第一章 ひび割れた食卓
朝の光が、やけに白々しくキッチンに満ちていた。トーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーの深いアロマが漂う、いつもの朝。その中心には、いつも完璧な母、坂井佳乃(よし)のがいるはずだった。しかし、その日、母の定位置であるコンロの前に、彼女の姿はなかった。
大学二年生の私、美月(みづき)がリビングに入ると、父の誠(まこと)が一人、ダイニングテーブルで硬い表情をして座っていた。テーブルの上には、丁寧に用意された朝食。そして、その横にぽつんと置かれた、一枚の便箋。
「お母さんは?」
私の声に、父はゆっくりと顔を上げた。その目は僅かに潤み、何かをこらえるように唇を引き結んでいる。父は無言で便箋を指差した。胸騒ぎを覚えながら手に取ると、そこには母の整った、けれど微かに震える筆跡で、たった一行だけが記されていた。
『私は、あなたたちの母親ではありません』
時間が止まった。頭の中でその言葉を何度も反芻する。理解が追いつかない。何かの冗談? それとも、最近疲れていた母の、当てつけのようなものだろうか。料理も、裁縫も、仕事も完璧にこなし、近所でも評判の理想の母親。その母が、自らを否定するような言葉を残して消えるなんて、あり得ない。
「どういうこと、お父さん。これ…」
「…わからない」
父はかぶりを振ったが、その目は明らかに何かを知っていた。狼狽と、長年抱えてきた秘密が露見したことへの諦めが混ざったような、複雑な色をしていた。
完璧だと思っていた私たちの家族という器に、大きなひびが入った瞬間だった。窓の外では、小鳥がさえずり、世界は昨日と何も変わらない朝を迎えている。それなのに、私の足元は、音を立てて崩れ始めていた。母の言葉の、本当の意味を探さなければならない。それは、私が「坂井美月」であることの根幹を揺るかす、旅の始まりだった。
第二章 空っぽの木箱
母がいなくなって三日が過ぎた。家の中はしんと静まり返り、完璧に整頓された空間だけが、かえって母の不在を際立たせていた。父は会社を休み、ただソファに沈んでいる。警察に捜索願を出すこともできず、私たちは途方に暮れていた。あの手紙のせいで、これは単なる家出ではないと、直感的に分かっていたからだ。
私は、母の真意を知る手がかりを求めて、彼女の部屋に入った。クローゼットの奥、季節外れの服が仕舞われた衣装ケースの後ろに、埃をかぶった桐の木箱を見つけた。これまで一度も見たことのないものだった。
蓋を開けると、ふわりと古い木の匂いがした。中には、セピア色に変色した一枚の写真と、小さなへその緒の箱が入っていた。写真は、見たこともない若い女性が、幸せそうに赤ん坊を抱いているものだった。背景には、古びたアパートの一室が写っている。女性の顔は、どことなく若い頃の母に似ていたが、纏う雰囲気がまるで違う。そして、その腕に抱かれた赤ん坊は、明らかに私ではなかった。
へその緒の箱には、『陽葵(ひまり)』という名前と、私の誕生日とは二年ずれた日付が記されていた。心臓が嫌な音を立てる。陽葵。これは、誰?
木箱を抱えて父の元へ行くと、彼は観念したように、重い口を開いた。
「それは…お母さんが、お父さんと出会う前の話だ」
父が語ったのは、私の知らない母の過去だった。母・佳乃には、かつて深く愛した男性がいたこと。二人は結婚を約束していたが、彼は不慮の事故でこの世を去った。彼の忘れ形見である娘、陽葵を身ごもっていた母は、絶望の淵で一人彼女を産んだ。しかし、その陽葵は、生まれて間もなく、突然死で亡くなってしまったという。
「お母さんは、心を病んでしまった。自分のせいで陽葵が死んだんだと、ずっと自分を責めていた。そんな時に、私と出会ったんだ」
誠と出会い、結婚し、そして私が生まれた。私の存在が、母を深い悲しみの底から救い出してくれたのだと、父は信じていた。私もそう思いたかった。だが、腑に落ちない。それならば、なぜ母は「私は、あなたたちの母親ではありません」と書いたのだろう。過去の悲劇が、今の私たちを否定する理由にはならないはずだ。
木箱は、母の悲しい過去の遺品だった。だが、それは空っぽの器のように感じられた。本当に大事な、核心の部分が、すっぽりと抜け落ちている。そんな気がしてならなかった。
第三章 真鶴の告白
写真の裏に、鉛筆で書かれた小さな文字を見つけたのは、その翌日のことだった。『真鶴の灯台にて』。何かに導かれるように、私は電車に飛び乗った。父には何も告げなかった。これは、私と母の問題だと思ったからだ。
潮風が頬を撫でる港町、真鶴。その岬の突端に立つ灯台の麓に、母はいた。海を見つめるその後ろ姿は、ひどく小さく、脆く見えた。
「お母さん」
声をかけると、母はゆっくりと振り返った。その顔は憔悴しきっていたが、私を見ると、どこか安堵したような、悲しい笑みを浮かべた。
「…美月。来てくれたのね」
私たちは、灯台のそばのベンチに腰掛けた。しばらく、打ち寄せる波の音だけが響いていた。やがて、母はぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、父から聞いた話とは全く違う、残酷な真実だった。
「陽葵はね、死んでなんかいないの」
母の言葉に、息を呑んだ。
「あの子は、元気に生まれてきてくれた。でも…私は、駄目な母親だった。夫を亡くした悲しみと、たった一人で育てることへの不安で、心が壊れてしまいそうだった。日に日に痩せていく陽葵を抱きしめながら、この子を愛せなくなってしまうんじゃないかって、怖くてたまらなかった」
母の声は、震えていた。
「だから…私は、あの子を捨てたの。小さな乳児院の前に、置いてきてしまった」
衝撃的な告白だった。完璧な母が、我が子を捨てた。その事実が、私の胸に鋭い痛みとなって突き刺さる。
「その後、誠さんと出会って、あなたが生まれた。美月、あなたを愛せば愛するほど、捨てた陽葵への罪悪感が、私を苛んだわ。『陽葵を捨てた私が、あなたの母親でいていいはずがない』って。ずっと、ずっと苦しかった」
だから、あの手紙を書いたのだ。「私は、陽葵の母親ではなかった。そして、そんな罪を犯した私は、あなたの完璧な母親でもない」。それが、あの言葉の本当の意味だった。
最近になって、母は探偵を雇い、陽葵の行方を突き止めたという。陽葵は、優しい養父母のもとで、明るく幸せに育っていた。母は、遠くから一度だけその姿を見て、そして、自分の罪と向き合うために、この場所に来たのだという。陽葵を身ごもっていた頃、亡くなった彼と最後に訪れた、思い出の場所。
「私は、あなたの母親失格よ」。涙を流す母の姿は、私が知っている完璧な母ではなかった。罪を背負い、何十年も苦しみ続けてきた、ただの一人の弱い人間だった。
第四章 夜明けの水平線
私は、泣きじゃくる母の肩を、そっと抱きしめた。怒りも、失望もなかった。ただ、痛いほどの愛おしさが胸に込み上げてきた。
「そんなことないよ」
私の声も、震えていた。
「お母さんは、ずっと苦しんでたんだね。陽葵さんのことも、私のことも、ずっと愛してたんだよ。苦しみながら、悩みながら、私をここまで育ててくれた。それだけで、お母さんは、私のたった一人のお母さんだよ」
完璧な母親なんて、どこにもいない。私の目の前にいるのは、傷つき、過ちを犯しながらも、必死で愛そうともがき続けてきた、私の母親だった。私たちは、どちらからともなく抱きし合い、声を上げて泣いた。灰色の雲の切れ間から、夕陽が差し込み、海面を金色に染めていた。
家に帰ると、父が玄関で待っていた。父は、母の全てを知っていた。彼女が子どもを捨てたという罪も、その罪悪感に苛まれ続けていたことも。全てを知った上で、彼女を支え、愛し続けてきたのだ。偽りの完璧さの上に成り立っていたと思っていた家族は、そうではなかった。互いの弱さや罪を、静かに受け入れ、寄り添うことで成り立っていたのだ。その日、私たちの家族は、一度壊れて、そして、もっと深く、強く結び直された。
一週間後、私宛に一通の手紙が届いた。見慣れない、綺麗な文字。差出人の名前は、『小野寺 陽葵』。母が、陽葵さんに手紙を書き、私のことを伝えていたのだ。
『坂井佳乃様から、お手紙をいただきました。私の知らない、私の始まりの物語を、教えていただきました。そして、あなたのことを聞きました。いつか、あなたに会ってお話してみたいです。あなたにとっては、とても複雑なことだと分かっています。でも、もし許されるなら』
青いインクで綴られたその文字を、私は何度も指でなぞった。窓の外には、どこまでも広がる青空が見える。
家族の形は、一つじゃない。完璧な人間も、完璧な家族も存在しない。私たちは皆、不完全で、過ちを犯す。けれど、その傷や弱さを抱きしめ、それでも誰かを愛そうと手を伸ばすこと。その不器用な営みこそが、家族という名の、温かくて、少しだけ切ない光なのかもしれない。
手紙を胸に抱きしめ、私はそっと目を閉じた。私の世界は、母の告白を境に、以前よりもずっと複雑で、だからこそ豊かで、愛おしいものに変わっていた。水平線の向こうから、新しい夜明けの気配がした。