家鳴りの唄

家鳴りの唄

0 4592 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 共有される沈黙

水野家の週末は、いつも奇妙な儀式で締めくくられる。

リビングの中央に置かれた、黒檀の古びたオルゴール。父の、節くれだった無骨な指がゼンマイを巻くと、煤けた木箱の中から、錆びた鉄の櫛が弾くような、物悲しいメロディが零れ出す。それを合図に、僕、水野蒼(みずの あお)と、母の陽子、そして父の一徹は、オルゴールを囲むように床に座り、互いの手を握り合う。

「感情共有の儀式」。それが、僕たちが物心ついた頃から続けてきた、水野家に伝わる不可解な習わしだった。オルゴールの音色が続くわずか三分間、家族それぞれの、その週で最も強かった感情が、言葉を介さず流れ込んでくるのだ。

「さあ、蒼」

母は優しく微笑むが、僕はその湿った手のひらに、いつも微かな緊張を感じていた。僕にとってこの儀式は、苦痛でしかなかった。友人との馬鹿騒ぎの楽しさも、課題に追われる焦りも、この儀式の前では無に帰す。なぜなら、必ず最後に、父の感情がすべてを塗りつぶしてしまうからだ。

それは、まるで底なしの井戸を覗き込むような、深く、静かで、救いのない「悲しみ」だった。冷たい水が血管を逆流してくるような感覚。言葉にならない喪失感が、僕の胸を締め付ける。毎週、毎週、繰り返されるその感情に、僕はとうに辟易していた。無口で、感情の読めない父。家具職人として黙々と仕事に打ち込む背中しか知らない僕にとって、この儀式で流れ込んでくる悲しみだけが、父という人間のすべてだった。

だが、その夜はいつもと違った。

オルゴールのメロディが部屋を満たし、いつものように母の穏やかな安堵感が伝わってくる。僕自身の、単位を落としかけたことへの安堵と少しの後悔も感じる。そして、父の手から、あの冷たい悲しみが流れ込んできた。……だが、その奥に、これまで感じたことのない異質な感情が渦巻いていた。

それは、焼けるような「焦燥」と、背後から何かに追われるような、鋭い「恐怖」だった。

悲しみの静寂を突き破る、不協和音。僕は思わず目を開けた。目の前で固く目を閉じている父の顔は、いつもと同じく無表情だ。だが、僕の内に流れ込んでくる感情は、明らかに悲鳴を上げていた。父に何があったんだ? あの鉄のように動じない父が、何かに怯えている?

メロディが途切れ、儀式が終わる。繋いでいた手が離れると、嵐のような感情は嘘のように消え去った。

「……ごちそうさま」

父はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり、自分の部屋へと消えていった。残されたリビングには、オルゴールの余韻と、僕の胸に残ったざらついた感情の欠片だけが漂っていた。父の沈黙が、今夜はいつもよりずっと重く、不気味に感じられた。

第二章 届かない声

父の異変の正体を探ろうと、僕は翌日からそれとなく父の様子を窺い始めた。しかし、父の日常に変化はなかった。朝早くに工房へ向かい、油と木屑の匂いを体に纏わせて夜遅くに帰ってくる。食事中はテレビのニュースをぼんやりと眺め、僕や母の言葉に時折、短く相槌を打つだけ。あの儀式で感じた「焦燥」や「恐怖」のかけらは、微塵も感じさせなかった。

「ねえ、母さん。親父、最近何か変わったことなかった?」

夕食の片付けを手伝いながら、僕は母に尋ねた。母は、僕が儀式について話すのを珍しがって、少し目を丸くした。

「一徹さん? さあ、いつも通りだと思うけど。どうして?」

「いや……なんとなく」

本当のことを言えるはずもなかった。母はこの儀式を、「言葉にしなくても家族が繋がれる、大切な時間」だと信じている。父の負の感情の奔流に、母が気づいていないはずはない。だが彼女は、それすらも家族の絆の一部として、健気に受け止めているようだった。

「お父さんの悲しみはね、蒼が生まれる前に亡くなった、あなたのお兄ちゃんのことから来てるのよ」。

以前、僕が儀式の苦痛を漏らしたとき、母はそう教えてくれた。僕には会ったことのない兄がいた。その喪失感が、父の心に深い影を落としているのだと。僕はそれを聞いて以来、父の悲しみに対して、諦めと、わずかな同情を抱くようになった。

だが、今週感じたのは、悲しみだけではなかった。あの恐怖は何だ? 仕事のトラブルか、それとも健康上の問題か。僕は父の工房を訪ねてみた。工房には、鉋屑(かんなくず)の甘い香りと、ニス独特の刺激臭が満ちていた。父は注文された椅子の一部を、一心不乱に磨き上げていた。その横顔は真剣そのもので、むしろ職人としての喜びに満ちているようにさえ見えた。

行動と、共有される感情との間に、奇妙な亀裂が生じている。僕が知っている「父の感情」は、本当に父自身のものなのだろうか。そんな馬鹿げた考えが、頭をよぎった。

週末が近づくにつれ、僕の心は重くなっていった。次の儀式で、僕はまたあの恐怖を感じるのだろうか。それを確かめたいような、知りたくないような、矛盾した気持ちで、僕は運命の夜を待った。

第三章 百年の孤独

その週末、僕の予想は思わぬ形で裏切られた。金曜の夜、父から「急な出張で明日の夜は帰れない」と連絡が入ったのだ。これで儀式は中止になる。僕は心のどこかで安堵していた。あの感情の渦に、もう呑み込まれなくて済む。

しかし、土曜の夜、母は当たり前のようにオルゴールをリビングの中央に置いた。

「え、やるの? 親父いないのに」

「ええ。やりましょう」

母はこともなげに言う。

「お父さんがいなくても、大丈夫。この家が、お父さんの分までちゃんと覚えていてくれるから」

意味が分からなかった。「家が覚えている」? 母の言葉は、まるで謎かけのようだった。しかし、母の真剣な眼差しに逆らうことはできず、僕は釈然としないまま、母と二人でオルゴールの前に座った。

母と手を繋ぐ。ゼンマイが巻かれ、あの物悲しいメロディが流れ出す。二人だけの儀式。流れ込んでくるのは、母の穏やかな感情だけだろう。そう思った瞬間――僕は息を呑んだ。

冷たい水が、またしても僕の血管を逆流してきた。

あの、底なしの「悲しみ」。そして、それを突き破る、焼けるような「焦燥」と、鋭い「恐怖」。

父は、この家にいない。それなのに、なぜ。なぜ、僕は「父の感情」を感じているんだ?

パニックに陥る僕の隣で、母は静かに目を閉じたままだった。メロディが終わり、僕が呆然と母を見つめると、彼女はすべてを悟ったような、悲しい微笑みを浮かべていた。

「……驚いたでしょう、蒼」

母はゆっくりと口を開いた。

「私たちが共有していたのはね、厳密には、お父さんの感情じゃないの」

母が語り始めたのは、水野家に代々伝わる、この儀式とこの家の、信じがたい真実だった。

この儀式は、家族の感情を直接共有するためのものではない。それは、「この家に宿る『最初の記憶』を追体験するための儀式」だったのだ。僕たちが毎週感じていたあの深い悲しみは、百年以上も前にこの家を建てた初代当主が、若くして亡くした妻を想う悲しみだった。僕に兄がいたというのは、僕を納得させるための、母の優しい嘘だった。

「じゃあ、最近のあの焦燥と恐怖は……」

「たぶん、その初代当主が、死の間際に感じた感情なのよ」

母の声は震えていた。

「この家そのものが、もう限界なの。百年以上も、私たち家族を見守り続けて、老朽化して……その最後の悲鳴が、私たちに伝わってきてるんだわ」

僕の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

僕が長年、辟易し、反発し、時に理解しようと努めてきた「父の感情」。それはすべて、見ず知らずの、遠い昔の誰かの感情だったのだ。父は、僕と同じように、毎週その悲しみと向き合っていただけだった。いや、僕以上に長い年月、ただ黙って、その百年の孤独を受け止め続けていたのだ。僕たち家族を動揺させないように、たった一人で。

第四章 はじまりの言葉

出張から帰ってきた父の顔を、僕はまともに見ることができなかった。僕が「父の悲しみ」だと思っていたものは、幻だった。では、本当の父は、一体何を考えているのだろう。僕は父について、何も知らない。無口で、不器用で、何を考えているか分からない人。その認識は、儀式の真実を知る前と、何一つ変わっていなかった。

その夜、僕は夕食の席で、震える声で父に話しかけた。

「親父」

父が、味噌汁の椀からゆっくりと顔を上げた。僕が自分から話しかけることなど、ここ数年なかったことだ。

「……儀式のとき、親父は、本当は何を感じてるの?」

父は目を瞠り、少しの間、僕の顔をじっと見つめていた。その表情に、驚きと、戸惑いと、そしてほんのわずかな喜びのようなものが浮かんだのを、僕は見逃さなかった。

やがて父は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「……最初は、辛かったな。他人の、それも遠いご先祖様の悲しみが、毎週流れ込んでくるんだから」

その声は、僕が今まで聞いたことのない、少しだけ力の抜けた、穏やかな響きを持っていた。

「だが、いつからかな。その悲しみを感じながら、隣でお前や陽子さんの手の温かさを感じていると、不思議と乗り越えられた。悲しいのは、俺じゃない。俺はここに、お前たちと一緒にいるんだってな」

父は、ぎこちなく言葉を続けた。儀式で流れ込んでくる他人の感情の奔流の中で、父はただひたすらに、僕や母の存在を確かめていたのだという。僕が初めて自転車に乗れた日の、僕自身の誇らしげな感情。大学に合格した日の、母の涙ぐむほどの喜び。それらの温かい記憶が、父を支えていたのだ。

「お前が、大きくなっていくのを感じるのが、何よりの……まあ、喜び、だったよ」

照れくさそうにそう言って、父はまた味噌汁に口をつけた。

その週末、僕たちは、最後の儀式を行った。

オルゴールを囲み、三人で手を繋ぐ。流れ込んできたのは、やはりあの悲しみと恐怖だった。だが、もうそれは僕を苛まなかった。これは、この家が僕たちに伝えてくれる、最後の物語なのだ。やがて、焦燥と恐怖が和らいでいき、最後に、温かい光のような「感謝」の感情が、僕たち三人を包み込んだ。初代当主の魂が、ようやく安らぎを得たのかもしれない。

そして、その穏やかな光の向こう側で、僕は初めて、はっきりと感じた。

ノイズのない、純粋な、父自身の感情を。

それは、言葉にするにはあまりにも静かで、しかし、どこまでも深く、揺るぎない「愛情」だった。涙が、僕の頬を伝った。

やがて、老朽化した家は役目を終え、僕たち家族は、少し離れた新しいアパートに引っ越した。もう週末に、あの儀式を行うことはない。

それでも、僕たちの間には、以前よりもずっと多くの言葉が交わされるようになった。

新しい部屋の窓から、沈みゆく夕日を眺めながら、僕は思う。

家族とは、感情を無理に共有することではないのかもしれない。共有できない痛みや、言葉にならない想いが、それぞれにあることを知ること。そして、そのどうしようもない孤独を抱えたまま、それでも隣にいたいと願い、不器用に手を差し伸べようとすること。

僕たちの家族は、あの家鳴りの唄が終わった今、ようやく本当の意味で始まったのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る