エモーショナル・ゼロの福音

エモーショナル・ゼロの福音

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第一章 結晶の優等生と空っぽの転校生

私立澄明学園。ここでは、知識や体力よりも価値のあるものがある。それは「感情」だ。生徒たちは自らの感情を精製し、「感情結晶」として体外に取り出す。喜び、興奮、安らぎ。それらは色とりどりの輝きを放つ通貨となり、食事から教材、果ては娯楽に至るまで、学園生活の全てを規定していた。

僕、相田リョウは、このシステムにおける紛れもないエリートだった。

「リョウ、見せてくれよ! 今日の『喜び』の結晶!」

昼下がりのカフェテリア。友人たちの声に応え、僕はポケットからピンセットで小さな結晶をつまみ上げた。陽光を浴びて虹色にきらめく、完璧な正八面体。純度98.6%。今日の朝、数学の難問を解き明かした瞬間の、純粋な達成感から生成したものだ。

「すげえ……。これ一つでAランチのフルコースが食えるじゃないか」

羨望のため息が漏れる。僕はその結晶をカウンターに滑らせ、温かいスープと焼きたてのパンが並んだトレイを受け取った。感情のコントロールこそが、この学園での成功の鍵だ。無駄な感傷に浸らず、計画的に高純度の感情を生み出す。僕はそれを芸術の域まで高めている自負があった。僕にとって感情とは、管理し、利用し、交換するリソースに過ぎない。

その時だった。カフェテリアの入り口に、見慣れない少女が立っていた。長く黒い髪、色素の薄い瞳。彼女の制服は真新しく、転校生だとすぐに分かった。彼女はトレーに一番安価な、味気ない栄養バーだけを乗せると、窓際の席に静かに座った。誰も彼女に注目しない。感情結晶を持たない者、つまり「貧しい」者は、ここでは存在しないも同然だからだ。

僕が彼女から目を逸らそうとした、その瞬間。不意に彼女が顔を上げ、僕と視線が合った。その瞳は、まるで僕の心の内側まで見透かすように、深く、澄んでいた。そして、彼女は小さく、しかしはっきりと口を動かした。僕にだけ聞こえるような、唇の動きだった。

『あなたの“よろこび”、なんだか、からっぽの音がする』

その言葉は、音にはならなかった。だが、僕の完璧に制御された心の水面に、確かに一つの波紋を広げた。僕の隣では、友人たちが僕の結晶の純度を称賛している。しかし、僕の耳にはもう、その声は届いていなかった。空っぽの音? 僕の、この完璧な結晶が? 馬鹿な。あり得ない。だが、その日から、僕の揺るぎないはずの世界は、静かに軋み始めた。

第二章 キャンバスに描かれた感情

彼女の名前は、水瀬アオイといった。

アオイは、学園の奇妙な異物だった。彼女は感情結晶を一切使わなかった。誰かと取引することもなく、常に質素な生活を送り、授業が終わると、古びた美術準備室に一人で籠もっていた。

「空っぽの音がする」。あの日以来、その言葉が呪いのように僕の頭から離れなかった。僕は自分の感情生成ルーティンに一点の曇りもないことを証明するため、そして何より、僕自身の平静を取り戻すために、彼女を観察し始めた。

放課後の美術準備室を、僕はそっと覗き込んだ。そこには、イーゼルに向かうアオイの後ろ姿があった。油絵の具のツンとした匂いが、埃っぽい空気に混じっている。彼女は巨大なキャンバスに、一心不乱に筆を走らせていた。そこに描かれていたのは、燃えるような夕焼けの空。しかし、それはただの風景画ではなかった。赤は激情のように猛り、橙は焦がれるような切なさを帯び、紫紺の闇は底知れぬ哀しみを湛えていた。それは、絵の具で描かれた「感情」そのものだった。

「何してるの?」

気づけば、僕は声をかけていた。アオイはびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳に、驚きと、少しばかりの警戒が浮かぶ。

「見ての通り。絵を描いてる」

「なぜ結晶を使わないんだ? 君ほどの集中力なら、高品質な『没入』の結晶が作れるだろう。それを売れば、もっと良い絵の具だって買えるのに」

僕の言葉は、この学園では常識であり、善意ですらあった。しかし、アオイは静かに首を横に振った。

「私の感情は、売り物じゃないから」

「じゃあ、何なんだ。無価値なものか?」

「価値がないなんて思ってない。……ただ、分かち合うものだと思ってる」

分かち合う? 意味が分からなかった。感情とは個人のものであり、その価値は純度と希少性で決まる。それがこの世界の法則だ。

それから数週間、僕は何度も美術準備室に通った。僕たちはあまり言葉を交わさなかったが、僕はただ、彼女が絵を描く姿を眺めていた。不思議なことに、彼女の周りには、僕が普段なら見下していたはずの生徒たちが集まるようになった。感情を使い果たし、「空っぽ」になった生徒たちだ。彼らは何も言わず、ただ完成していくアオイの絵を、乾いたスポンジが水を吸うように見つめていた。その絵から滲み出る色彩の奔流が、彼らの渇いた心をわずかに潤しているように見えた。

僕は苛立ちと、今まで感じたことのない奇妙な焦燥に駆られた。僕の完璧な結晶は、誰かを潤すことなどない。ただ取引され、消費されるだけだ。アオイの言う「分かち合う」という意味が、ほんの少しだけ、分かりかけていたのかもしれない。

第三章 純度のない真実

学園最大のイベント、「感情品評会」の日がやってきた。一年で最も純粋で価値のある感情結晶を生成した生徒に、「プリズム」の称号が与えられる栄誉の日だ。僕は過去二年間、この品評会を制してきた。今年も優勝は確実だと誰もが信じていたし、僕自身も疑っていなかった。

今年のテーマは「歓喜」。僕は万全の準備を整えていた。過去の成功体験、未来への希望、自己肯定感。あらゆるポジティブな記憶を総動員し、脳内で完璧な「歓喜」の感情を練り上げる。しかし、何故だろう。いざ結晶を生成しようと精神を集中させると、脳裏に浮かぶのはアオイの姿だった。イーゼルの前で一心不乱に筆を走らせる横顔。僕にだけ見せた、はにかむような笑顔。そして、彼女の絵から溢れ出す、生々しく、混沌とした感情の色彩。

僕の心は乱れた。僕の「歓喜」は、アオイの絵の前では、あまりに薄っぺらく、作り物めいて感じられた。「空っぽの音がする」。あの言葉が、再び僕の胸を突き刺す。

その時だった。会場がにわかに騒がしくなった。誰かが叫んだ。

「水瀬さんが倒れた!」

僕は弾かれたように立ち上がった。人垣をかき分けると、そこには床に倒れ、苦しげに息をするアオイの姿があった。駆けつけた保険医が彼女の容態を見て、顔を青ざめさせている。

僕は、品評会のことなど忘れ、彼女が担ぎ込まれた医務室へと走った。そこで、僕は学園の理事長から、衝撃的な事実を聞かされることになった。

「水瀬くんは、特異体質なんだ。『感情結晶化不全』という、極めて稀な症状でね」

理事長は静かに語った。この学園のシステムは、実は生徒の安全を守るためのものでもあるのだと。人間は強すぎる感情を内に溜め込むと、精神や身体に異常をきたす。だから、定期的に結晶として排出し、バランスを取る必要がある。しかし、アオイは生まれつき、感情を結晶という安定した形にすることができなかった。

「彼女が絵を描いていたのは、趣味などではない。内に溜め込み、暴走しかねない感情を、キャンバスに叩きつけて発散させるための、唯一の生存戦略だったのだよ」

僕の頭を、金槌で殴られたような衝撃が襲った。彼女が結晶を使わなかったのは、高尚な哲学からではなかった。使えなかったのだ。彼女にとって、感情は分かち合う理想などではなく、命を脅かす奔流そのものだった。そして、彼女の周りにいた「空っぽ」の生徒たち。彼らは、アオイが生きるために必死で吐き出した感情の飛沫を、無意識に浴びて癒されていたに過ぎない。

僕が信じてきた効率、純度、価値……その全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。僕が誇ってきた完璧な結晶は、命懸けで感情と向き合う彼女の前で、あまりにも無力で、無意味なガラス玉に思えた。

第四章 名もなき光

「彼女を救う方法は、一つだけだ」

医師は言った。アオイの体内で、制御不能になった感情が嵐のように荒れ狂っている。それを鎮めるには、外部から極めて強く、安定した感情を直接注ぎ込み、中和するしかない、と。

僕は迷わなかった。医務室のベッドで青白い顔をして横たわるアオイの傍らで、僕は自分が貯め込んできた全ての感情結晶を取り出した。品評会で優勝するために用意した、最高の「歓喜」。これまで僕の地位を支えてきた、数多の「誇り」と「優越感」の結晶。友人たちが息を呑む中、僕はそれらを一つずつ、アオイの手に握らせた。僕の全財産であり、僕の人生そのものだった。

しかし、何も起こらなかった。虹色に輝く結晶たちは、彼女の冷たい肌の上で、ただの美しい石ころのように転がっているだけだった。

「だめだ……。作られた感情では、彼女の生の感情の嵐には届かない」

医師の絶望的な声が響く。終わりだ。僕が築き上げてきた全ては、彼女一人を救うことすらできないのか。

その瞬間だった。僕の胸の奥深く、これまで感じたことのない激しい何かが、熱いマグマのように突き上げてきた。それは「歓喜」ではない。アオイを失うことへの、身を裂くような「恐怖」。彼女を助けたいと願う、理屈抜きの「渇望」。どうしようもない無力感からくる「絶望」。そして、その全てを包み込むような、温かく、痛みを伴う「愛しさ」。

それは純度などかけらもない、混沌とした感情の奔流だった。結晶化など到底できない、名もつけられない、僕自身の、生の感情だった。

僕は無意識に、アオイのもう片方の手を、強く、強く握りしめた。

すると、僕の掌から、淡い、しかし確かな光が生まれた。それは虹色ではなく、ただ温かい、白い光だった。光は僕の手からアオイの体へと、ゆっくりと流れ込んでいく。結晶ではない、僕のありのままの心が、初めて彼女に届いた瞬間だった。

荒れ狂っていたアオイの呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。彼女の瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。その色素の薄い瞳が、まっすぐに僕を捉えた。

「リョウ……」

彼女が僕の名前を呼んだ。その声は、どんな高価な結晶よりも、僕の心を震わせた。

数週間後、学園のカフェテリアに僕の姿があった。僕のポケットには、もう一つの結晶も入っていない。僕は全ての感情を差し出し、文字通り「空っぽ」になっていた。学園内での地位も、友人たちの羨望も、全て失った。

でも、僕の心は不思議なほど満たされていた。

僕の向かいの席には、アオイが座っている。彼女はまだ本調子ではないが、その頬には確かな血の気が戻っていた。僕たちは、一番安い栄養バーを、半分ずつ分け合って食べていた。

「ねえ、リョウ」アオイが僕のスケッチブックを覗き込む。「あなたの絵、なんだかすごく温かい音がする」

僕は、アオイに教わりながら、絵を描き始めていた。そこには、不格好だけど、生命力に溢れた線で、笑い合う二人の姿が描かれていた。僕の感情はもう結晶にはならない。けれど、それは鉛筆の線となり、色彩となって、紙の上に確かに存在していた。

僕たちはもう、感情を売らない。ただ、こうして隣に座り、微笑みを、言葉を、そして沈黙さえも、静かに分かち合う。僕の微笑みは、もう虹色には輝かない。けれど、アオイの瞳には、それがどんな高価な結晶よりも美しく映っていることを、僕は知っていた。本当の豊かさとは、所有するものの多さではなく、分かち合える誰かがいることなのだと。僕たちの周りに、いつの間にか、「空っぽ」だったはずの生徒たちが、少しずつ集まり始めていた。

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