カラーレス・コード

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第一章 色彩の食卓と無色の父

僕の家族は、少しだけ普通じゃない。僕たちはお互いの感情を、色として見ることができる。

食卓を囲む風景は、さながら印象派の絵画のようだ。母さんの周りには、手料理の湯気と共に、ひだまりのような温かいオレンジ色が揺らめいている。それは「愛情」と「満足」のグラデーション。向かいに座る高校生の妹、莉奈は、スマホの画面を睨みつけながら、不機嫌そうなライラック色を放っている。友人との些細なトラブルだろう。言葉にしなくても、その苛立ちと戸惑いは手に取るように分かった。

「涼介、ちゃんと食べなさい。またぼんやりして」

母さんのオレンジ色が、心配の色合いを帯びて少しだけ濃くなる。僕は慌てて箸を動かした。

「ごめん、考えてた」

嘘だ。考えてなどいない。ただ、この絶え間なく流れ込んでくる色彩の情報に、少しだけうんざりしていただけだ。僕たち家族の間には、嘘や隠し事という概念が希薄だ。感情がすべてを暴露してしまうのだから。それは時に安らぎであり、同時に息苦しい檻でもあった。

僕が視線を食卓の端、上座に座る父に移した時、その異変に気がついた。

父、陽一は、昔から変わらない。どっしりと構え、口数は少ない。彼の周りにはいつも、静かな森を思わせる深い緑色が漂っていた。それは「安定」や「威厳」、そして「不動」を意味する色。父がいるだけで、この家の均衡は保たれる。僕たちはその緑色に、無意識のうちに守られてきた。

だが、今朝の父は違った。

彼の纏う深い緑色は、まるで薄いガラス絵のようだった。そして、その向こう側で、今まで見たこともない色が、陽炎のように揺らめいていたのだ。

それは、「色」ではなかった。「無色」だった。

透明でも白でもない。光を吸い込み、何も反射しない、空虚な空間そのもの。色彩豊かなこの世界で、そこだけがぽっかりと穴が空いたような、絶対的な虚無。背筋に冷たいものが走った。

「父さん、何かあった?」

僕の声に、父は新聞から顔を上げた。その表情はいつもと変わらない。

「いや、何もないが」

父の言葉と同時に、彼の周りの緑色がぐっと濃さを増した。まるで、見透かされまいと壁を厚くするかのように。だが、僕の目にははっきりと見えた。厚くなった緑の壁の奥で、無色の空洞が不気味に広がっていくのが。

母さんも莉奈も、その異変には気づいていないようだった。彼女たちの目には、いつもの「威厳ある緑色の父」が映っているのだろう。

なぜ、僕だけに見えるんだ?

この日から、僕の世界のパレットは、静かに、そして決定的に狂い始めた。食卓の温かい色彩の中で、父の放つ「無色」だけが、僕の心を捉えて離さなかった。それは、僕たちの家族という絵画に空いた、決して埋めることのできない穴のように思えた。

第二章 揺らぐパレットと見えない壁

父の「無色」を意識し始めてから、僕の視界は不安定になった。今まで当たり前のように分類できていた感情の色が、滲んだり、混ざり合って見えたりするようになったのだ。母の優しいオレンジ色に時折、憂いを帯びた青が混じる。莉奈の怒りの赤は、その裏側に寂しさを示す灰色を透かして見せた。

それはまるで、世界の解像度が粗くなったかのようだった。僕の能力が衰えているのか、それとも、今まで見えていなかった感情の深層部まで見えるようになってしまったのか。どちらにせよ、それは僕を混乱させ、疲弊させた。

父を観察することが、僕の日課になった。書斎で仕事をする父、庭の木々を眺める父、黙ってテレビのニュースを見る父。その行動は以前と何ら変わらない。しかし、彼の纏う緑色は日増しに薄くなり、その奥の無色の領域は、まるで領土を広げるように拡大していた。父は、その存在自体が希薄になっていくようだった。

「ねえ、お母さん。父さん、最近変じゃない?」

ある日の午後、台所で夕食の準備をする母に、僕は思い切って尋ねてみた。母はきゅうりを刻む手を止め、不思議そうな顔で僕を見た。

「そう?いつも通りだと思うけど。陽一さんは昔からあんな感じよ」

母の周りには、僕への愛情を示すオレンジ色と、僕の問いに対する純粋な「疑問」を示す柔らかな黄色が浮かんでいる。彼女には本当に、父の変化が見えていないのだ。

僕と家族の間に、薄くて透明な壁ができたように感じた。同じものを見ているはずなのに、僕だけが違う景色を見ている。この孤独感は、感情の色が共有できるという、この家族の前提を根底から覆すものだった。

父との会話は、ますますぎこちなくなった。

「父さん、仕事、大変なの?」

ある夜、書斎のドアをノックして尋ねた。父は分厚い本から顔を上げ、僕を静かに見た。彼の緑色は、もはや風前の灯火だった。無色の虚無が、彼の全身を覆い尽くさんばかりに揺らめいている。

「……まあな。お前には関係ないことだ」

突き放すような言葉だった。だが、そこに怒りや苛立ちの赤色はなかった。ただ、空虚な無色が広がるだけ。感情がないのではなく、感情が存在すべき場所が、抉り取られているような感覚。

父は僕を避けている。僕が彼の「無色」に気づいていることを、察しているのかもしれない。

僕の能力は、何のためにあるのだろう。家族の心を知るためのものだと思っていた。だが今、僕だけが知ってしまった父の秘密は、僕たちを繋ぐどころか、むしろ引き離そうとしている。見えすぎることの残酷さを、僕は初めて痛感していた。

第三章 アルバムの中の不在証明

その夜、僕は父の書斎に忍び込んだ。父が珍しく会社の飲み会で留守にしていたからだ。何か手がかりはないか。本棚に並ぶ難解な専門書を眺めていると、一番下の段に、埃をかぶった一冊の分厚いアルバムがあることに気がついた。

そっと手に取り、ページをめくる。そこには、僕の知らない家族の歴史があった。若き日の父と母。そして、僕が生まれる前の、幼い莉奈の写真。見慣れた光景の中に、しかし、決定的に異質なものが紛れ込んでいた。

一枚の写真に、僕は釘付けになった。

日当たりの良い庭で、母に抱かれている、僕と瓜二つの少年。屈託なく笑うその顔は、鏡に映る自分を見ているかのようだった。しかし、写真の裏には『拓海、五歳の誕生日』と、母の丸い文字で記されていた。日付は、僕が生まれるちょうど五年前。

拓海。僕の知らない名前。知らない兄。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。アルバムのページをさらにめくると、拓海少年の写真は十歳の誕生日を最後に、ぷっつりと途絶えていた。そして、最後の写真と次のページの間に、一枚の古い診断書が挟まっていた。

『診断名:失情症(アレキシサイミア)』

自らの感情を自覚、認知、表現することが著しく困難になる症状――。その文字を読んだ瞬間、背後に人の気配を感じた。振り返ると、母が静かに立っていた。その顔からは全ての感情の色が消え、能面のように無表情だった。

「……見てしまったのね」

母の声は、凪いだ水面のように静かだった。彼女は僕の隣に座り、アルバムの上の拓海の笑顔を、愛おしそうに指でなぞった。

「あなたには、お兄さんがいたの。拓海っていうの」

母が語り始めた真実は、僕の想像を遥かに超えるものだった。

感情の色が見える能力は、母方の家系から受け継がれるものだったらしい。父は元々、その能力を持っていなかった。長男として生まれた拓海は、僕以上にその能力が強く、他人の感情の色をあまりにも鮮明に受け止めすぎた。人の喜びも、悲しみも、怒りも、全て自分のことのように感じてしまう。その繊細すぎる心は、次第に世界の色彩の洪水に耐えきれなくなり、心を病んでいった。そして、十歳の誕生日を迎えた直後、自ら命を絶った。

「陽一さんは……お父さんはね、あの子を失って、壊れてしまったの」

母の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女の周りに、深い、深い悲しみの藍色が滲み出す。

「愛する息子を救えなかった絶望が、あの日、あの人の心を空っぽにしてしまった。感情っていうものが、根こそぎ消えてしまったのよ。それが、失情症」

僕の頭の中で、全てのピースがはまった。

父の「無色」は、病だったのだ。心を失った証だったのだ。

では、僕たちが今まで見ていた父の「深い緑」は、一体何だったのか。

「あの日から、お父さんは必死だった。残された私たちを不安にさせないために、『父親』を演じ続けてきたの。『威厳』と『安定』の緑色を、自分の意志の力だけで作り出して、心に纏ってきた。それは、私たち家族を守るための、三十年近く続く、たった一人の戦いだったのよ」

擬態色。父は、空っぽの心の上に、家族への愛情だけで作り上げた偽りの色を塗り重ねていたのだ。

「じゃあ、どうして僕にだけ、無色が見えるように……?」

「あなたが、拓海と同じ年齢を越え、感受性の強い大人になったからよ」母は僕の目をまっすぐに見つめた。「あなたは、お父さんが作り出した擬態色の奥にある、本当の心の形を見通せるようになったの。それは、あなたの能力が、お兄さんと同じくらい強く、優しくなった証拠なのよ」

息ができなかった。今まで息苦しいとさえ感じていたこの能力は、呪いなどではなかった。それは、父が三十年間、たった一人で背負い続けてきた途方もない悲しみと、沈黙の愛情に、触れるための力だったのだ。

アルバムの中の兄が、僕に微笑みかけているように見えた。

第四章 心が灯す、始まりの色

書斎に戻ると、父は一人、窓の外の闇を見つめて静かに座っていた。帰ってきていたようだ。彼の周りには、やはりあの「無色」のオーラが、静かな絶望のように漂っている。もはや、擬態色の緑さえ浮かんでいなかった。僕が真実を知ったことを、察しているのかもしれない。

今まで感じていた父への畏怖や苛立ちは、跡形もなく消え失せていた。そこにあるのは、途方もない時間を一人で戦い抜いてきた一人の人間への、深い、深い共感だった。兄・拓海が苦しんだように、僕もまた、人の感情に敏感で、時にそれに押しつぶされそうになる。だが、今は違った。この力は、誰かを傷つけるものでも、自分を苦しめるものでもない。

僕は初めて、自分の感情の色を、意識的にコントロールした。

恐怖でも、憐れみでもない。ただ静かで、全てを受け入れる、澄み切った朝の空のような「水色の光」。それをそっと、自分の内側から放った。

「父さん」

僕の声に、父の肩が微かに揺れた。

「……兄さんのこと、母さんから聞いたよ。ずっと、一人で……辛かったね」

言葉と共に、僕の水色の光が、父の無色のオーラにそっと触れた。それは嵐の海に一滴の清水を落とすような、ささやかな行為だったかもしれない。

だが、奇跡は起きた。

何十年も凍りついていた父の「無色」の、その中心に。ほんの一瞬、小さな、本当に小さな「薄紫色の光」が、蛍のように灯っては、消えた。

それは、言葉になる前の感情の欠片。拓海を追憶する悲しみ。僕への戸惑い。そして、ほんの少しの安堵。それらが混じり合った、名付けようのない、始まりの色だった。

父は何も言わず、僕に背を向けたままだった。

しかし、僕には分かった。僕たちは今、言葉や色を超えた場所で、初めて本当の意味で繋がったのだ。父の空っぽの心に、僕の心が寄り添うことができたのだ。

翌朝の食卓の風景は、昨日までと何も変わらないように見えた。母の温かいオレンジ色、莉奈の移ろいやすいライラック色。そして、上座に座る父の周りには、再びあの深い緑色が戻っていた。

しかし、僕にはもう、その緑が以前と同じには見えなかった。それは、悲しいほどに美しい、究極の愛情の色に見えた。そして、その擬態色の奥で、昨日灯ったばかりの小さな薄紫の光が、消えずに瞬いているのが、確かに見えた。

僕は、この能力と共に生きていくことを決めた。見えすぎるからこそ、見えないものを慈しむために。人の心の奥底にある、言葉にならない小さな光を見つけ出すために。

僕たちの家族の物語は、まだ始まったばかりだ。無色の奥に希望の色を探す、静かで、長い旅が。

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