忘却の空、色彩の残響
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忘却の空、色彩の残響

第一章 色褪せる街

俺の目には、世界の本当の色が見える。

人々がその内に秘める『感動の総量』が放つ『存在の色彩』だ。燃えるような真紅の情熱、深い海の藍をした静謐、夜明けの薄紫に染まる初恋の記憶。街はかつて、それらが混じり合う光の交響曲に満ちていた。

だが、今は違う。

街を覆うのは、煤けた灰色と濁った水色ばかり。人々の色彩は日に日に薄れ、まるで洗いざらしの古着のように色褪せている。誰もが俯き、その肩には目に見えない重石がのしかかっているかのようだ。いや、それは比喩ではない。

この世界は『感情の潮汐』に支配されている。人々の『集合的感動』が高まれば、空気は密度を失い、重力は羽のように軽くなる。逆に感動が失われれば、万物は鉛のように重く、地面に縫い付けられる。近頃では、階段を一段上るだけで息が切れ、子供たちの投げるボールは力なく地面に落ちた。世界が、ゆっくりと沈み始めているのだ。

「また『忘却の嵐』が来たらしいぞ。西の交易都市が、地図から消えたそうだ」

酒場の隅で、色彩のほとんど失われた老人が、濁った酒を呷りながら呟いた。嵐が通り過ぎた場所では、建物だけでなく、人々の記憶さえも根こそぎ消え去るという。友の名を忘れ、家族の顔を忘れ、やがては自分が誰であるかすら忘れてしまう。色彩を完全に失った者は、誰の記憶にも残ることなく、この世界から『消滅』する。

俺はグラスを置いた。指先が微かに震える。このままでは、全てが無に帰す。

俺の心の片隅で、今もなお鮮やかな光を放つ物語があった。かつてこの世界が同じ危機に瀕した時、たった一人で世界を救ったという『光の守護者』の伝説。守護者が現れた時、世界中の人々が歓喜し、その『集合的感動』は星々を動かすほどの力となって、街々を宙に浮かばせたという。

その伝説の色彩だけが、この灰色に沈む世界で、俺を繋ぎとめる唯一の希望だった。

第二章 守護者の神殿

俺は、守護者の伝説が眠るという『天頂の神殿』を目指した。重力を増した空気を全身で掻き分けるように、一歩一歩、ひたすらに山道を登る。背負った荷物が、世界の悲鳴のように肩に食い込んだ。

何日も歩き続け、ようやく辿り着いた神殿は、風雨に晒され、崩れかけていた。だが、その内奥には、今も静かな力が満ちているのが分かった。祭壇の中央に、それは安置されていた。

『守護者の瞳』。

乳白色の水晶玉。しかし、その奥には虹色の光が揺らめいていた。まるで、過去にこの世界が存在した全ての感動を、その内に閉じ込めているかのように。俺は恐る恐る手を伸ばし、その冷たい球体に触れた。

瞬間、奔流が俺の意識を呑み込んだ。

人々の笑い声。空を舞う船。色彩の洪水。愛を囁き合う恋人たちの吐息は薔薇色の霧となり、英雄を讃える凱歌は黄金の光の柱となって天を突いていた。重力から解放された人々が、雲の上で踊り、歌う。世界が、たった一つの巨大な『感動』の塊だった時代の記憶。その中心には、眩いばかりの光を放つ一人の人影――光の守護者がいた。

俺は涙を流していた。これだ。これこそが、俺たちの失ってしまった輝き。この『守護者の瞳』を街へ持ち帰れば、人々は思い出すはずだ。感動するとはどういうことかを。

俺は瞳を布で丁重に包み、再び重い足取りで街への帰路についた。希望の重さが、不思議と俺の体を軽くした。

第三章 無色の足音

希望は、すぐに絶望へと姿を変えた。

俺が『守護者の瞳』を街へ持ち帰ってから、事態は悪化の一途を辿った。まるで、瞳が街に残っていた僅かな色彩すらも吸い上げるかのように、人々の色褪せる速度は加速したのだ。

そして、ついに『忘却の嵐』が俺たちの街を襲った。

それは音もなく現れた。灰色の霧が街路を舐めるように進み、それに触れた建物の輪郭が滲んで崩れていく。人々は悲鳴すら上げられない。嵐に呑まれた者は、その場で立ち尽くし、ゆっくりと自分の指先から色彩が抜け落ちていくのを、ただ呆然と見つめるだけだった。

「カイ……誰だっけ、俺の名前……」

幼馴染のリオが、俺の目の前で震えていた。彼の快活な橙色は、みるみるうちに薄汚れ、彼の輪郭が霞み始める。俺は必死に彼の手を掴んだが、その手はまるで煙を掴むようにすり抜けた。

「やめろ! 思い出すんだ、リオ!」

叫びは届かない。リオの姿は完全に透明になり、次の瞬間、彼は跡形もなく消え去った。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。周囲の人々は、何事もなかったかのように歩き続ける。彼らの記憶からも、リオは消滅したのだ。

街は地獄と化した。人々は増し続ける重力に抗えず、地面に四つん這いになり、ただ嵐が通り過ぎるのを待つだけだった。俺は、懐で冷たく輝く『守護者の瞳』を握りしめる。これが希望のはずだった。なのに、なぜ。この瞳は、世界を救うのではなかったのか。

第四章 守護者の絶望

俺は再び神殿へと走った。狂ったように。この呪われた瞳を叩き割るか、元の場所に戻せば、何かが変わるかもしれない。その一心だった。

息を切らし、崩れかけた祭壇に瞳を叩きつけようとした、その時。

瞳が、自ら強く輝きだした。俺の手の中で熱を持ち、あの時とは比較にならないほど鮮明なヴィジョンを、俺の脳裏に直接焼き付けた。

それは、『光の守護者』の記憶だった。

守護者は世界を救った。その功績は絶大で、人々は彼を神と崇めた。彼の物語は語り継がれ、歌になり、誰もがその偉大な感動を追体験した。だが、時が経つにつれ、人々は守護者の感動に依存するようになった。新たな詩を詠む代わりに守護者の詩を暗唱し、新たな恋をする代わりに守護者の恋物語に涙した。彼らは自ら感動を『創り出す』ことをやめ、過去の感動を『消費』するだけの存在になってしまったのだ。

『感動の定義』は陳腐化した。世界は停滞した。守護者は、自らがもたらした光が、皮肉にも世界から未来の光を奪っていることに気づいた。

『守護者の瞳』は、世界中の感動を吸収し続ける。しかし、その器には限界があった。吸収された強大すぎる『過去の感動』は、その内部で飽和し、変質し、『絶望の無色』へと転化した。それこそが『忘却の嵐』の正体だった。

――このままでは、世界は緩やかに死ぬ。ならば、一度、終わらせなければ。

守護者の最後の決意が、雷のように俺を貫いた。

彼は自らの伝説が、そしてこの『瞳』が、世界を破壊することを知っていた。彼はあえて、自らを未来の世界に『絶望』をもたらす触媒としたのだ。全てを破壊し、記憶を消し去り、人々をゼロに戻すために。過去の栄光という名の呪縛から、彼らを解放するために。

守護者は、救世主ではなかった。彼は、最も深遠な愛をもって世界を破壊しようとした、最後の破壊者だったのだ。

第五章 瓦礫に咲く光

真実の重みに、俺は膝から崩れ落ちた。祭壇が、神殿が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。守護者の遺志が、最後の役目を終えようとしていた。

絶望の縁で、俺はそれを見つけた。

崩れた瓦礫の隙間から、名も知らぬ一輪の野花が、健気に顔を覗かせていた。そして、その花弁からは、今まで見たこともない、淡く、しかし震えるほどに力強い『希望』の色彩が放たれていた。それは守護者がもたらした壮大な光ではない。誰のものでもない、今この瞬間に生まれた、生命そのものの輝きだった。

俺は悟った。失われたものを取り戻すのではない。この瓦礫の中から、俺たちの手で、新しい感動を見つけ出すのだ。

俺は街へ戻った。そこには、多くを失い、呆然と座り込む人々がいた。しかし、彼らは消えてはいなかった。色彩は風前の灯火だったが、まだ、そこにあった。

一人の男が、泣きじゃくる子供に、瓦礫の中から見つけた木の人形を渡していた。その瞬間、男のくすんだ色彩から、ほんの僅かに、温かい橙の光が灯った。崩れた家の前で、妻の肩を抱く夫がいた。彼の背中から、守るべきものへの決意を示す、深い藍の光が滲んだ。

俺は、懐の『守護者の瞳』を取り出した。過去の全ての栄光。全ての感動。そして、全ての絶望が詰まった、この美しい呪いを。

俺はそれを、力任せに地面へ叩きつけた。

水晶は甲高い音を立てて砕け散り、その欠片は光を失い、ただの硝子になった。過去は、完全に消え去った。

世界の重力は、まだ重い。だが、人々はゆっくりと顔を上げていた。互いの顔を見て、失われたものを嘆くのではなく、残された温もりを確かめ合うように、そっと手を取り合っていた。

俺の目には、灰色の世界に点々と灯り始めた、無数の新しい光が見えていた。

それらは、かつて守護者がもたらした伝説の輝きとは比べ物にならないほど、小さく、儚い。

だが、それは間違いなく、絶望の底から俺たち自身が生み出した、本物の『感動の色彩』だった。空はまだ、忘却の色をしていたが、俺たちはもう、俯いてはいなかった。

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