数字の羅列は理解できる。自分の名前も言える。
だが、ふと違和感を覚えた。
俺はなぜ、いま右手にペンを握っているのだろう?
書くべき言葉が浮かばない。ただ、掌に残るペンの感触だけが、かつて俺が何か重要な、例えば「日記」のような習慣を持っていたことを示唆している。だが、その日記帳がどこにあるのか、そもそも何のために書いていたのか、その動機がごっそりと抜け落ちていた。
俺は溜息をつき、立ち上がる。
習慣でコーヒーを淹れようとして、手が止まった。
キッチンの棚には、マグカップが二つ並んでいた。
一つは俺がいつも使う無骨な黒いカップ。もう一つは、白磁に繊細な蔦模様が描かれた、少し小ぶりなカップだ。
……これは、誰のだ?
俺は一人暮らしだ。あるいは、そう認識している。
だが、部屋の隅々には奇妙な痕跡があった。洗面台の鏡の裏に置き忘れられた、琥珀色の櫛。本棚の文庫本の隙間に挟まった、押し花の手触りがする栞。
それらを見るたびに、胸の奥がざわつく。
まるで、幽霊と同居しているようだ。
俺は知っている。俺が何か致命的に大切なものを忘れていることを。
だが、それを探ろうとすると、脳の奥で警告音が鳴る。本能が「蓋を開けるな」と叫ぶのだ。
俺は逃げるように、黒いカップにだけコーヒーを注いだ。
第二章 透明な少女
数日後の夜、激しい雷雨と共にその依頼人は現れた。
ドアが開いた瞬間、吹き込んだ風が書類を巻き上げたが、彼女の足音はしなかった。
そこに立っていたのは、濡れた長い黒髪を持つ少女だった。
彼女の状態は、今まで見たどの依頼人よりも深刻だった。足元は完全に霧散し、床から浮いているように見える。顔の半分も透けており、美しい瞳の奥に、背後の雨粒が光って見えた。
「……助けて」
声は、擦れたガラスのように微かだった。
「自分が誰なのか、わからないの。名前も、過去も……ただ、ここに来なければいけないということだけを覚えていて……」
俺は椅子を勧めたが、彼女は座ることができなかった。体が椅子をすり抜けてしまうのだ。
俺は急いで奥から厚手の毛布を持ってくると、彼女の肩にかけた。毛布の重みで、辛うじて彼女の存在がその場に留まる。
「すぐに楽にしてやる。少し待っていてくれ」
俺は彼女を安心させようと、温かい飲み物を用意することにした。
キッチンに立ち、無意識に手を動かす。
お湯を沸かし、豆を挽く。
気がつくと、俺はあの「白いカップ」を手に取っていた。
そして、砂糖は入れず、ミルクだけをたっぷりと注いでいた。
ハッとして動きを止める。なぜ、こんな作り方をした? 俺はブラックしか飲まないはずなのに。
手が勝手に動いたのだ。まるで、何千回も繰り返した動作のように。
困惑しながらも、俺はその白いカップを彼女の前のテーブルに置いた。
彼女は湯気の立つカップを見つめ、震える両手で包み込むように触れようとした。実体がないため触れることはできないが、湯気の温かさを感じているようだ。
「……いい匂い」
彼女が呟いた。
「私、この香りが好き。ミルクの甘い匂いと、深煎りの豆の苦い香りが混ざった、この匂いが」
心臓が跳ねた。
俺の体温が急激に上昇する。
彼女が前髪をかき上げる仕草。カップに顔を近づけて香りを吸い込む角度。瞬きの速さ。
初対面のはずなのに、その全てが網膜に焼き付いているかのような既視感。
俺の体は、俺の脳よりも先に彼女を知っていた。
理屈ではない。DNAに刻まれた暗号が、彼女の存在に共鳴して震えている。
「……エレナ」
口をついて出た音に、俺自身が驚愕した。
彼女がゆっくりと顔を上げる。
「エレナ……? それは、私の名前?」
彼女の瞳が揺れた瞬間、俺の胸の奥にある空洞が、焼け付くような熱を帯びて疼いた。
そうだ、エレナだ。
その名前を呼んだ時の、舌に残る甘美な響きと、同時にこみ上げる焦燥感。
俺は彼女を知っている。
だが、記憶の引き出しを開けようとしても、中は空っぽだ。
彼女はなぜ記憶を失っている? なぜ俺は彼女の名前を知っているのに、彼女との思い出がない?
俺は震える手で地図を広げた。彼女の「記憶の結晶」を探さなければならない。これほど存在が希薄なら、強烈な力を持った結晶が近くにあるはずだ。
ペンを地図の上にかざす。
……反応がない。
ペンの先はピクリとも動かない。
アトリエ周辺、街中、森、海。どこにも彼女の記憶の波長は存在しなかった。
「そんな……」
結晶が存在しない?
それは、彼女が記憶を失ったのではないことを意味する。
記憶がないのに、存在が消えかけている。この矛盾は何だ?
エレナの右手が、蛍の光のように明滅し始めた。
時間がない。俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「待っていてくれ。必ず見つける」
根拠はなかった。だが、ここにいてはいけない気がした。俺の過去が、俺の部屋のどこかに隠された「真実」が、俺をあざ笑っている気配がしたからだ。
第三章 存在しない結晶
外は嵐だった。
俺は雨に打たれながら、アトリエの周りを這いつくばって探した。
泥の匂い。雨水の冷たさ。だが、彼女の気配を感じさせる「温かい石」は見つからない。
絶望が足元から這い上がってくる。
エレナが消えてしまう。その恐怖だけが、俺を突き動かしていた。
ふと、ポケットに入れていた革の手帳が重く感じられた。
普段は依頼人の情報を書くだけの、何でもないメモ帳。
だが、なぜか今、それを開かなければならないという強迫観念に襲われた。
街灯の下、雨に濡れるのを構わずにページを捲る。
白紙のページが続く。俺は何も記録していなかったのか?
いや、最後のページだ。
裏表紙の裏側に、万年筆のペン先が紙を突き破るほどの筆圧で、殴り書きされた文字があった。
『探すな』
心臓が凍りついた。それは間違いなく、俺自身の筆跡だった。
『結晶は外にはない。お前が探しているのは記憶ではない』
『思い出せ。あの夜の儀式を』
『彼女を生かすために、お前が何を代償に差し出したのかを』
雷光が空を裂いた瞬間、俺の脳内でダムが決壊した。
封印していた扉が、内側からの圧力で吹き飛ぶ。
――血の匂い。
――蠟燭の炎。
――冷たくなっていくエレナの手。
そうだ。彼女は病死したのだ。一年前の今日、医者に見放され、俺の腕の中で息を引き取った。
修復士としての俺は、狂気に囚われた。
記憶を修復できるなら、運命も修復できるはずだという妄執。
俺は禁忌を犯した。
古文書にあった「因果の置換」。死にゆく彼女の「死の事実」を強引に「失われた記憶」として再定義し、それを修復することで蘇生させる術。
だが、それには対価が必要だった。
失われた記憶(死の運命)を埋めるための、パテとなる別の魂が。
俺は自分自身の「存在」を切り刻んだのだ。
彼女との思い出、彼女への愛、そして俺という人間の核となる部分を削り取り、それを結晶化させ、彼女の空っぽになった器へ注ぎ込んだ。
だから、俺にはエレナの記憶がない。
だから、彼女には俺の記憶がない。
彼女の中にあるのは、俺が捧げた「命の代わりとなった記憶」だけだ。
今、彼女が消えかけているのは、俺が注ぎ込んだエネルギーが枯渇しかけているからだ。
あるいは、代償として捧げた俺の「愛」の記憶が、時間の経過と共に劣化し、彼女を現世に繋ぎ止める楔としての機能を失いつつある。
膝から力が抜け、泥水の中に崩れ落ちた。
結晶など、どこにもないはずだ。
彼女を生かしていたのは、過去の俺の犠牲そのものだったのだから。
そして今、彼女を救う方法はただ一つ。
残った俺の全てを、燃やし尽くすこと。
第四章 琥珀色の愛
アトリエの扉を開けると、エレナはソファの上で光の粒子となりかけていた。
もう、人の形を保っているのが不思議なほどだ。
俺は濡れたまま彼女に歩み寄り、その場に跪いた。
恐怖はなかった。
むしろ、奇妙なほどの安堵があった。
部屋にある二つのカップ。見覚えのない櫛。それらが物語っていた「不在の恋人」の正体がわかり、俺の中にあった巨大な空白が、ようやく意味を持って埋まったからだ。
俺はこのために生きていたのだ。
記憶を失うたびに感じていた喪失感は、彼女を救うための予行演習に過ぎなかった。
「……レン?」
エレナが薄く目を開けた。俺の姿は見えていないかもしれない。それでも、魂が俺を認識している。
「大丈夫だ」
俺は彼女の、冷たい霧のような手に自分の手を重ねた。
触れられないはずの手が、微かに熱を持った。
「君は何も失っていない。ただ、少し長い夜に迷い込んでいただけだ」
俺は深く息を吸い込み、体内の全神経を集中させる。
修復士としての最後の仕事だ。
俺は自分の心臓の鼓動、血液の流れ、そして今、鮮烈に蘇った「彼女を愛している」という感情の全てを、琥珀色のエネルギーへと変換していく。
視界が端から白く焼けていく。
指先の感覚が消える。音が遠のく。
俺という個の輪郭が溶け出し、光の奔流となってエレナの胸へと流れ込んでいく。
痛くはなかった。
それは、凍えた体が温かい湯に溶けていくような、優しい崩壊だった。
俺の過去が、未来が、名前が、彼女の命の燃料となって燃え上がる。
俺が世界から消えることで、彼女の世界が鮮やかさを取り戻す。
それでいい。それがいい。
最後に、俺は彼女の涙を拭った気がした。
その指の感触だけを道連れに、俺の意識は琥珀色の光の中へ拡散していった。
――愛している。
言葉にならなかった想いが、一番純粋な結晶となって、彼女の心臓の奥底に深く、深く突き刺さった。
第五章 名もなき光
小鳥のさえずりで、エレナは目を覚ました。
目を開けると、朝の光が埃の舞うアトリエを黄金色に照らしていた。
彼女は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに満ちる空気の味がする。
体を起こす。指先まで血が通い、心臓が力強く脈打っている。昨夜までの、自分が消えてしまいそうな頼りなさは嘘のように消え去っていた。
「……私、どうしてここで?」
エレナは首を傾げ、周囲を見渡した。
古びた時計塔の地下室。雑然とした机、修理道具。
誰かの仕事場のようだが、主人の姿はない。
彼女は立ち上がり、部屋の中を歩いた。
なぜか、ひどく懐かしい。
キッチンの棚にある黒いマグカップを見た時、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
まるで、とても大切な誰かがここにいたような気がする。
けれど、その人の名前も、顔も、どうしても思い出せない。
そもそも、そんな人は最初からいなかったのかもしれない。私はただ、雨宿りに入った空き家で、不思議な夢を見ていただけなのだろうか。
エレナは出口へ向かった。
重い扉を開け、外の世界へ踏み出す。
雨上がりの街は、洗われたように輝いていた。
歩き出そうとして、彼女は不意に足を止めた。
胸の奥、心臓の裏側あたりに、小さな、けれど確かな「熱」を感じたからだ。
それは、春の陽射しのような、あるいは淹れたてのコーヒーのような、琥珀色の温もりだった。
記憶ではない。思い出そうとしても、具体的な映像は何もない。
けれど、その温もりが「あなたは愛されていたのだ」と、全身に語りかけてくる。
絶対的な肯定。無償の守護。
誰かが命を賭して守ってくれたという事実だけが、宝石のように彼女の中で輝き続けている。
エレナの目から、自然と涙が溢れ出した。
悲しみではない。それは、満たされた心が溢れ出た雫だった。
「……ありがとう」
彼女は誰もいない青空に向かって呟いた。
風が吹き抜け、彼女の髪を優しく揺らした。その風の中に、誰かの優しい手が混じっているような気がした。
エレナは涙を拭い、前を向いた。
彼女の歩調は軽い。
その胸の奥で、名もなき光が、彼女の長い人生を照らし続ける。
彼女がその光の正体を知ることは、永遠にない。
それでも、彼女が生きている限り、彼もまた、彼女の一部として生き続けるのだ。