第一章 空白のレクイエム
その知らせは、初夏の気怠い午後の空気を、ガラスのように砕いた。母、柏木佳乃(かしわぎ よしの)が、眠るように息を引き取った、と。享年五十八。あまりにも唐突で、静かな幕引きだった。
俺、柏木湊(かしわぎ みなと)は、通夜と告別式をどこか他人事のようにこなしていた。涙は出なかった。悲しくないわけではない。ただ、母との間には、生前どうしても埋められなかった、些細で、しかし根深い溝があった。大学進学で家を出て以来、俺は母の過干渉とも思える愛情を疎んじ、素直な言葉一つ返すことができなかった。最後の電話でさえ、「忙しいから」と一方的に切ってしまったことを、今さらながら鈍い痛みと共に思い出していた。
俺たちの世界では、人が死ぬと、その魂は一冊の「思い出の本」になる。装丁や厚さはその人の人生によって異なり、中には生前の記憶、感情、見てきた風景のすべてが、インクの代わりに光で綴られている。遺された者は、その本を「追憶管理局」で受け取り、ページをめくることで故人と再会し、その生涯を追体験するのだ。
父と妹の沙織と共に訪れた管理局は、静謐な図書館のような場所だった。高い天井、壁一面に並ぶ無数の本棚。空気には古紙と、微かなラベンダーの香りが混じっている。受付で渡された母の本は、想像していたよりもずっと立派だった。深い藍色の革で装丁され、表紙には金糸で控えめに睡蓮の刺繍が施されている。ずっしりとした重みが、母の生きた五十八年という時間の密度を物語っているようだった。
「佳乃らしい、綺麗な本だな」
父が掠れた声で言った。妹は黙って頷き、その瞳はすでに涙で潤んでいる。俺も、この本を読めば、母の本当の気持ちがわかるかもしれない、あの時言えなかった「ごめん」と「ありがとう」を、心の中で伝えられるかもしれない、と微かな希望を抱いていた。
自宅のリビングに戻り、三人でテーブルを囲む。父が震える手で、厳かに本の最初のページを開いた。
その瞬間、リビングの空気が凍りついた。
ページは、真っ白だった。
慌てて次のページをめくる。白。その次も、白。数百ページはあろうかという分厚い本の中身は、どこまでいっても、インクの一滴も、光の一筋すら落ちていない、完全な純白だったのだ。
「……なんだ、これは」
父の呟きは、呆然とした響きを帯びていた。沙織は信じられないといったように、何度もページを乱暴にめくったが、結果は同じだった。まるで製本されたばかりの、まだ何も書かれていないノートのようだった。
母の人生は、空白だった?
あの、いつも穏やかに笑い、食卓に温かい料理を並べ、俺たちのことを誰よりも気にかけていた母の五十八年間は、記録するに値しない、空っぽの時間だったとでもいうのか。
俺の胸に込み上げてきたのは、悲しみや後悔ではなかった。それは、母の人生そのものを侮辱されたかのような、激しい怒りと、そして得体の知れない巨大な謎に対する、深い困惑だった。なぜ、母の本だけが白紙なんだ?
第二章 沈黙の理由
母の人生が白紙であるはずがない。その確信だけを頼りに、俺は狂ったように母の過去を漁り始めた。まるで、失われた物語の断片を拾い集める探偵のように。実家の母の部屋は、彼女の不在を告げるように静まり返っていた。窓辺には、彼女が世話をしていたゼラニウムが、健気に赤い花を咲かせている。その甘い香りが、かえって胸を締め付けた。
遺品を整理するという名目で、俺は母の持ち物を一つひとつ検分していった。古いアルバムには、若い頃の溌剌とした母がいた。友人たちと笑い合い、父と恥ずかしそうに寄り添い、生まれたばかりの俺たちを慈しむように抱いている。写真の中の彼女は、間違いなく豊かな時間を生きていた。日記帳を見つけた時は、これで謎が解けるかもしれないと期待に胸が躍った。しかし、そこに記されていたのは、日々の天気や、夕食の献立、俺や沙織の些細な成長の記録といった、あまりにも平凡な日常の羅列だけだった。どこにも、人生が白紙になるような異常の兆候は見当たらない。
父や沙織に聞いても、母が何か特別な秘密を抱えていた様子はない、と口を揃える。母は、どこにでもいる優しい母親であり、良き妻だった。それ以上でも、それ以下でもない。
途方に暮れた俺は、母が生前、週に一度は必ず足を運んでいたという、街外れの古い喫茶店「月光」を訪ねてみることにした。分厚い木の扉を開けると、コーヒー豆の香ばしい匂いと、低いボリュームで流れるジャズが俺を迎えた。白髪のマスターは、俺の顔を見るなり「湊くんかい。お母さんにそっくりだ」と目を細めた。
マスターに事情を話すと、彼は少し考え込むように顎に手をやり、やがて静かに語り始めた。
「お母さんはね、いつもあの窓際の席に座って、誰かの話を静かに聞いていたよ」
「誰かの話?」
「ああ。特に、何か深い悩みを抱えているような人のね。職場の人間関係に疲れたサラリーマン、恋に破れた若い女性、家族との関係に悩む主婦……。お母さんは、ただひたすら、うん、うんと頷きながら、彼らの言葉に耳を傾けていた。何かアドバイスをするでもなく、ただ、そこにいる。すると不思議なことにね、みんな帰る頃には、憑き物が落ちたように、すっきりした顔になっているんだ」
マスターの話は、俺の知らない母の一面を垣間見せた。だが、それが白紙の本とどう繋がるのか、見当もつかなかった。ただ、人の話を聞くだけで、人生の記録が消えるなどということがあるだろうか。
その夜、実家に戻った俺は、もう一度母の机の引き出しを調べていた。その奥の奥に、小さな桐の箱が隠されているのを見つけた。そっと蓋を開けると、中には一本の万年筆が、ビロードの布に大切に包まれて横たわっていた。銀色の軸に、精緻な唐草模様が彫られた、美しい品だった。見覚えがない。母がこんな高価そうな万年筆を持っていたなんて。俺は、その冷たい感触を確かめるように、そっとそれを握りしめた。その瞬間、なぜか胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。
第三章 ページに溶けた涙
その万年筆には、何かがある。直感がそう告げていた。俺は、父に内緒でその万年筆を持ち出し、旧知の伝手で、特殊な物品を鑑定する専門家のもとを訪ねた。老齢の鑑定士は、ルーペを片手に万年筆を丹念に調べ、やがて深く息を吐いた。
「これは……『記憶喰らいのペン』だ」
「記憶喰らい?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「古くから存在する、極めて稀な道具だ。このペンのペン先から出る特殊なインクは、文字として紙に記された瞬間、透明になると同時に、書き手の特定の感情――特に、悲しみや苦しみといった負の記憶を、紙の繊維の奥深くに吸収し、封じ込める力を持っている」
鑑定士の言葉が、脳内で稲妻のように閃いた。喫茶店のマスターの話。誰かの悩みを聞いていた母。そして、白紙の本。バラバラだったピースが、恐ろしい形で一つに繋がっていく。
「まさか……母さんは」
「おそらく、お母様は、このペンを使って、悩める人々の話を聞きながら、彼らの苦しみを、ご自身の『思い出の本』となるべきページに書き留めていたのだろう。他人の悲しみを、その身に引き受けるように」
「自分の本に?そんなことをしたら、母さん自身の記憶は……」
「……上書きされ、消えていく。他人の悲しみを受け入れれば受け入れるほど、自身の人生の記録は失われる。すべてを他者に捧げた時、その本は完全な白紙になる」
全身の血が逆流するような衝撃だった。
平凡だと思っていた母の人生。その水面下では、壮絶なまでの自己犠牲が行われていたのだ。母は、俺たちの知らないところで、他人の痛みを一身に背負い、その代償として、自らの人生の記録を一枚、また一枚と消し去っていた。
俺たちが何気なく過ごしていた日常の裏で、母はどれだけの涙を、どれだけの絶望を、その細いペンに込めて、白紙のページに封じ込めてきたのだろう。俺が母の愛情を疎んじ、「忙しい」と電話を切った、あの時でさえも、母は誰かの悲しみに寄り添っていたのかもしれない。
俺の知っている母の笑顔。食卓を彩る温かい料理。季節ごとに変わる庭の花々。それらすべてが、計り知れないほどの犠牲の上に成り立っていたのだとしたら?俺は母の何を見てきたのだろう。彼女の本当の苦しみに、一度でも気づこうとしたことがあっただろうか。
込み上げてきたのは、後悔という言葉では到底足りない、身を切られるような痛みだった。俺は、母の人生を白紙だなどと、一瞬でも疑った自分を激しく呪った。あの白紙のページは、空虚の証などではなかった。それは、母がその身を賭して救った、無数の魂の重みそのものだったのだ。
第四章 あなたが遺した言葉
実家に戻った俺は、再びあの藍色の本を手に取った。以前は冷たく空虚に感じられたページが、今はまるで違うものに見えた。指先でそっと純白の紙を撫でる。何も書かれていないはずのその表面から、確かな温もりが伝わってくるようだった。それは、母に悩みを打ち明け、救われた人々の安堵のため息か。あるいは、そのすべてを受け止めた、母の深く、静かな愛情の温度か。
この白紙のページ一枚一枚に、名も知らぬ誰かの涙が染み込んでいる。母自身の人生の記憶と引き換えに。それは、世界で最も雄弁な沈黙であり、最も豊かな空白だった。俺は、母の生き方を、ようやく理解できた気がした。それは単なる自己犠牲ではない。母は、誰かの痛みに寄り添うこと、誰かの心を軽くすることそのものに、自分の人生の意味を見出していたのだ。それが、母・柏木佳乃という人間の、愛の形だったのだ。
俺は、母の形見となった「記憶喰らいのペン」を握りしめた。そして、白紙の本の、一番最後のページを開く。キャップを外し、冷たいペン先を、そっと紙の上に置いた。
一文字、一文字、祈りを込めるように、言葉を綴る。
『母さん、ありがとう。あなたの人生は、誰よりも豊かだった』
俺の目に溜まっていた熱い雫が、頬を伝って、本のページにぽたりと落ちた。インクは、鑑定士の言った通り、紙に染み込むと同時にすうっと透明に消えていく。まるで、最初から何も書かれていなかったかのように。
けれど、俺には分かった。その言葉は、確かにそこに刻まれた。俺の心からの感謝と、母の人生への最大限の敬意は、この本の最後のページに、母が救った幾多の魂と共に、永遠に封じ込められたのだ。
俺は静かに本を閉じた。窓の外では、いつの間にか夕暮れが始まっていた。世界は昨日までと何も変わらないように見える。だが、俺の中の世界は、もう決して元には戻らない。
母が遺してくれたのは、白紙の本と、一本の不思議な万年筆。そして、沈黙の中にこそ、最も深い愛が宿るという、静かな真実だった。いつか俺も、このペンの使い方を覚える日が来るのかもしれない。今はまだ、その重みに耐えられる自信はない。けれど、これからは誰かの痛みに、ほんの少しでも寄り添える人間になりたい。母がそうであったように。
俺は、母のゼラニウムが咲く窓辺に立ち、静かに夕焼けを眺めていた。その赤色は、まるで母が救った人々の心に灯った、温かい光のように見えた。