残響図書館と未来の欠片
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残響図書館と未来の欠片

第一章 逆流する砂と空虚な記憶

僕、ユキの頭の中には、他人の図書館がある。それは僕のものではない記憶の書庫で、ページはいつもバラバラに散らばっている。誰かが知識を「具現化」させるたび、その代償として失われた記憶の破片が、宛名のない手紙のように僕の意識に流れ着くのだ。

今日もそうだ。中庭に面した渡り廊下で、クラスメイトのアオイが歴史学の論文を天に掲げている。彼女の唇が古代語の呪文を紡ぐと、乾いた空気が揺らぎ、教科書でしか知らないはずの、砂漠の夜の匂いを纏った風が僕の頬を撫でた。

「成功! これで期末レポートは完璧ね!」

アオイが屈託なく笑う。その瞬間、僕の脳裏に強い閃光が走った。知らないはずの、温かい手の感触。夕陽に染まる研究室の窓。そして、胸を締め付けるような、深く静かな悲しみの感情。それは僕のものではない。だが、あまりにも鮮明な感触に、思わず自分の胸を押さえた。

学園の中庭には、巨大な『概念砂時計』が鎮座している。そのガラスケースの中では、白銀の砂が重力に逆らい、下から上へとゆっくりと流れ続けていた。伝説によれば、あの砂が落ちきる(つまり、昇りきる)たびに、この学園から新たな知識が具現化され、同時に世界のどこかから記憶がひとつ消えるのだという。砂のひと粒ひと粒が、誰かの大切な思い出の抜け殻に見えて、僕はいつも目を逸らしてしまう。アオイの笑顔を見ながら、僕は彼女が今、何を失ったのかを考えていた。

第二章 欠落の輪郭

「なんだか、変な感じ」

具現化を終えたアオイが、首を傾げながら呟いた。

「すごく大切な約束を、すっぽかしてしまったみたいな……。そんな気分」

その言葉に、僕の胸が小さく痛んだ。最近、学園のあちこちで同じような声を聞く。誰もが漠然とした喪失感を抱え、自分の記憶にぽっかりと空いた穴の存在に戸惑っていた。特に奇妙なのは、学園の『創設者』に関する話題だった。誰もがその名を口にするのを避け、無理に尋ねれば、まるで霧の中にいるかのように曖昧な表情を浮かべるだけだった。

僕の中に流れ込む記憶の断片も、近頃は奇妙な収束を見せ始めていた。固く閉ざされた鉄の扉。銀色の髪を揺らす、見知らぬ誰かの後ろ姿。そして、繰り返し聞こえる「未来を、守らなければ」という悲痛な囁き。

これらの断片は、僕の中でひとつの像を結びつつあった。それは、学園の誰もが忘れてしまった、あるいは忘れさせられた『何か』の輪郭。そしてその中心には、常にあの『概念砂時計』と、北の森の奥に聳え立つ、蔦に覆われた『閉鎖された研究棟』の影がちらついていた。

「ユキ、あの塔について何か知らない?」

アオイが、僕の視線の先を追って研究棟を見上げた。

「誰も近づかないけど、昔は創設者様が使っていたって……あれ? 創設者様って、どんな人だったっけ……?」

彼女の瞳が揺れる。まただ。記憶の霧が、彼女の思考を覆い隠していく。僕だけが、その霧の向こう側にある断片を拾い集めている。

第三章 禁じられた研究棟

アオイの探求心は、記憶の霧ごときでは止められなかった。彼女は中央図書館の古文書を読み解き、閉鎖された研究棟の扉を開けるための鍵が、失われた古代詩の一節であることを突き止めた。

「この詩を具現化すれば、扉は開くはずよ」

夕暮れの図書館で、彼女は興奮した面持ちで僕に囁いた。羊皮紙に記されたインクの匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。

「やめた方がいい」

僕の口から、意図しない言葉が漏れた。それは僕自身の意志というより、脳内で渦巻く無数の記憶たちが発する、 collective unconscious(集合的無意識)にも似た警告だった。

「どうして? 何か知ってるの?」

アオイが訝しげに僕を見る。僕は答えられない。ただ、彼女がその詩を口にすれば、取り返しのつかないことが起こるという確信だけがあった。僕の頭の中では、銀髪の人物が「開けてはならない」と叫び、ガラスの割れる音と絶望の匂いが充満していた。

だが、僕の躊躇いは、彼女の決意を鈍らせることはできなかった。

「大丈夫。これは、私たちが忘れてしまったものを取り戻すために必要なことだから」

彼女の瞳には、真実への渇望が燃えていた。その強い光が、僕にはあまりにも眩しく、そして恐ろしかった。

第四章 開かれるパンドラ

アオイは中庭に向かい、閉鎖された研究棟に向かって、古文書を掲げた。彼女の澄んだ声が、失われた詩を紡ぎ始める。それは、世界の理を解き明かすための、禁じられた言葉だった。

最後の一節が唱えられた瞬間、世界が悲鳴を上げた。

ゴォッ、と地鳴りのような音を立てて、『概念砂時計』の砂が凄まじい勢いで逆流を始めた。ガラスケースに亀裂が走り、学園全体が激しく揺れる。研究棟の重い鉄の扉が、軋みながらゆっくりと開いていく。

そして、僕の意識は、記憶の奔流に飲み込まれた。

それは一人の男の記憶。この学園の創設者。彼は『完全な知識の具現化』――無限に知識を生み出し、世界を意のままにする力を求め、その研究の果てに、制御不能な知識の怪物を生み出してしまった。暴走する知識は、未来そのものを喰らい尽くそうとした。

彼は最後の力で、その怪物を封印した。自身の全ての記憶と、そして、最も残酷な代償と共に。彼は、この学園に集う全ての生徒から、これから経験するはずだった『未来の記憶』――友情、愛情、成功、失敗、その全てを奪い去り、それを封印の楔としたのだ。

僕が今まで見てきた断片は、その封印から漏れ出した『未来の欠片』だったのだ。

真実の奔流が僕を打ちのめす中、ふと我に返ると、信じられない光景が広がっていた。アオイが、他の生徒たちが、その場に糸が切れた人形のように崩れ落ちていた。彼らの瞳からは光が消え、ただ虚ろに空を見つめている。未来を奪われた魂は、今この瞬間を生きる意味さえ失ってしまったのだ。

第五章 未来の選択

絶望的な静寂が、学園を支配していた。虚ろな瞳の生徒たちの中で、立っているのは僕だけだった。僕は理解した。僕という存在は、この悲劇のために用意された器なのだと。創設者が奪った未来の欠片を受け止め、いつか来るこの日のために、それを守り続けるための番人だったのだ。

このままでは、皆は未来を失ったまま、永遠に時を彷徨うことになる。

選択肢はひとつしかなかった。僕が取り込んできた全ての記憶――封印された全ての『未来』を、世界に解放する。その代償は、この学園の根幹を成す『知識の具現化』の力の消滅。そして、僕自身が、その膨大な記憶の渦の中心で、永遠にその奔流を受け止め続ける存在になること。

僕は、砕け散りそうな『概念砂時計』に向かって、一歩、また一歩と足を進めた。ガラスの向こうで荒れ狂う白銀の砂は、もはや砂ではない。それは、創設者の絶望と後悔そのものだった。僕は震える手を伸ばし、ひび割れた冷たいガラスにそっと触れた。

「返すよ」

僕は囁いた。

「君たちが、見るはずだった明日を」

第六章 残響の観測者

僕の指が触れた瞬間、『概念砂時計』は甲高い音を立てて砕け散った。白銀の砂は光の粒子となり、雪のように静かに、学園へと舞い降りていく。知識を具現化する奇跡の力は、その光と共に世界から消え失せた。

光の粒子が、倒れていた生徒たちの身体に吸い込まれていく。最初に身じろぎしたのは、アオイだった。彼女がゆっくりと目を開ける。その瞳には、さっきまでの虚無ではなく、微かで、しかし確かな光が宿っていた。

「……ユキ?」

彼女の声は掠れていた。

「なんだか、不思議な夢を見ていたみたい。あなたと、図書館で笑い合ったり……卒業式で、泣いたり……」

それは、彼女が本来経験するはずだった未来の記憶。生徒たちは次々と目を覚まし、戸惑いながらも、互いの顔を見合わせる。彼らの脳裏には、まだ見ぬはずの光景が、淡い残響のように響いていた。彼らは知識を具現化する力を失った。だが代わりに、互いが経験するはずだった『未来の経験』を共有し、新たな絆を紡ぎ始めたのだ。失われた未来は、新たな世界の法則として、この場所に定着した。

僕は、その輪の中心にただ一人立っていた。僕の意識は、もはや僕だけのものではない。学園に満ちる無数の未来の残響、その全てを『感知』し、見守り続ける。それは途方もない孤独であり、同時に、温かい光に満ちた永遠でもあった。

生徒たちの優しい笑い声が聞こえる。彼らはもう、喪失感に悩むことはないだろう。これから彼らが歩む現実は、かつて見るはずだった未来とは違うかもしれない。それでも、彼らは確かに明日へと歩き出した。

僕はその全てを感じながら、静かに目を閉じる。僕の図書館は、今、忘れられた未来の輝きで満たされていた。

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