星屑のテレグラム

星屑のテレグラム

0 4755 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 幻の詩集と月曜日の老婦人

神保町の古書店『書庫の森』の隅で、柏木湊(かしわぎ みなと)は古びたインクの匂いに包まれながら、ただ静かに時が過ぎるのを待っていた。大学を出てから五年、特に夢もなく、この場所に流れ着いた。人と深く関わるのが億劫で、沈黙が支配するこの空間は、彼にとって一種の避難所だった。

そんな湊の平穏な日常に、小さな、しかし確かな波紋を広げる存在がいた。毎週月曜日の午後三時きっかりに現れる、小柄な老婦人だ。背筋をしゃんと伸ばし、丁寧に使い込まれたであろう布製の鞄を提げている。彼女は決まって同じことを尋ねる。

「もしもし、すみません。『星屑のテレグラム』という詩集は、こちらにありますでしょうか」

その声は、古寺の鐘の音のように、凛としていて、どこか切ない響きがあった。

湊は最初、ありふれた客の一人として対応していた。店のデータベースで検索し、国内の古書市場のネットワークにも問い合わせる。しかし、結果はいつも同じだった。「該当なし」。そんなタイトルの本は、この世のどこにも記録されていないのだ。

「申し訳ありません。やはり、見当たりませんね」

そう告げると、老婦人は少しだけ寂しそうに眉を下げ、「そうですか。また、まいります」とだけ言って、静かに店を出ていく。そのやり取りが、もう半年以上も続いていた。

同僚は「記憶違いか、誰かの作り話じゃないか」と笑ったが、湊にはそうは思えなかった。彼女の、その一冊だけを求める真摯な眼差しは、幻を追っている者のそれではない。確かな記憶の、しかし手の届かない場所にある何かを、必死に手繰り寄せようとしているように見えた。

ある雨の強い月曜日、彼女はいつものように店に現れた。だが、その日は少し様子が違った。顔色は青白く、息も少し弾んでいる。湊がいつものように「見当たりません」と告げた直後、彼女はふらりと身体を傾け、その場に崩れ落ちそうになった。湊は咄嗟にカウンターを飛び出し、その華奢な肩を支えた。

「大丈夫ですか!」

腕の中に感じる彼女の身体は、驚くほど軽かった。薄く開かれた唇から、か細い声が漏れた。

「ああ……また、見つからなかった……。あの日、あの星空の下の約束が……」

その言葉は、湊の心の奥深くに、小さな棘のように突き刺さった。それは、単なる本の探索ではない。彼女にとって、失われた時間そのものを探す旅なのだと、湊はこの時、初めて直感した。この日を境に、湊の退屈だった日常は、幻の詩集を巡る静かな謎解きへと、ゆっくりと舵を切り始めたのだった。

第二章 色褪せる記憶の栞

介抱したことがきっかけとなり、湊は老婦人――早川千代(はやかわ ちよ)と、少しずつ言葉を交わすようになった。彼女は、湊の勤める古書店のすぐ近くにある、古い木造家屋で一人暮らしをしていた。週に一度、湊は彼女の家を訪ね、話し相手になるようになった。

縁側に腰掛け、温かい番茶をすすりながら聞く千代の話は、いつも断片的だった。楽しかったはずの記憶も、大切な人の顔も、まるで陽に晒された古い写真のように、輪郭からゆっくりと色褪せていくのだという。医師からは、アルツハイマー型認知症の初期段階だと告げられている、と彼女は穏やかに、しかし寂しげに打ち明けた。

「だから、忘れてしまう前に、見つけないといけないのです。『星屑のテレグラム』を」

ある日、湊は思い切って尋ねた。

「その本は、どんな本なんですか? どんな内容で、作者は誰なんです?」

千代は少しの間、遠くを見るような目をした。庭の金木犀が、甘い香りを風に乗せて運んでくる。

「作者は……忘れました。でも、とても優しい詩でした。夜空の星が、言葉になって降ってくるような……。夫が、私にくれたんです。世界でたった一冊の、大切な本よ」

夫。その言葉に、湊は息を呑んだ。亡くなったと聞いていた彼女の夫は、船乗りだったという。長い航海の合間に港町で見つけてきた、珍しい本だったと千代は語った。しかし、話の細部は会うたびに少しずつ食い違い、確かなことは何も掴めなかった。ただ、それが夫との絆の証であることだけは、彼女の心に深く刻まれているようだった。

湊は、彼女のために何かできないか、と本気で考え始めていた。それは、これまで人との関わりを避けてきた自分にとっては、驚くべき心境の変化だった。彼は仕事の合間を縫って、手製本や私家版の詩集について徹底的に調べた。しかし、手掛かりは一切見つからない。まるで、最初から存在しない蜃気楼を追っているような虚しさが募った。

「湊さん」

ある日の午後、千代が不意に言った。

「もし、私があの本のことをすっかり忘れてしまったら……。夫のことまで、忘れてしまったら……。私は、どうなってしまうんでしょう」

その声は震えていた。記憶という、自分を自分たらしめているものが失われていく恐怖。その計り知れない孤独を前にして、湊はかけるべき言葉を見つけられなかった。ただ、彼女の手をそっと握ることしかできなかった。その皺の刻まれた手は、ひんやりとしていて、頼りなかった。湊は心に誓った。たとえ幻だとしても、必ず見つけ出してみせる。彼女が失いかけている記憶の、最後の栞を。

第三章 星屑のテレグラム

「もしかしたら、家のどこかに、手がかりがあるかもしれません」

湊の提案に、千代は静かに頷いた。それから数週間、湊は週末になると千代の家を訪れ、二人で古い荷物の整理を始めた。埃っぽいアルバム、黄ばんだ手紙の束。そこに綴られているのは、若き日の千代と、日に焼けた精悍な顔つきの夫の、幸せな時間の断片だった。しかし、詩集に繋がるものは何も出てこない。

諦めかけた頃、湊は屋根裏部屋の隅に置かれた、古びた桐の箱を見つけた。錠はかかっていない。ぎしり、と重い蓋を開けると、樟脳の匂いと共に現れたのは、本ではなかった。中に入っていたのは、黒光りする無骨な機械――古びたモールス信号の受信機と、びっしりと詰め込まれた何十本ものカセットテープだった。

「これは……?」

湊が手に取ると、千代は懐かしそうに目を細めた。

「ああ、お父さんの……。昔、これで遠い海からのお便りを聞いていたわ。ト、ツー、ト、ツーツーって……星の瞬きみたいな音」

その瞬間、湊の脳裏に稲妻のような閃きが走った。テレグラム――電報。星屑のテレグラム。それは、物理的な「本」のことではないのではないか。

湊は千代に断って、一番古い日付のテープを近くにあったラジカセに入れた。再生ボタンを押すと、サーというノイズの向こうから、静かでリズミカルな電子音が流れ出した。

ト、ツー、トトツー……。

それは無機質な信号音のはずなのに、なぜか湊の胸を強く打った。遠い夜の海の上、たった一人の妻のために、男が打ち続ける言葉の光。それはまさしく、星屑のようだった。

「千代さん、ご主人は、この信号で詩を送っていたんじゃありませんか?」

湊の問いに、千代ははっとしたように目を見開いた。忘却の霧の向こうから、何かが甦りかけているようだった。

「そう……そうだったかもしれない。私は、この音を毎晩聞いて、ノートに書き留めて……。そうよ、あのノート! 私が作った詩集……!」

千代が探していた『星屑のテレグラム』とは、夫が海から送ったモールス信号の詩を、彼女自身が書き留めた手製のノートだったのである。しかし、その大切なノートは数年前、家のリフォームの際にどこかへ紛失してしまっていたのだ。

衝撃的な事実に言葉を失っている湊の目に、受信機の側面に貼られた一枚の古いステッカーが飛び込んできた。『柏木無線』。それは、湊が幼い頃に亡くなった、アマチュア無線が趣味だった祖父の店の名前だった。

まさか。湊は急いで実家に連絡し、物置を探してもらった。数時間後、母親から送られてきた一枚の写真に、彼は息を呑んだ。そこには、祖父の遺品である同じ型の受信機と、几帳面な文字で『早川氏交信記録』と書かれたテープの束が写っていた。祖父は、千代の夫の船乗り仲間で、二人の交信を趣味で録音していたのだ。点と点が繋がり、壮大な物語の輪郭が見えた気がした。失われたと思われた言葉の星屑は、時を超え、思いがけない形で湊の元へと導かれていた。

第四章 あなたのための物語

それからの日々は、まるで夢のようだった。湊は祖父の遺したテープと千代の家で見つけたテープをすべて持ち帰り、専門家の助けも借りながら、解読作業に没頭した。古書店での仕事が終わると、彼はヘッドフォンをつけ、夜ごと星屑の海を旅した。

ト・ツー(ア)、ツー・ト・ト・ト(イ)、ツー・ト・ツー・ト(シ)、テ・ル……。

一音、また一音。無機質な信号が、意味を持つ言葉へと変わっていく。それは、気の遠くなるような、しかし聖なる作業だった。テープに吹き込まれていたのは、ありふれた日常の報告、航海の様子、そして、妻を想う朴訥で、しかし深い愛情に満ちた詩の数々だった。

『今宵の月は、君の横顔に似ている』

『次に会えたら、港の見える丘で、一番赤い花を贈ろう』

『君のいる港が、僕の帰る灯台だ』

解読が進むにつれ、湊の心は震えた。これは、たった一人のために紡がれた、壮大な愛の物語だ。祖父がなぜこれを録音していたのか、今となっては分からない。だが、この奇跡的な繋がりを、ここで終わらせてはならない。湊はそう強く思った。

数ヶ月後、すべての解読が終わった。湊は、そのすべての詩を美しい活字に組み、腕利きの製本職人に頼んで、一冊の本に仕上げた。表紙は、夜空を思わせる深い藍色の革。そして中央には、銀の箔押しでこう記した。

『星屑のテレグラム』

完成した本を手に、湊は千代の家を訪れた。彼女の記憶は、この数ヶ月でさらに薄れ、湊のことも、時々分からないことがあるようになっていた。

「千代さん」

湊は縁側に座る彼女の前に膝をつき、そっと本を手渡した。

「見つかりましたよ。あなたの、大切な本です」

千代は、何も言わずにその本を受け取った。彼女の指が、ゆっくりとタイトルをなぞる。そして、ページを一枚、また一枚と、静かにめくっていく。そこに並んだ言葉の意味を、彼女はもう理解できないのかもしれない。

しかし、最後のページに辿り着いた時だった。そこに印刷されていたのは、湊がアルバムから見つけた、若き日の夫の笑顔の写真だった。その写真を見た瞬間、千代の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。その瞳には、一瞬、確かに昔の光が宿っていた。

「ああ……あなた……。待っていたのよ、ずっと」

その言葉が、亡き夫に向けられたものなのか、それとも目の前の湊に向けられたものなのかは、分からなかった。だが、そんなことはどうでもよかった。記憶は失われても、心に刻まれた愛は、決して消えはしない。湊は、温かい何かが胸の奥から込み上げてくるのを感じた。

あの日以来、湊は『書庫の森』で働きながら、空いた時間に物語を書き始めた。誰に読ませるでもない、小さな物語だ。でもそれは、彼にとって確かな一歩だった。

人と深く関わることを避けていた青年は、もういない。彼は知ってしまったのだ。人は、誰かの記憶を紡ぎ、物語を受け渡していくことで、永遠に生き続けることができるのだと。今日も神保町の片隅で、彼はペンを走らせる。いつか誰かの心に届くかもしれない、小さな星屑のような物語を。空には、見えない電波が今も飛び交い、誰かが誰かに、想いを伝えている。その事実に、湊は静かな感動を覚えていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る