第一章 聞こえるはずのない旋律
放課後の校舎は、夕陽に染め上げられ、まるで琥珀のなかに閉じ込められた時間の化石のようだった。生徒たちの喧騒が潮のように引いていくなか、私、水上奏(みなかみ かなで)だけが、その場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。旧校舎の三階、取り壊しを待つばかりの第三音楽室。そこから、聞こえるはずのないピアノの旋律が、私の鼓膜を震わせていたからだ。
それは、ショパンの『別れの曲』。私がピアノを弾くことをやめた、あの雨の日のコンクールで弾くはずだった曲。鍵は厳重に管理され、生徒の立ち入りは固く禁じられているはずの、空っぽの音楽室。そこから流れ出すのは、あまりにも優しく、そして悲しい音色だった。
幻聴だろうか。二年前のあの日から、私の時間は止まったままだ。ホールの重い空気、審査員の冷たい視線、そして鍵盤の上で凍りついた自分の指。その記憶が、こんな幻を聴かせているのかもしれない。
しかし、その音は翌日も、そのまた翌日も、同じ時間に聞こえてきた。まるで、誰かが私をそこへ誘うように。私は吸い寄せられるように旧校舎の階段を上り、埃っぽい廊下の突き当たりにある扉の前で息を殺す。やはり、中からピアノの音がする。そっとドアノブに手をかけるが、鍵がかかっている。隙間から中を覗いても、夕陽が差し込む薄暗い空間に、グランドピアノの黒い影が静かに鎮座しているだけ。人影はどこにもない。
「水上さん、またここにいたんだ」
不意に背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。振り返ると、クラスメイトの月島響(つきしま ひびき)が、人懐っこい笑顔で立っていた。彼女は、クラスの中心にいる太陽のような存在で、私とは住む世界が違う。
「……別に」
「そっか。でも、ここの音楽室、いいよね。なんだか、時間が止まってるみたいで」
響はそう言うと、私の隣に並んで扉に耳を寄せた。しかし、彼女の表情は不思議そうに首を傾げるだけ。
「何も聞こえないけど……水上さんは、何か聞こえるの?」
その屈託のない問いに、私は何も答えられなかった。この音は、私にしか聞こえていない。その事実が、私を言いようのない孤独の淵へと突き落とした。
第二章 陽だまりの不協和音
謎のピアノの音は、私の灰色の日々に微かな波紋を広げた。私は誰が弾いているのか突き止めたくて、昼休みにこっそりと第三音楽室に忍び込んだ。用務員さんが掃除のために一瞬だけ開けていた扉の隙間を、猫のようにすり抜けて。
部屋の中は、古い木の匂いと埃の匂いが混じり合っていた。夕陽ではなく、真昼の白い光に照らされたピアノは、鍵盤に分厚いカバーがかけられ、永い眠りについているように見えた。そっとカバーをめくり、象牙色の鍵盤に触れる。ひんやりとしていて、人の温もりなど微塵も感じられない。なのに、あの旋律だけが、私の頭の中で鳴り響いていた。
そんな日々が続くうち、なぜか月島響が頻繁に私に話しかけてくるようになった。
「水上さんって、昔ピアノやってたって本当?」
「……昔の話だから」
「そっか。でも、私、聴いてみたいな。水上さんのピアノ」
図書館で本を読んでいても、廊下ですれ違っても、響はひまわりのように私の方を向いて笑いかける。その眩しさが、私には少しだけ痛かった。他人との間に壁を作り、自分の殻に閉じこもることで平穏を保ってきた私にとって、彼女の存在は心地よい陽だまりでありながら、私の心の平穏を乱す不協和音でもあった。
ある雨の日、私は下駄箱で響が誰かと電話で話しているのを偶然聞いてしまった。
「うん、今日の検査も大丈夫。……心配しないで。それより、聴いて。昨日、やっとあの曲、最後まで通しで弾けるようになったんだ」
弾けるようになった? 何を? 彼女もピアノを弾くのだろうか。私の知らないところで。その日から、私は響のことを意識せずにはいられなくなった。時折見せる、ふとした瞬間の儚げな表情。誰にも見せないように、そっと薬を飲む姿。彼女の太陽のような笑顔の裏には、分厚い雲が隠れているのかもしれない。
「ねえ、水上さん」
ある放課後、響はいつものように私を捕まえた。
「今度の文化祭、講堂のピアノ、弾いてみない?」
「……無理。私はもう、弾かないって決めたから」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。響の顔から、一瞬だけ笑顔が消え、傷ついたような表情が浮かぶ。その顔を見ていられなくて、私は逃げるようにその場を立ち去った。追いかけてくる声はなかった。
第三章 ゴーストピアニストの告白
それから一週間、月島響は学校に来なくなった。最初は風邪か何かだと思っていた。しかし、二週間が経ち、彼女の机に積まれていくプリントの束が、事の重大さを物語っていた。クラスメイトたちは心配しながらも、どこか腫れ物に触るような態度で、誰も真相を口にしようとはしない。
いてもたってもいられなくなった私は、クラス委員から聞き出した病院へと向かった。ガラス張りの近代的な建物の、静まり返った廊下を歩く。響の病室を見つけ、ためらいながらドアをノックすると、中から出てきたのは疲れ切った表情の彼女の母親だった。
「……水上、奏さんね。響から、いつも話を聞いてるわ」
そう言って、母親は私を近くの談話室へと促した。そして、静かに語り始めた言葉は、私の世界を根底から覆すものだった。
「あの子……響は、あなたのファンだったのよ」
母親が取り出したのは、一枚の古いコンクールのプログラム。そこには、まだ小学生の私の名前と、そして響の名前が並んでいた。
「響もね、昔ピアノを習っていたの。でも、病気が見つかって、続けられなくなってしまって……。そんな時、同じ教室にいたあなたの演奏を聴いて、すっかり魅了された。あの子にとって、あなたは希望の星だったの」
私の知らないところで、そんな繋がりがあったなんて。
「だから、あなたがピアノをやめてしまったと知って、自分のことのように悲しんでた。どうにかして、もう一度あなたにピアノを弾いてほしい。あの美しい音を、また聴かせてほしいって……」
そこで、母親は言葉を詰まらせ、涙を拭った。そして、絞り出すように告げた。
「旧校舎のピアノの音……あれは、響が流していたのよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。幻聴でも、幽霊でもなかった。
「あの子、病室で必死に勉強して……最新の指向性スピーカーっていうのを手に入れて、業者さんに頼んで、あなたにだけ聞こえるように旧校舎に設置したの。音源は、あの子がこの病室で、タブレットを使って一音一音打ち込んだものよ。あなたの思い出の曲を、何度も何度も聴き返して……」
空っぽの音楽室。そこにいたのは、響の想いそのものだったのだ。
「『私が奏さんのゴーストピアニストになるの』って、楽しそうに笑うものだから……。親として、あの子の最後の夢を、叶えさせてあげたかった……」
私は何も言えなかった。自分の殻に閉じこもり、響の優しさを冷たく突き放していた自分が、恥ずかしくて、情けなくて、悔しかった。彼女は、自分の命の時間を削ってまで、私の止まった時間を動かそうとしてくれていたのだ。私が「嘘」だと思っていたあの旋律は、誰よりも純粋な「本当」の気持ちだった。
第四章 君に捧げるソナタ
文化祭当日。講堂は生徒や保護者たちの熱気に満ちていた。私はステージ袖で、大きく、深く息を吸い込んだ。震える指先をもう一方の手で包み込む。怖い。また、あの日のように指が動かなくなったら?
でも、今の私には弾かなければならない理由があった。
司会に名前を呼ばれ、ステージの中央へと歩き出す。ざわめいていた会場が、静まり返っていく。私はグランドピアノの前に座り、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。目を閉じると、響の笑顔が浮かぶ。そして、あの空っぽの音楽室で鳴り響いていた、優しく悲しい『別れの曲』が聞こえてくるようだった。
私が弾き始めたのは、その『別れの曲』ではなかった。ショパンの『ノクターン第20番 遺作』。かつて響が、コンクールで弾いていた曲。彼女の母親から聞いた、彼女にとっての一番の思い出の曲だった。
最初は震えていた指が、次第に確かな重みを持って鍵盤を捉え始める。これは、誰かに評価されるための演奏じゃない。賞を取るための演奏でもない。たった一人、今この瞬間も病室で戦っている友人へ届けるための、私の魂の音だ。
一音一音に、響への感謝を込めた。一音一音に、私の後悔を込めた。そして、一音一音に、彼女の未来への祈りを込めた。トラウマなんて、いつの間にか消え去っていた。私の心にあったのは、ただひたすらに、届け、届け、という強い想いだけだった。
演奏が終わると、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が講堂に鳴り響いた。私は立ち上がり、深く頭を下げる。頬を伝う温かい雫が、スポットライトに照らされてきらりと光った。
数日後、私は響の病室を訪れた。窓から差し込む午後の光が、眠る彼女の顔を穏やかに照らしている。私は彼女の枕元に置かれた小さなタブレットに、あの日の演奏を録音したデータを転送した。
「今度は、私の番だよ、響」
私は、彼女の冷たくなった手にそっと触れながら、静かに語りかけた。
「君が私にしてくれたみたいに、今度は私が、君のためにピアノを弾く。君が目を覚ますまで、ずっと、ずっとここで。だから……」
だから、また一緒に笑ってほしい。
私の言葉に答えはなかった。けれど、それでよかった。私はピアノを弾き続ける。それは償いでもあり、祈りでもあり、そして、私と彼女を結ぶ、決して消えることのないデュエットの始まりだった。窓の外では、季節外れの桜の花びらが、まるで祝福するように舞い散っていた。