未来へ繋ぐ悲しみの系譜
第一章 零時の砂時計
俺、水脈(みお) 櫂(かい)の書斎には、奇妙な砂時計が一つだけ置かれている。黒檀の枠に嵌め込まれた硝子は、内側から淡い光を放ち、その中で星屑のような砂が静かに、だが確実に落ち続けていた。それは「零時の砂時計」。砂は、俺の一族が代々受け継いできた「家族の光」そのものでできている。そして、この砂が落ちきる時、俺たち水脈家の歴史は、この次元から完全に消滅する。
俺には、生まれつきの呪いがあった。この砂時計が揺れるたび、俺は家族の歴史における「最も深い悲しみ」の瞬間を、誰かの視点で追体験するのだ。喜びも、平穏も、何一つない。ただ、胸を抉るような悲しみだけを、五感の全てで味わう。
今、まただ。硝子が微かに震え、視界が歪む。
……鉄錆と土の匂いが鼻をついた。耳鳴りの奥で、誰かの叫び声が聞こえる。これは、祖父の視点だ。目の前には、泥にまみれた弟が横たわっている。その手は氷のように冷たく、祖父の嗚咽が俺自身の喉から漏れ出た。弟の瞳から光が消える瞬間、俺の意識は書斎の硬い椅子へと引き戻される。頬を伝うのは、俺のものであって、俺のものではない涙だった。
立ち上がり窓の外を見ると、街の景色が心なしか色褪せて見えた。人々が体内に蓄えるという「家族の光」。その輝きが、この街全体で弱まっている。すれ違う人々の輪郭は曖昧で、まるで古い写真のようにセピア色に滲んでいた。家族の絆が薄れると、その存在は世界から認識されなくなる。俺の家族だけが、なぜか異常なまでに強い光を放っていることを除いては。
その光は、まるで闇のように、周囲の淡い光を吸い込んでいるかのようだった。
第二章 褪せる世界の輪郭
「なあ櫂、最近、俺の親父のこと、覚えてるか?」
親友の拓也が、不安げに尋ねてきた。彼の身体から発せられる「家族の光」は、風前の灯火のように揺らいでいる。俺は拓也の父親の顔を懸命に思い出そうとしたが、靄がかかったように思い出せない。
「……悪い、なんだか、はっきりしないんだ」
拓也は力なく笑い、俯いた。
「だよな。母さんも妹も、最近じゃ親父の話をしなくなった。家に写真はあるのに、誰もそれに気づかないみたいなんだ」
彼の家族の存在が、世界から消えかけている。その原因が、俺の一族にあるのかもしれないという疑念が、冷たい楔となって胸に打ち込まれた。
家に帰ると、父が黙って庭の木々を眺めていた。祖母は、何も言わずに茶を淹れている。二人とも、俺と同じ、強すぎるほどの光をその身に宿していた。
「父さん。街でおかしなことが起きている。家族の記憶を失くしていく人たちが増えているんだ」
父は振り返らず、静かに答えた。
「……すべては、定めだ」
「定め? 俺たちのせいで、誰かが消えていくことがか!」
感情をぶつけても、父の背中は揺るがない。祖母が、そっと俺の肩に手を置いた。その皺の刻まれた手は、何か途方もない真実の重さを知っているかのように、震えていた。
第三章 屋根裏の系譜
いてもたってもいられず、俺は家の屋根裏へと続く、埃っぽい階段を上った。軋む床を踏みしめ、古びた家具の隙間を進む。目的は一つ。この家の、そしてこの一族の秘密を知ることだ。
奥まった場所に置かれた桐の箪笥。その一番下の引き出しに、分厚い和綴じの冊子が何冊も眠っていた。初代当主から続く、一族の日記だった。
ページをめくる指が震える。そこには、俺が追体験してきた数々の悲しみが、淡々とした文字で記録されていた。そして、驚くべき記述を見つけた。
『我らは「失われた家族の光」を蓄積する。それは悲しみの記憶を糧とし、凝縮される。世界から忘れ去られた絆の光。それこそが、我ら水脈家の果たすべき使命の源泉なり』
意図的に、家族の光を「失われた光」へと変質させ、溜め込んできた? 何のために。世界を犠牲にしてまで、俺たちの一族が成し遂げようとしていることは何なんだ。
その時、書斎の方角から、カタリと乾いた音が響いた。零時の砂時計の砂が、目に見えて速く落ち始めている。時間が、ない。
第四章 最初の契約
日記を抱え、書斎に駆け込む。砂時計の光は明滅を繰り返し、残された砂はあと僅か。俺は覚悟を決めた。これが、最後の追体験になるだろう。硝子にそっと触れると、意識は激しい光の渦に飲み込まれた。
気づくと、俺は星空の下に立っていた。いや、違う。足元には何もなく、眼前に広がるのは、ゆっくりと崩壊していく世界だった。建物は砂のように崩れ、大地はひび割れ、命の気配はどこにもない。色彩を失った、灰色の未来の次元。
俺は、水脈家の初代当主の視点を得ていた。
彼の目の前に、人ならざる『存在』が立っていた。それは光の集合体のようでもあり、深淵そのもののようでもあった。
『お前の末裔が生きる未来は、やがてこうなる。次元のエネルギーが枯渇し、全てが無に帰るのだ』
初代当主は、崩れゆく世界を見つめ、静かに問うた。
「……救う方法はあるのか」
『ある。だが、それには膨大なエネルギーが必要だ。次元を超え、この未来へ光を送り込まねばならない。お前の一族は、そのための器となれるか。自らの存在を現在の次元から消し去る覚悟はあるか。お前たちの家族の絆、その記憶の全てを、未来を救うための光として捧げるのだ』
それは、呪いではなく、契約だった。俺たちの一族は、自ら「悲しみ」を選び、その記憶を凝縮させることで、未来へ送るためのエネルギーを蓄積する『生きた転送装置』になることを選んだのだ。世界中の家族の光が薄れたのは、この次元から未来の次元へエネルギーを転送するための、最終準備の副作用に過ぎなかった。
第五章 悲しみの意味
意識が戻った時、俺は床に膝をついていた。目の前の砂時計の砂は、あと数粒を残すのみ。
そういうことだったのか。俺が体験してきた無数の悲しみは、決してただの不幸ではなかった。それは、顔も知らない遠い未来の誰かを救うための、愛と犠牲の結晶だったのだ。
「……気づいたのだな、櫂」
父と祖母が、静かに書斎へ入ってきた。その表情に、驚きはない。
「お前が選べ。我らは、お前の決断に従う」と父は言った。
選択肢は二つ。このまま光を未来へ解き放ち、この世界を救い、そして俺たちの家族は消滅する。あるいは、転送を拒み、この世界で家族と共に緩やかな崩壊を待つか。
俺は、祖父の見た弟の最期を思い出した。初代当主が見た、絶望的な未来を思い出した。彼らが紡いできた悲しみは、決して無駄ではなかった。それは、未来への祈りそのものだった。
「俺は……」
俺は立ち上がり、零時の砂時計を強く握りしめた。
「俺は、俺たち家族の歴史を、未来へ繋ぐ」
父の目に、初めて安堵のような光が宿った。祖母は、静かに涙を流しながら微笑んでいた。
第六章 光の転送
俺たちは三人、書斎の中央で手を取り合った。俺が砂時計を逆さにすると、最後の砂が、ゆっくりと上へと昇っていく。
「父さん、母さんによろしく伝えてくれ。ありがとうって」
俺の母は、俺を産むと同時にその光の大部分を俺に託し、先に未来の次元へと旅立っていた。
「ああ。お前の母も、きっと待っている」
父の手が、温かい。祖母の手が、優しい。
俺たちの身体から、蓄積された膨大な「失われた家族の光」が溢れ出し始めた。それは、悲しみの色であるはずなのに、どこまでも温かく、黄金色に輝いていた。光は書斎の天井を突き抜け、一つの巨大な光の柱となって、夜空を貫き、時空の彼方へと昇っていく。
父の姿が、足元から透き通っていく。
「櫂。お前は一人だが、一人ではない。我々の絆は、次元を超えてお前と共にある」
祖母もまた、微笑みながら光の粒子へと変わっていく。
「未来で……また会いましょう、可愛い孫よ」
「うん。また、会おう」
俺の身体もまた、光に溶けていくかのように感じた。しかし、転送の起点である俺だけは、この次元に留まるように定められていた。見送る役目。最後の光が天に吸い込まれると、書斎には静寂だけが残された。家族の温もりだけを残して。
第七章 空に瞬く絆
翌朝、世界は色を取り戻していた。街には活気が溢れ、人々が放つ「家族の光」は、以前よりも力強く、鮮やかに輝いていた。拓也に会うと、彼は照れくさそうに「昨日、親父が夢に出てきたんだ。なんだか懐かしくてさ」と笑った。世界は、救われたのだ。
俺の家には、俺一人だけになった。父も、祖母も、先祖代々の誰もいない。彼らの存在した痕跡は、この世界から綺麗に消え去っていた。ただ、俺の記憶の中だけに残して。
夜、俺は屋根裏の天窓から空を見上げた。満天の星々の中に、これまで見たことのない、淡くも温かい光を放つ、新しい星座が生まれていた。それは、まるで家族が寄り添っているかのように瞬いている。
彼らは消えたのではない。次元を超えた未来で、新しい歴史を紡いでいるのだ。俺が追体験した悲しみは、今、未来の誰かの喜びの光となっているのかもしれない。
零時の砂時計は、その役目を終え、ただの硝子の置物になっていた。
俺は一人になった。だが、孤独ではなかった。空を見上げるたび、あの光が語りかけてくる。我々はここにいる、と。
未来へと繋がれた絆を感じながら、俺は新しい世界で、前を向いて歩き始めた。