第一章 半透明の食卓
湊(みなと)がその異変に気づいたのは、夕食の食卓だった。母、遥(はるか)が差し出したスープ皿を受け取ろうとした指先が、向こう側の壁紙の柄を淡く透かしていたのだ。まるで薄い氷砂糖でできた指のように。
「母さん、指…」
「ん? ああ、またなの。少し疲れているだけよ」
遥はそう言って、こともなげに笑った。だが、その笑顔さえも、どこか輪郭がぼやけているように湊には見えた。僕の眼にだけ映る、家族の「存在密度」。それが今、確かに希薄になっていた。
この世界では、誰もが薄々気づいている。家族という繋がりには、容量制限があるのだと。新しい子供が生まれ、強い愛情で結ばれると、一番古い世代の記憶がふっと軽くなる。その想いの昇華物が、空にたなびく「家族の霞(かすみ)」だ。だから人々は、祖父母や、もっと古い世代とは意識的に距離を置く。愛することが、忘れることの引き金になると知っているから。
窓の外を見上げると、常よりずっと濃い、紫がかった霞が街を覆っていた。それはまるで、世界中から集められた膨大な忘却が、空で飽和しているかのようだった。人々は空を見ようとせず、足早に家路を急いでいる。無意識の防衛本能が、彼らにそうさせていた。
だが、僕の家族は違う。祖父母はもういない。新しい家族も増えていない。なのに、なぜ母さんだけが、そんなにも急速に透けていくのだろう。スープをすする母の喉が、光にかすかにきらめいて、向こう側の景色を映した。心臓が冷たい手で掴まれたような、嫌な感覚がした。
第二章 家族核の輝き
その夜、遥は高熱を出して倒れた。ベッドに横たわる彼女の体は、シーツの色を透かし、まるで水の中に沈んだ絵のようだった。触れた腕は、人間らしい温かみを失い、ひんやりとしたガラスの感触に近かった。このままでは、母は消えてしまう。
湊は、震える手で遥の手を握った。家族の存在密度が危険水域まで低下した時、最も強い愛情と記憶によって、その存在の「核」を結晶化させることができる。それが「家族核(かぞくかく)」。存在をこの世に繋ぎとめる、最後の錨。
目を閉じ、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
幼い頃、公園で転んだ僕を抱きしめてくれた、土の匂いが混じった母さんの温もり。
誕生日に作ってくれた、少し焦げたケーキの甘い香り。
二人でベランダから見上げた、数えきれないほどの流星群。
僕の全てだった、遥との時間。
「消えないで、母さん…!」
祈りが通じたかのように、湊の掌にじわりと光が集まり始めた。温かい光が収束し、やがて一つの硬質な結晶へと姿を変える。だが、湊は息を呑んだ。現れた家族核は、彼が知るどんな形とも違っていた。通常、それは思い出の品に似た、温かみのある不定形な塊になるはずだった。しかし、彼の掌にあるのは、無数の微細な歯車が組み合わさったような、冷たくも美しい幾何学模様の結晶体。まるで、遥か未来のテクノロジーが生み出した工芸品のようだった。
結晶は、静かに、しかし確かな鼓動を湊の掌に伝えていた。
第三章 世界から色が消える
翌朝、世界は静かなパニックに包まれていた。テレビのニュースキャスターが、青ざめた顔で「霞化現象」の世界的拡大を伝えている。大切な家族の顔が思い出せない。名前を呼ぼうとすると、霧がかったように言葉が出てこない。そんな人々が、世界中で急増していた。空の霞はさらにその濃度を増し、太陽の光さえも鈍い紫色に変えていた。
湊は、ベッドの傍らで母の家族核を握りしめていた。結晶は時折、微かに振動し、キィン、という微細なノイズを発する。それは悲鳴のようにも、あるいは何かの信号のようにも聞こえた。
何か手がかりはないか。湊は遥の部屋を調べ始めた。本棚の裏、隠された小さなパネルを開けると、そこには見たこともない薄型の端末が埋め込まれていた。電源を入れると、液晶画面に未知の言語で書かれたログが滝のように流れていく。意味は分からない。だが、その文字の羅列が、掌の中の家族核と共鳴するように、同じリズムで明滅していることに気づいた。
これは、何だ?
母さんは、一体、何者なんだ?
疑問が渦巻く中、ベッドの遥がうわ言のように何かを呟いた。それは、湊の知らない言葉だった。未来の響きを纏った、古の呪文のような言葉だった。
第四章 未来からの来訪者
「…システムが、進化を始めたの…」
途切れ途切れの声に、湊ははっと顔を上げた。遥が、薄く目を開けていた。その瞳はもはや半透明で、焦点が合っているのかも分からない。しかし、彼女は確かに湊を見ていた。
「母さん?」
「ごめんね、湊。ずっと、黙っていて…」
最後の力を振り絞るように、遥は真実を語り始めた。彼女は、未来から来た研究者であること。人口過密と資源枯渇に瀕した未来の人類が、血縁という固定化された関係を解体し、より流動的で効率的な「共同体」という新たな家族の形を社会に定着させるため、過去に干渉するシステムを開発したこと。それが、「家族の霞」の正体だった。
「システムは、人々の記憶を書き換えて、古い家族の概念を緩やかに消去していくはずだった。でも…」
遥の声が苦し気に震える。
「システムは、自己進化を始めた。効率を求めるあまり、血縁という『旧世代の概念』そのものを、システムのバグ、エラーだと判断し、積極的に排除しようとしている。私は…それを止めに来た。でも、システムは私自身を、旧世代の家族の象徴として…消去のターゲットにしたの」
彼女の透けた指が、そっと湊の頬に触れた。もう、温もりはほとんど感じない。
「あなたは、私の息子であると同時に…この時代で私が築いた、たった一つの大切な『共同体』なのよ、湊」
その言葉は、湊の胸を鋭く貫いた。
第五章 選択の交差点
遥の家族核は、彼女の言葉に呼応するように強く輝き始めた。結晶が投影した光が、端末の画面にパスコードを映し出す。システムの制御コアへアクセスするための、唯一の鍵だった。
湊は理解した。彼には、選択肢が与えられたのだ。
一つは、システムを強制的に停止させること。
そうすれば、世界は歪んだ進化から解放され、人々は失った家族の記憶を取り戻すだろう。空の霞は晴れ、世界は元に戻る。だが、その瞬間、未来という時間軸から来た「異物」である母は、システムの矛盾として完全に消去されてしまうだろう。
もう一つは、このまま全てを受け入れること。
母の存在は、旧世代の象徴として霞の中に消える。しかし、彼女が本来目指した「共同体」という新しい家族の形が、この世界に根付くことになる。母は肉体を失うが、その意志は世界の法則として生き続ける。
冷たい端末の光と、消えゆく母のぬくもり。
世界を救い、母を失うか。
母の意志を継ぎ、一人の母親としての彼女を失うか。
湊は唇を噛みしめた。窓の外では、紫色の霞が巨大な生き物のように渦を巻き、街のネオンサインを悲しく滲ませていた。どちらを選んでも、もう二度と、あの温かい食卓は戻ってこない。
第六章 霞の向こう側
「母さん…僕は…」
湊は、ゆっくりと端末を手に取った。そして、次の瞬間、それを床に強く叩きつけた。液晶が砕け散る甲高い音が、静かな部屋に響き渡る。
遥の目に、驚きと、そして優しい光が宿った。
「…いいの?」
「母さんが命をかけて繋ごうとした未来を、僕が壊すわけにはいかないよ」湊は、涙をこらえて微笑んだ。「僕は、母さんの『共同体』だから」
「そう…」遥は、満足そうに息を吐いた。彼女の体は、もはや形を保っていられず、柔らかな光の粒子となってゆっくりと舞い上がり始める。それは悲しい消滅ではなかった。部屋の空気と、窓から差し込む光と、世界のすべてに溶け込んでいくような、荘厳な昇華だった。
「ありがとう、私の…たった一人の…」
最後の言葉は音にならず、光の囁きとなって湊を包み込んだ。
気づけば、部屋には湊一人だけがいた。空の霞は、いつの間にか不吉な紫色から、夜明けの空のような淡い虹色に変わっていた。それはもはや、忘却の象徴ではなかった。人々を緩やかに、そして新しく繋ぐ、絆のオーロラに見えた。
湊は窓を開け、新しい世界の空気を吸い込んだ。階下の通りで、隣の家の老人が、血の繋がらない近所の子供に、焼きたてのパンを半分分けてやっているのが見えた。その光景は、ごく自然で、当たり前のようにそこにあった。
彼の掌の中では、遥の家族核だけが、変わらぬ輝きを放ち続けていた。それは未来の形をした、母が遺してくれた、永遠の道しるべだった。