第一章 静寂のシンフォニー
僕、月島奏(つきしま かなで)の世界は、常に音で満たされている。だが、それは君たちが知る音とは少し違う。僕にとって音は、形と色を伴って知覚されるものだった。
例えば、朝の雑踏。行き交う人々の声は、無数のシャボン玉のように宙を舞う。弾むような挨拶は黄色い光の粒となり、気怠い欠伸は灰色の煙となって溶けていく。喫茶店で響く友人たちの笑い声は、オレンジ色の温かいリボンとなってテーブルの上で絡み合い、恋人たちの囁きは、淡いピンクの綿毛のように寄り添いながら漂う。
この「共感覚」とも少し違う奇妙な知覚は、物心ついた頃からの僕の世界の理(ことわり)だった。おかげで、僕は人の感情の機微に敏感だった。言葉とは裏腹の、怒りが放つ黒い棘や、隠された悲しみが滲ませる青い雫を、僕は嫌でも見てしまう。だから、人付き合いは少し苦手だった。誰もが、心に色とりどりのノイズを抱えていたからだ。
だが、そんな僕の世界に、たった一つだけ、完全な「無音」が存在した。
「奏、おはよ! 今日もいい天気だね!」
振り向くと、幼馴染の宮沢陽菜(みやざわ ひな)が、太陽みたいな笑顔で手を振っていた。彼女がそこにいるだけで、場の空気がふわりと明るくなる。彼女の声は、鈴を転がすように愛らしく、誰の耳にも心地よく響くはずだ。
けれど、僕の世界では、彼女の声は何も生まない。色も、形も、光も、影も。まるで、僕の知覚にだけぽっかりと穴が空いたかのように、彼女の口から発せられる言葉は、完全な静寂、完全な「無」として通り過ぎていく。周囲の雑音――鳥のさえずりが描く銀色の曲線や、風が奏でる緑色の吐息――は鮮やかなのに、陽菜の声だけが、真空地帯のように、僕の世界から色と形を奪い去るのだ。
「……おはよう、陽菜」
僕は、彼女の笑顔の奥にある本当の色を探ろうとして、無意識に目を凝らす。でも、何も見えない。それが、僕を長年苛み続ける、言いようのない孤独感の正体だった。世界で一番大切なはずの君の心が、僕には見えない。その事実が、まるで分厚いガラスの壁のように、僕たちの間に横たわっている気がしてならなかった。
第二章 色褪せたパレット
僕の能力が、いつから陽菜の声を捉えられなくなったのか。その記憶を辿ると、いつも小学三年生の、あの曇り空の午後に行き着く。
あの日、僕は友達と喧嘩して、むしゃくしゃした気持ちで家路を急いでいた。僕の心からは、怒りの黒い棘が無数に飛び出し、自分の周りをピリピリとしたオーラで覆っていた。横断歩道、点滅する信号。僕はそれに気づかず、飛び出した。左から猛スピードで迫るトラックのヘッドライトが、僕の視界を真っ白に染めた。
――危ない!
叫び声が聞こえた気がした。だが、その声に色も形もなかった。次の瞬間、小さな体に突き飛ばされ、僕は歩道に尻餅をつく。僕を庇って倒れたのは、陽菜だった。幸い、トラックは寸前で急停止し、陽菜も軽い打撲で済んだ。しかし、僕の脳裏には、地面に広がる彼女の血の赤と、僕を安心させようと無理に作った笑顔だけが焼き付いている。
あの日以来、陽菜の声は僕の世界から色を失った。
その事実は、僕の中に罪悪感という名の重い鉛を沈殿させた。陽菜は、僕を庇ったせいで、心の大切な何かを失ってしまったのではないか。彼女のあの太陽のような笑顔は、僕を気遣うための偽物で、その奥では、あの日の事故を、そして僕を、静かに恨んでいるのではないか。
そんな疑念が、僕の心のパレットを暗くくすんだ色で塗りつぶしていく。陽菜が僕に向ける優しさが、かえって僕を苦しめた。彼女の笑顔を見るたびに、その裏にあるかもしれない「無感情」の闇を想像して、胸が締め付けられるのだ。
「奏、最近元気ないね。何か悩み事?」
「……別に、何でもないよ」
本当のことを言えるはずがなかった。僕の世界が普通ではないこと。君の声だけが聞こえない(見えない)こと。それが、君を傷つけた僕への罰だと思っていること。そんなことを告げれば、僕たちの関係はきっと、音もなく崩れ去ってしまうだろう。
僕は図書館の片隅で、古い心理学や民俗学の書物を漁るようになった。この奇妙な能力の正体を知れば、何か解決の糸口が見つかるかもしれない。陽菜の心を、もう一度「見る」ことができるようになるかもしれない。ページをめくる乾いた音だけが、僕の焦りを映すように、青灰色の四角い形となって舞っていた。
第三章 魂の共鳴
数ヶ月が過ぎた。僕はほとんど強迫観念に駆られるように、文献を探し続けた。そしてある雨の日、郷土史の資料室の奥、埃をかぶった私家版の論文集の中に、僕はついに手がかりを見つけた。それは『感応異聞 ―失われた知覚に関する考察―』と題された、古ぼけた一編だった。
著者は、百年以上も前の無名の研究者だった。彼は、極めて稀に存在する「音を形で認識する人々」の記録をまとめていた。僕と同じだ。僕は息を飲み、震える指でページを先へと進めた。そこには、僕の常識を根底から覆す、信じがたい一文が記されていた。
『――特筆すべきは、被験者たちが例外なく報告する「特定の人物の声だけが知覚不能に陥る」という現象である。当初、これは知覚の欠損、あるいは対象への心理的拒絶と考えられていた。しかし、詳細な聞き取り調査の結果、全く逆の結論に至った。これは欠損ではない。究極の結合である』
結合……? どういうことだ。僕は混乱しながらも、貪るように読み進めた。
『我々はこれを「魂の共鳴」と呼ぶ。深く、強く結びついた二つの魂は、互いの存在そのものが不可分の一部となる。片方が発する魂の響き――即ち、感情を乗せた声――は、もはや外部の知覚器官を介さず、直接もう片方の魂の内に溶け込み、響き渡る。あたかも、一つの楽器が奏でるハーモニーのように。それゆえ、外部観測としての「形」や「色」は消失する。声が「無」に聞こえるのは、拒絶の証ではない。その声の主が、自らの魂の片割れであることの、何より雄弁な証明なのである――』
論文が、手から滑り落ちた。
嘘だ。そんなことが……。
僕は呆然と窓の外を見た。雨粒が、無数の銀の線となって世界を叩いている。頭の中で、パズルのピースが、凄まじい勢いではまっていく。
陽菜の声が「無」なのは、彼女が僕を恨んでいるからじゃない。感情を失ったからでもない。あの事故の日、僕の命を救おうとしたあの瞬間に、彼女の魂は、僕の魂と分かちがたく結びついてしまったのだ。彼女の喜びも、悲しみも、愛情も、全てが僕の魂に直接流れ込んでいるから、僕の「能力」では観測できない。僕が感じていた孤独は、勘違いだった。僕が感じていた壁は、存在しなかった。
僕は、世界で最も深い繋がりの中にいながら、その繋がりのせいで、孤独だと信じ込んでいたのだ。
「……陽菜」
声が漏れた。涙が、視界を滲ませた。僕がずっと感じていた、彼女の隣にいる時の、理由のわからない安らぎ。それこそが、彼女の魂が僕の中で奏でていた、静かな愛のメロディーだったのだ。僕はなんて愚かだったんだろう。
僕は椅子を蹴るように立ち上がり、雨の中に飛び出した。黒いアスファルトを叩く雨音は、僕の心を洗い流すように、白銀のシャワーとなって降り注いでいた。
第四章 聞こえない愛のうた
ずぶ濡れのまま、僕は陽菜の家の前に立っていた。息が切れ、心臓が激しく脈打っている。呼び鈴を押す指が、かすかに震えた。
「奏? どうしたの、こんなに濡れて……!」
ドアを開けた陽菜は、驚いた顔で僕を見つめた。彼女の声は、やはり僕の世界では何の形も描かない。だが、もうその静寂は怖くなかった。むしろ、その静寂こそが、愛おしくてたまらなかった。
「陽菜、聞いてほしい」
僕は、堰を切ったように話し始めた。僕の世界がどう見えているのか。人々の声が色とりどりの形となって飛び交うこと。そして、彼女の声だけが、ずっと「無」だったこと。そのせいで、どれほど不安で、孤独だったか。彼女に嫌われているのではないかと、怯えていたこと。
陽菜は、ただ黙って僕の話を聞いていた。その表情に驚きはあったが、拒絶の色はなかった。
「でも、違ったんだ」僕は涙声で続けた。「今日、わかったんだ。君の声が聞こえない(見えない)のは……僕たちが、離れられないくらい、強く結びついてるからなんだって。君の心は、ずっと僕の中にあったんだ」
告白し終えた僕を、陽菜は穏やかな眼差しで見つめていた。やがて彼女は小さく微笑むと、そっと僕の濡れた頬に手を伸ばした。
「……気づくの、遅いよ」
彼女の言葉は、相変わらず僕の知覚をすり抜ける。しかし、その代わりに、温かい何かが、僕の魂の中心に、じんわりと灯るのを感じた。
「奏が時々、すごく遠くを見てるみたいで、寂しそうだったから。いつか、奏が自分の力で気づいてくれるって信じてた。私は、ずっとここにいたよ。奏の中に、ずっと」
陽菜の言葉は、もはや耳で聞くものではなかった。魂で理解するものだった。僕は、もう色や形に頼る必要はないのだと悟った。本当に大切なものは、目には見えない。誰かが言い古したその言葉が、今、僕自身の真実になった。
僕は陽菜を、力強く抱きしめた。雨に濡れた服の冷たさも、彼女の体の温もりも、すべてがリアルだった。そして、目を閉じた僕の内側で、初めてはっきりと「感じた」。
それは、黄金色の、温かい光の奔流だった。陽菜の長年の愛情、心配、信頼、その全てが混ざり合った、壮大で優しいシンフォニー。僕の魂を隅々まで満たしていく、聞こえない愛のうた。
世界は相変わらず、やかましいほどの色と形に満ちている。だが、僕にとって最も美しく、最も力強い音楽は、この腕の中にある静寂だった。僕はもう孤独ではない。僕たちは、一つの魂を分け合う、サイレント・コーラスなのだから。
僕たちは、どちらからともなく、ゆっくりと顔を寄せた。これから先、僕の世界で陽菜の声が形を持つことはないだろう。それでいい。いや、それがいい。僕たちは、誰にも聞こえない歌を、二人だけで、永遠に奏でていくのだ。