言霊の杜と、消えない染み

言霊の杜と、消えない染み

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第一章 偽りの静寂

僕、相田湊が私立言霊(ことだま)の杜(もり)学園の門をくぐったのは、木犀の香りが風に溶け始めた九月のことだった。家庭の事情で余儀なくされた、学期途中の転校。新しい環境への不安で、僕の口数はいつも以上に少なくなっていた。

「この学園には、一つだけ特殊な校風がある」

編入初日、穏やかな白髪の学園長はそう切り出した。

「ここではね、相田くん。君がもし『嘘』をつくと、それが物理的な『染み』として現れるんだよ」

冗談かと思った。だが、学園長の瞳はどこまでも真摯だった。案内された教室の、白く清潔な壁や床に目を凝らす。確かに、ところどころにインクを零したような、黒く滲んだ小さな染みが点在している。まるで、この建物の皮膚に刻まれた、消えないほくろのようだ。

生徒たちは、その染みを当たり前の風景として受け入れているようだった。誰も指さしたり、話題にしたりしない。その異様な静けさが、かえって僕の喉を締め付けた。嘘が可視化される世界。それは、僕のような人間にとっては、ほとんど牢獄に等しかった。

僕は昔から、臆病で口下手だった。その場をやり過ごすため、相手を傷つけないため、そして何より、弱い自分を守るために、息をするように小さな嘘を重ねてきた。そんな僕が、この透明すぎる学園で生きていけるのだろうか。

最初の数週間、僕は徹底して「無」になることを心がけた。誰かに話しかけられても、曖昧な相槌を打つだけ。意見を求められれば、当たり障りのない言葉を選ぶ。まるで、薄い氷の上を歩くように、言葉の一つひとつに神経を尖らせた。幸い、僕の周りにはまだ、一つも染みは現れていない。だが、それは偽りの平穏だった。心は常に張り詰め、夕方にはぐったりと疲弊した。

そんな僕の世界に、光が差し込んだのは突然のことだった。

「相田くん、だよね? いつも本読んでるけど、何が好きなの?」

太陽をそのまま人の形にしたような、快活な笑顔。クラスの中心にいる女子、水瀬響子(みなせ きょうこ)だった。彼女の周りだけ、空気がきらきらと輝いて見える。そして何より驚いたのは、彼女の机、椅子、その足元、視界に入る全ての場所に、ただの一つの染みも見当たらないことだった。完璧な白。完璧な無垢。

「あ……えっと、ミステリーとか……」

突然話しかけられ、しどろもどろになる僕に、響子は屈託なく笑った。

「へえ、意外! 私も好きだよ。今度おすすめ教えて」

それからというもの、響子は何かと僕に話しかけてくれた。彼女との会話は、不思議と苦ではなかった。彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられると、嘘をつこうという気さえ起きなかった。

しかし、その日はやってきた。

放課後、クラスメイトの男子に「週末、暇ならゲームしないか」と誘われた。前の学校なら、適当な理由をつけて断っていただろう。だが、ここは言霊の杜学園だ。「先約がある」なんて言えば、黒い染みが足元に広がるかもしれない。本当は、ただ一人でいたいだけだった。その本心を伝える勇気が、僕にはなかった。

僕は俯き、ほとんど無意識に口を開いていた。

「ごめん、週末は……ちょっと、体調が良くなくて」

その瞬間だった。

ぽつん、と。僕の机の木目に、小さな黒い雫が落ちた。それはゆっくりと、繊維に沿って滲んでいく。直径一センチほどの、醜い染み。僕だけの、嘘の証。心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。クラスメイトは気づかずに去っていったが、僕はその場から動けなかった。染みは、僕の罪悪感を吸い込んで、じっとりと黒さを増していくようだった。

第二章 無垢なる者の秘密

僕の机にできた染みは、消えなかった。次の日も、その次の日も、それは変わらずそこにあり、僕の視界に入るたびに、鈍い痛みで胸を刺した。僕はその染みを隠すように、教科書やノートで常に覆い隠した。誰にも見られたくない。僕の弱さの、具体的な痕跡。

学園を見渡せば、至る所に染みはあった。消火器の影に隠れた大きなもの、階段の隅に忘れられたような古いもの。これらは全て、誰かの嘘の化石なのだ。僕はこの学園の生徒たちが、どのようにして自分の嘘と折り合いをつけているのか、不思議でならなかった。

僕が自分の染みに怯える一方で、水瀬響子の純白は揺るがなかった。彼女はいつも明るく、正直で、その言葉は常に真実の色をしていた。僕は彼女に強く惹かれていた。その完璧さに。その眩しさに。彼女のようになれたら、どんなに楽だろうか。

ある雨の日の放課後だった。図書室で借りた本を返すため、僕は誰もいないはずの校舎を歩いていた。三階の渡り廊下を通りかかった時、ふと、使われていない視聴覚室から人の気配がするのに気づいた。ドアが少しだけ開いている。好奇心に駆られ、そっと中を覗き込んだ。

そこにいたのは、響子だった。

彼女は一人、部屋の奥の壁に向かって立っていた。その背中は小さく震えているように見える。そして、僕の目は信じられないものを捉えた。彼女が向き合っている壁には、今まで見たこともないほど巨大で、深く、おぞましい黒い染みが広がっていた。まるで、壁そのものが悪意に蝕まれ、腐り落ちてしまったかのような、圧倒的な存在感。それは、この学園のどんな古い染みよりも、暗く、濃密だった。

響子は何事か、その染みに向かって囁いていた。雨音に混じって、途切れ途切れに声が聞こえる。

「……ごめんね……本当に、ごめんなさい……私が、馬鹿だったから……」

それは祈りのようでもあり、懺悔のようでもあった。いつも快活な彼女からは想像もつかない、か細く、痛切な声。僕が見ていることに気づかず、彼女は涙を拭うと、静かに染みに背を向け、部屋を出て行った。

僕はその場に立ち尽くした。何が起きたのか理解できなかった。あの完璧な響子が、なぜ、あんなにも巨大な嘘の痕跡と向き合っていたのか。彼女の周りに染みがないのは、嘘をつかないからではなかったのか。僕の抱いていた彼女への憧れが、ガラガラと音を立てて崩れていく。そして、その瓦礫の下から、全く新しい、巨大な謎が顔を覗かせた。

第三章 赦しのための対話

次の日、僕は勇気を振り絞って響子に話しかけた。

「昨日、視聴覚室で……見たんだ」

僕の言葉に、響子の顔からすっと表情が消えた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。

「……放課後、屋上で待ってる」

屋上は冷たい風が吹いていた。フェンスに寄りかかった響子は、遠くの街並みを見つめながら、静かに語り始めた。

「あの染みは、私の嘘。一年生の時の」

彼女の声は、いつもの明るさを失い、乾いていた。

「私には、親友がいたの。絵を描くのがすごく上手な子で、いつも二人で一緒にいた。でも、あるコンクールで、彼女が大きな賞を獲ったんだ。私は……嫉妬した。心の底から。そんな自分が醜くて、嫌でたまらなかった」

響子は一度言葉を切り、自分の指先を見つめた。

「そんな時、クラスの意地悪な子たちに聞かれたの。『響子は、あの子の絵、本当にすごいと思う?』って。私は、魔が差したんだと思う。言ってしまった。『さあ、どうかな。最近、ちょっと人の真似っぽいけどね』って」

その一言が、全てを壊した。

響子の嘘は、あっという間にクラス中に広まった。「親友が言っていた」という事実が、悪意ある噂に真実味を与えてしまった。絵を描くのが好きだった親友は、周りの目に耐えきれず、筆を折り、そして、二学期の終わりに転校していった。

「彼女がいなくなる日、私は謝ることさえできなかった。視聴覚室の壁にあの染みができたのは、彼女がこの学園から去った日。私の嘘が、彼女の未来を奪ったっていう、取り返しのつかない結果になった瞬間だった」

僕は息を呑んだ。そして、核心の問いを口にした。

「でも、どうして君の周りには、他に染みがないんだ?」

「染みはね」と響子は僕の方を向いた。「『真実』を語れば、消えるの」

「え?」

「例えば、相田くんの机の染み。『体調が悪い』って嘘をついたけど、『本当は、一人でいたかったんだ。ごめん』って、その染みに向かって正直に言えば、それは消えるはずだよ。この学園のほとんどの染みは、そうやってみんな自分で清算してる」

衝撃の事実だった。僕は自分の染みを、ただの罰の刻印だと思っていた。消せるものだなんて、考えもしなかった。

「じゃあ、あの視聴覚室の染みは……?」

「消えないの」

響子は、静かに首を振った。

「取り返しのつかない結果を招いた嘘。誰かの心を、深く、回復できないほど傷つけた嘘。そういう嘘の染みは、ただ真実を語っただけじゃ消えない。私の『嫉妬していた』という真実は、もう彼女には届かないから」

僕は言葉を失った。残酷すぎるルールだ。

「じゃあ、君はずっと……」

「うん」と彼女は頷いた。「あれを消す方法は、たぶん、一つだけ。その嘘が生んだ悲しみや罪悪感を、受け入れて、赦しを請い続けること。愛のある言葉を、かけ続けること。いつか、私の言葉が、この壁を通り抜けて、どこかにいる彼女の心に届くと信じて。だから私は、毎日あの場所へ通ってる。そして、他の小さな嘘は、絶対に作らないようにしてる。私の言葉の全てを、あの子に捧げるために」

彼女の完璧な白は、無垢の証ではなかった。たった一つの巨大な罪を償うための、血の滲むような覚悟の白だったのだ。僕が抱いていた憧れは、尊敬と、そして胸を締め付けるような切なさへと変わった。僕の小さな嘘と、彼女が背負う嘘の重さは、比べ物にもならなかった。

その日の放課後、僕は自分の教室に戻り、机の染みに向かい合った。心臓が早鐘を打つ。でも、もう逃げないと決めた。

「ごめん」僕は小さな声で囁いた。「本当は、君と話すのが、少し怖かっただけなんだ。一人になりたかった。本当にごめん」

すると、奇跡が起きた。机の上の黒い染みは、まるで水に溶ける墨のように、すうっと薄れていき、やがて跡形もなく消え去った。木目の美しい、元の机に戻った。僕は、解放されたような、温かい気持ちに包まれた。言葉でつけた傷は、言葉で癒せる。僕はその事実を、身をもって知った。

第四章 僕らの言葉が届くまで

次の日から、僕の学園生活は変わった。もう、言葉を恐れない。自分の気持ちを正直に伝えることを心がけた。もちろん、簡単なことではなかったけれど、机の染みが消えたあの瞬間の感覚が、僕に勇気をくれた。

そして、僕は放課後、視聴覚室へ向かうようになった。

最初は、ただドアの外から響子の様子を窺うだけだった。しかしある日、僕は意を決して、部屋の中へ足を踏み入れた。巨大な染みの前で祈る響子の隣に、そっと立つ。驚く彼女に、僕は言った。

「僕も、手伝うよ」

「でも、これは私の嘘だから……」

「一人で背負うことないよ」僕は壁の染みを見つめた。「僕も、嘘つきだったから。君の気持ちが、少しだけ分かる気がするんだ」

それから、僕らの奇妙な日課が始まった。二人で、あの巨大な黒い染みに向かって、言葉を紡ぐ。響子は、親友との楽しかった思い出や、後悔の念を語った。僕は、ただ、そこにいる誰かに向かって語りかけた。

「君がどこにいても、幸せでありますように」

「君の絵を、見てみたかったな」

「響子は、ずっと君のことを想っているよ」

それは、誰にも届かないかもしれない、一方的な対話だった。けれど、僕らの言葉は、確かに視聴覚室の冷たい空気を少しずつ温めていくようだった。響子だけの贖罪だった行為は、いつしか僕らの共有する祈りになっていた。彼女の表情から、張り詰めていたものが少しずつ解けていくのが分かった。

時間は流れ、卒業式の日が訪れた。

僕らは最後にもう一度、あの視聴覚室を訪れた。壁の巨大な染みは、相変わらずそこにあった。消えてはいない。

でも、何かが違っていた。

「……湊くん」響子が、息を呑んで指さした。「見て」

目を凝らすと、漆黒だった染みの中心が、ほんのわずかに、本当に微かに、色が薄れているように見えた。絶望的な黒の中に、淡い灰色の兆しが生まれている。それは、長い冬の終わりに、固い土から芽吹いた、小さな若葉のようだった。

僕らの言葉は、無駄じゃなかった。

染みは、消えないかもしれない。罪が、完全になくなることはないのかもしれない。でも、赦しは、希望は、確かに生まれるのだ。

僕らは顔を見合わせて、泣きながら笑った。

言霊の杜学園。嘘が染みになるこの場所で、僕は言葉の本当の重さを知った。それは人を傷つける刃であると同時に、誰かの凍えた心を温める、小さな灯火にもなるのだと。

校門を出る。桜の蕾が、春の光を浴びて膨らんでいた。僕の心の中にも、確かな温かい光が灯っている。消えない染みは、罪の記憶であると同時に、決して忘れてはならない誰かへの想いの証だ。僕らはこれからも、言葉を紡いで生きていく。僕らの言葉が、いつか本当に届く日を信じて。

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