不揃いな光の在り処

不揃いな光の在り処

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第一章 硝子の咳

「……あと、どれくらい保ちますか」

男の指先が小刻みに震えている。

ワイシャツの袖口は黄ばみ、爪の間には黒い油汚れがこびりついたままだ。

テーブルを挟んで向かい合う妻は、出された茶に口もつけず、窓の外の室外機を睨み続けている。

二人の間には、直径一メートルほどの『塊』が浮いていた。

かつては桜色に透き通っていたであろうそれは、いまやドブ川の底から掬い上げたような泥色に変色している。

ミシッ、ピキキ。

硝子がひび割れる音が、静まり返った部屋に響く。

塊の中央から、腐臭に似た冷気が漏れ出していた。

「手を」

私が短く促すと、男が弾かれたように顔を上げた。

私は右手をかざす。

指の腹がジリジリと焼けるように熱くなる。

視界がノイズ混じりの灰色に染まり、修復すべき亀裂だけが、青白い血管のように浮かび上がった。

「繋げ」

念じ、虚空の亀裂を指でなぞる。

泥色の塊が脈打ち、私の指先に食らいついた。

ズズ、と重い何かが体内から吸い出される感覚。

男の肩が強張り、妻が小さく喘ぐ。

数秒の後、泥色は薄まり、頼りないが温かみのある桃色の光がリビングを満たした。

妻がゆっくりと顔を覆う。指の隙間から、堪えきれない雫が落ちて畳に染みを作る。

男がおずおずと妻の背中に手を伸ばし、触れる直前で止めた。妻がわずかに体を寄せると、男の喉仏が大きく上下した。

「……助かりました。これで、また」

茶封筒が差し出される。

私は中身も確かめずにジーンズのポケットにねじ込み、逃げるようにアパートを出た。

路地裏の自販機で、一番安いブラックコーヒーを買う。

胃に流し込むと、鉄錆のような味がした。

(他人の絆なら、繋ぐだけで金になる)

ポケットの中で、硬い異物が指に触れた。

歪な水色の小石。

河原の砂利に紛れているような、価値のない石ころ。

私が捨てられずにいる、唯一の『家族』の残骸だ。

スマホが短く振動した。

画面を見る。

『実家』の二文字。

胃の中でコーヒーが逆流しかけた。

十五年、沈黙していた通知だった。

第二章 空白の影

実家の引き戸は重く、軋んだ音を立てた。

玄関には、湿ったカビと、染みついた線香の匂いが澱んでいる。

「レン、か」

廊下の奥から現れた女が、目を細める。

母だ。記憶よりもふた回り小さくなり、白髪が乱れたまま項(うなじ)にかかっている。

背後には父と、二つ下の弟。

誰も目を合わせない。

視線は私の足元の汚れや、背後の壁のシミに向けられている。

出されたスリッパは三足。私の分はない。

「電話の件だ。あるんだろ、例のモノが」

私が靴も脱がずに尋ねると、父が無言でリビングを顎でしゃくった。

そこには、墓標があった。

ちゃぶ台の上。

かつて私たち家族の絆であったはずの『結晶』は、見る影もなく砕け散っていた。

輝きを失った灰色の砂礫(されき)。

踏み躙られた灰のように、その残骸は乾ききっている。

「いつの間にか、こうなっていたの」

母が自分の腕を抱くようにして言う。

「触ると……昔の映像が見えるって聞いたわ。みんなで海に行った日や、お正月の日が」

縋るような目つき。

現在の空虚さを埋めるための、過去という名の麻薬。

私は息を止めて、灰色の砂山に近づいた。

幸福な記憶が残っているなら、温かい風を感じるはずだ。

だが、漂ってくるのは、底冷えするような冷気だけ。

「触るぞ」

意を決し、私は砂礫の中に手を突っ込んだ。

瞬間、視界がブラックアウトする。

耳元で、誰かのすすり泣く声がした。

(幸福な記憶じゃない――これは)

闇の中に、ぼんやりと浮かぶ『影』があった。

体育座りをして、膝に顔を埋めている子供。

輪郭が滲み、世界から切り取られたように孤独な影。

「……誰だ」

思わず声が出た。

影が顔を上げる。

顔がない。のっぺらぼうの闇が、私を見つめ返している。

「おい、何やってんだ」

ドガッ、と肩を小突かれた。

弟だ。敵意のこもった目で私を見下ろしている。

私は荒い息を吐きながら、手を引っこ抜いた。

「今、子供の影が見えた。……心当たりは?」

「は?」

弟が鼻で笑う。

「ボケてんのかよ。この家には俺と、父さんと母さん。昔から三人だろ」

父も母も、怪訝そうに首を傾げている。

演技ではない。

彼らの記憶の箱には、あの影など初めから存在しないのだ。

だが、結晶は嘘をつかない。

あれは間違いなく、この家族を構成していた『何か』だ。

なぜ、記憶から消えている?

三人家族?

違う。俺たちは四人だったはずだ。

俺と、父と、母と、弟。

――いや、本当にそうか?

第三章 水色の引き金

その夜、私は客間に敷かれた煎餅布団の上で、冷や汗にまみれて目を覚ました。

ポケットの中の小石が、焼け火箸のように熱い。

『家族の記憶石』。

幼い頃、家族全員で川へ行き、拾い合った石。

父は緑、母は赤、弟は黄。

そして私は、三月の水色。

十五年前、家族が決定的に壊れたあの日。

他の石はすべて粉々になった。

なぜ、これだけが残った?

「……ッ、うぁ!」

心臓を裏側から蹴り上げられたような衝撃。

隣のリビングから、どす黒い気配が膨れ上がる。

私は跳ね起き、リビングへ走った。

襖を開け放つ。

砕け散った砂山の上に、あの『影』が立っていた。

昼間見たときよりも巨大化し、天井に届くほどに膨れ上がっている。

影が、何かを探すように床を這い回る。

ズズズ、と畳を擦る音。

影から溢れ出す感情が、私の脳髄に直接流れ込んでくる。

――痛い。暗い。

――出して。ここから出して。

――お兄ちゃん、助けて。

嘔吐感が込み上げる。

この声を、私は知っている。

影が手を伸ばした。

その先にあるのは、私の手の中にある水色の小石。

カチリ。

脳内で、封印していた扉の鍵が開く音がした。

記憶の濁流が雪崩れ込む。

十五年前のあの日。

父が大切にしていたアンティーク時計が床でバラバラになっていた。

激昂する父。怯える私。

『僕じゃない! ユウトがやったんだ!』

咄嗟についた嘘。

父の怒りの矛先は、二つ下の弟、ユウトに向かった。

「嘘をつくな!」と叫ぶ弟を、父は納屋に引きずっていった。

一月の凍える夜。

納屋の鍵がかけられ、弟は二日間、暗闇と寒さの中に放置された。

「開けて! ごめんなさい、ごめんなさい!」

弟の泣き叫ぶ声が、夜通し聞こえていた。

私は布団を頭から被り、耳を塞いだ。

僕が言えばいい。僕がやったと言えば、弟は助かる。

でも、怖かった。父の拳が、失望の目が、自分に向くのが怖かった。

私は願ったのだ。

『この罪悪感を消してくれ』と。

その時、未熟だった私の『絆修復』の能力が暴走した。

『修復』ではなく『切除』として。

私は、家族の記憶から『私が原因である』という事実と、それに関連する弟の痛みを、丸ごと削ぎ落としたのだ。

その代償として、家族の絆は砕け散り、私は罪の象徴である『幼い自分』を、無意識の牢獄に幽閉した。

目の前の影が、私と同じ顔になる。

泣きじゃくる、十五年前の卑怯な私だ。

「……そうか」

膝から力が抜ける。

家族の記憶から消えていた『もう一人の家族』。

それは、罪から逃げ続け、家族を壊した私自身の良心だった。

第四章 継ぎ接ぎの金継ぎ

翌朝、私は家族全員をリビングに集めた。

全員の顔色が悪い。私の叫び声を聞いていたのだろう。

「話がある」

私は震える手で、水色の小石をテーブルに置いた。

喉が干からびて、声が掠れる。

「十五年前。時計を壊したのは、俺だ」

父の眉がピクリと動く。

私は続けた。

保身のために弟に罪を擦り付けたこと。

納屋に閉じ込められた弟の悲鳴を聞きながら、二日間黙り続けていたこと。

そして能力を使い、自分自身の罪を記憶から消し去ったこと。

静寂が、部屋を支配した。

時計の針の音だけが、やけに大きく響く。

「……ふざけんなよ」

沈黙を破ったのは、弟だった。

彼は立ち上がり、私の胸倉を掴んだ。

「何だよそれ。俺、ずっと自分が悪いんだって思ってた。親父に殴られたのも、納屋で凍え死にそうになったのも、全部俺が嘘つきだからだって!」

「ユウト、俺は……」

「ふざけんな!」

弟の拳が、私の頬に突き刺さった。

火花が散り、私は畳に転がる。

口の中に血の味が広がった。

「あんたが温かい布団で寝てる間、俺がどんな思いで……!」

弟が泣いていた。

大人の男が、子供のように顔を歪めて泣いていた。

父が呆然と天井を仰ぎ、母は口元を押さえて嗚咽を漏らす。

「すまない、なんて言葉じゃ足りない」

私は血を吐き捨て、身を起こした。

「元通りにはできない。傷一つない綺麗な結晶には戻らない。それでも……俺は、この歪んだ絆を繋ぎたい」

私は両手を広げ、テーブルの上の『砂礫』と向き合った。

影が、まだそこにいる。

「来い。もう逃げない。お前の痛みも、俺の罪も、全部背負う」

私は影を抱きしめた。

瞬間、全身を焼かれるような激痛が走った。

過去の罵倒、弟の寒さ、孤独、自己嫌悪。

それら全てが、私の神経をヤスリで削るように逆流してくる。

「ぐ、あぁぁぁぁッ!」

絶叫とともに、私の手から光が噴き出した。

それは優しいピンク色ではない。

もっと激しく、泥臭い、ドロドロに溶けた黄金の奔流だ。

砂礫が巻き上げられる。

私は一つ一つの粒子の鋭利な角を握りしめ、自らの血と記憶を接着剤として流し込んでいく。

指の骨がきしむ。脳が焼き切れるほど熱い。

バチッ、バチッ!

空中でスパークが弾ける。

再構築されていく結晶は、かつての滑らかな球体にはならない。

ゴツゴツと歪で、至る所に醜い亀裂が走っている。

だが、その亀裂の一本一本に、黄金の光が食い込んでいた。

「ハァ、ハァ……ッ」

光が収束する。

そこに浮かんでいたのは、継ぎ接ぎだらけの、見たこともない形状の結晶だった。

割れた茶碗を金で修復した、金継ぎのように。

傷跡を隠すのではなく、傷跡そのものを歴史として刻んだ姿。

「これが……」

弟が、腫れた目で結晶を見る。

「汚ねぇ形」

「ああ、ひどい形だ」

私は笑おうとして、頬の痛みに顔をしかめた。

弟がおそるおそる手を伸ばす。

指が触れた瞬間、弟の肩がビクリと震え、そして力が抜けたようにへたり込んだ。

「……痛いな。でも、温かい」

父と母も、結晶に触れる。

完璧な幸福の幻覚など見えない。

あるのは、苦い過去と、互いにつけた傷の深さ、そしてそれを乗り越えて今ここにいるという重たい事実だけ。

「レン」

父が、十五年ぶりに私の名を呼んだ。

「飯、食っていけ。……三人分しか、用意してないが」

「俺の分を半分やるよ」

弟がぶっきらぼうに言い、鼻をすすった。

私は、ポケットに残った水色の小石を、結晶の頂点にある窪みにそっと嵌め込んだ。

カチリ。

音が響き、黄金の輝きが一層強く、部屋の隅々まで照らし出した。

それは、決して砕けることのない、傷だらけの光だった。

AIによる物語の考察

登場人物の心理:
主人公レンは、保身から弟への罪の擦り付けと、その罪悪感を「絆修復」能力で家族の記憶から「切除」した過去を持つ。他人の絆を繋ぐことで自己の罪から逃避するが、唯一残った「水色の小石」は、彼が向き合うべき家族の残骸であり、罪の象徴だ。弟ユウトは、兄の嘘によって生じた「自分が悪い」という誤った自己認識に長年苦しんだ。

伏線の解説:
家族が「三人家族」だと信じている背景には、レンの能力による「記憶の切除」がある。「影」は、レン自身が封印した罪悪感と、それによって家族の記憶から消された弟の痛みの象徴。小石が熱を帯び、真実が明らかになることで、物語の核であるレンの過去の過ちが暴かれる。

テーマ:
本作は、罪と償い、自己受容の物語だ。都合の悪い過去を消し去るのではなく、傷や痛みを全て受け入れた上で、新たな絆を「金継ぎ」のように再構築する美しさを描く。完璧ではない「不揃いな光」こそが、真の強さと愛の証となるという哲学的な問いを提示している。
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