メメント・ライブラリの断章

メメント・ライブラリの断章

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第一章 借り物の笑顔

僕、桜井ユウキの人生は、借り物で成り立っていた。

放課後のざわめきが満ちる教室。僕は、クラスの中心で軽快なジョークを飛ばしていた。周囲がどっと笑いに包まれる。女子の一人が「ユウキ、最近面白いよね!」と声をかけてきた。僕は完璧なタイミングで、少し照れたような、でも自信に満ちた笑顔を返してみせる。完璧だ。まるで脚本通りに演じている俳優のように。

だが、その脚本は僕が書いたものではない。

トイレの鏡に映る自分を見て、背筋に冷たいものが走った。口角の上がり方、少し細められた目、自信ありげに輝く瞳。それは紛れもなく僕の顔のはずなのに、僕のものではない誰かの表情だった。橘カイト。クラスで一番の人気者で、太陽みたいに笑う彼の笑顔の、精巧なコピー。

僕たちの通う私立碧葉学園には、特殊な教育システムが試験導入されている。『メメント・ライブラリ』。それは、生徒たちが記録・登録した自身の「記憶(メメント)」を、データベースを介して他者と貸し借りできる画期的なシステムだ。テスト前に学年首席の「一夜漬けの記憶」を借りたり、憧れの先輩の「告白が成功した瞬間の記憶」を追体験したり。使い方は無限で、僕たちはその恩恵を享受していた。

内気で、人と話すのが死ぬほど苦手だった僕は、このシステムに救われた。いや、依存していた。毎朝、僕はライブラリにアクセスし、橘カイトのメメントをダウンロードする。「朝、クラスメイトと自然に挨拶を交わす記憶」「授業中に気の利いた発言をする記憶」「休み時間に皆を笑わせる記憶」。彼の記憶をインストールすることで、僕は『桜井ユウキ』という不器用なアバターを捨て、『社交的なユウキ』という仮面を被るのだ。

カイト本人は、自分の記憶が誰かに使われることを気にも留めていないようだった。彼はいつも誰かの輪の中心にいて、その存在自体が光を放っていた。僕が彼の記憶を借りていることなど、知る由もないだろう。憧れと、ほんの少しの嫉妬。そして、彼の記憶を盗むように使う自分への、深い罪悪感。そんな澱んだ感情を抱えながら、僕は今日も彼の笑顔を借りて、教室というステージに立っていた。借り物の自信を鎧のようにまといながら、その内側で、本当の自分がどんどん痩せ細っていくのを感じていた。

第二章 残響するフラグメント

システムの利用規約には、小さな文字でこう書かれていた。『メメントの貸借後、ごく微細な記憶の断片(フラグメント)が、利用者の潜在意識に残留する可能性があります』。当初、僕はそれを大して気にしていなかった。だが、その残響は、じわじわと僕の日常を侵食し始めていた。

ある日の昼休み、無意識に鼻歌を歌っている自分に気づいた。それはカイトがよく口ずさんでいる、僕が聴いたこともないマイナーなインディーズバンドの曲だった。またある時は、友人と話している最中に「マジそれな」という、カイト特有の口癖が飛び出した。僕の言葉じゃない。僕の趣味じゃない。僕じゃない。そう思うたびに、心臓が冷たく握りつぶされるような感覚に襲われた。

僕という人間の輪郭が、カイトの記憶の断片に溶けて、曖昧になっていく。その恐怖から逃れるように、僕はますますカイト本人を観察するようになった。彼の言葉遣い、仕草、笑い方。その全てをインプットし、より完璧なコピーになろうとすることで、逆説的に自分を保とうとしていたのかもしれない。

観察を続けるうち、僕は気づいた。彼の完璧な明るさには、時折、奇妙な断絶がある。皆が爆笑している輪の中心で、一瞬だけ、彼の瞳から光が消えることがあるのだ。それはまるで、深い海の底を覗き込むような、底知れない虚無の色をしていた。すぐにいつもの太陽のような笑顔に戻るから、気づく者は誰もいない。だが、彼の記憶を追体験している僕には、その僅かな揺らぎが、ノイズのように感じ取れた。

彼もまた、何かを演じているのだろうか?

その疑問は、僕をメメント・ライブラリの更なる深淵へと誘った。カイトの公開メメントリストをスクロールしていく。そこには『文化祭でヒーローになった日』『体育祭のリレーでアンカーを飾った記憶』など、輝かしい記録が並んでいた。だが、そのリストの最下層に、一つだけ異質なファイルが存在した。

タイトルは『あの日の夕焼け』。

そのファイルだけが、システム上最も強固なプロテクトでロックされ、「閲覧禁止」の赤い警告マークが灯っていた。僕の胸が、好奇心と得体の知れない予感で高鳴った。彼が隠しているものは何だ? あの完璧な笑顔の裏にある、本当の顔は何なのだ? その鍵が、このファイルにあると直感した。僕はこの時まだ、その扉を開けることが、僕自身の心を根底から揺るがすことになるなど、知る由もなかった。

第三章 あの日の夕焼け

禁断の果実ほど、甘美な香りを放つものはない。僕は『あの日の夕焼け』というタイトルから、どうしても目を離せなかった。そして、運命のいたずらか、チャンスはあまりにもあっけなく訪れた。週に一度のシステムメンテナンス。ほんの数分間だけ、全てのセキュリティレベルが一時的に低下する。僕は、誰にも見つからないよう、放課後のライブラリの片隅にある端末に、震える手で自分の生徒証をかざした。

警告を無視し、ファイルにアクセスする。網膜に直接投影されるインターフェースが明滅し、ダウンロードが始まった。次の瞬間、僕の世界は音を立てて崩壊した。

――視界いっぱいに広がる、血のような赤色の夕焼け。耳をつんざく金属の軋む音。ガラスの砕ける甲高い悲鳴。遅れてやってくる衝撃と、浮遊感。そして、僕――いや、幼いカイトの視界に映ったのは、ぐしゃり、と潰れた車のフロント部分と、そこから伸びる二つの動かない腕だった。

「お父さん…? お母さん…?」

幼いカイトの、か細い声が鼓膜を震わせる。返事はない。ただ、燃えるような夕焼けが、静かに世界を包んでいる。理解が追いつかない。だが、じわじわと染み出してくる鉄の匂いと、永遠に続くかのような静寂が、幼い心に絶望という名の杭を打ち込んでいく。涙は出なかった。あまりの現実に、感情が麻痺していた。ただ、夕焼けの赤だけが、目に焼き付いて離れない。

強烈な記憶の奔流に、僕の意識は呑み込まれた。悲しみ、絶望、喪失感、孤独。カイトがたった一人で抱え込んできた、あまりにも重い感情の濁流が、僕の心になだれ込んでくる。それはもう、微細なフラグメントなどという生易しいものではなかった。巨大な記憶の塊が、僕自身の記憶を押し潰し、上書きしていく。

気がつくと、僕は床にうずくまっていた。荒い呼吸を繰り返し、全身から汗が噴き出している。ライブラリの窓の外は、すでに夕闇に染まり始めていた。あの記憶と同じ、赤色だ。それを見ただけで、胃の底から何かがせり上がってくるような吐き気に襲われた。

同時に、全てのパズルのピースがはまった。カイトがなぜ、いつも無理をするように明るく振る舞うのか。なぜ、彼の瞳に時折、虚無の色がよぎるのか。そして、なぜ彼がライブラリで、他人の『楽しかった誕生日』や『家族との温かい食卓』といった、ありふれた幸せな記憶ばかりを借りていたのか。

彼は、自分の内側にぽっかりと空いた巨大な空洞を、他人の幸せな記憶の断片で必死に埋めようとしていたのだ。借り物の笑顔で悲しみを塗り固め、偽りの光で孤独の闇を照らしていた。僕が彼に憧れて彼の記憶を借りていたように、彼もまた、僕たちが当たり前に持っている温かい記憶に、焦がれていたのだ。

第四章 二人の輪郭

翌日、僕はカイトの顔をまともに見ることができなかった。教室で彼が笑うたび、僕の脳裏にはあの事故の光景がフラッシュバックする。彼の笑顔が、痛々しい仮面のように見えた。彼が抱える途方もない痛みの欠片を、僕もまた抱えてしまったのだ。

放課後、僕は逃げるように校舎の屋上へ向かった。冷たい風に当たれば、少しは頭が冷えるかもしれない。フェンスの向こうに広がる街並みをぼんやりと眺めていると、不意に背後でドアの開く音がした。振り返ると、そこにカイトが立っていた。いつもの笑顔はなく、どこか遠くを見つめるような、静かな表情をしていた。

沈黙が痛いほど重くのしかかる。何か言わなければ。でも、何と言えばいい? 借り物の言葉は、もう何の役にも立たなかった。僕は、自分の奥底から、震える声と言葉を絞り出した。

「橘くん……夕焼けは、好き?」

その一言で、十分だった。カイトの肩が、びくりと震えた。彼の瞳が驚きに見開かれ、やがて全てを理解したという諦観の色に変わった。彼の顔から、すうっと表情が抜け落ちていく。完璧な笑顔も、明るいオーラも消え去り、そこにはただ傷ついた一人の少年が立っていた。

「…見たんだな」

かすれた声だった。僕は、こくりと頷くことしかできない。

カイトはゆっくりと僕の隣に歩み寄り、フェンスに寄りかかった。「あの日から、俺の世界は色を失くしたんだ」と、彼はぽつりぽつりと語り始めた。「笑い方が分からなくなった。楽しいって気持ちが、どんなだったか思い出せなくなった。だから、借りるしかなかった。他人のキラキラした記憶を自分に上書きすれば、いつか本当に笑えるんじゃないかって…」

彼の告白を聞きながら、僕は自分の愚かさを恥じた。僕は、彼の上辺だけの輝きに憧れ、それを盗もうとしていた。だが、彼が本当に欲しかったのは、僕が捨てようとしていた、ありふれた日常の温かさだったのだ。

「僕も、同じだよ」僕は言った。「自分に自信がなくて、本当の自分じゃ誰にも相手にされないと思ってた。だから君の記憶を借りて、人気者のフリをしてた。君みたいになりたかったんだ」

初めて、僕たちは仮面を脱ぎ捨てて向き合った。僕の中に流れ込んできた彼の悲しみは、もはや単なるデータではなかった。友人の痛みとして、僕の心に確かに刻まれていた。それは借り物の共感ではなく、僕自身の感情だった。夕暮れの光が、僕たち二人の不器用な輪郭を、静かに照らし出していた。

第五章 これから紡ぐ物語

あの日を境に、僕たちの間には静かで、確かな絆が生まれた。僕はもう、カイトの記憶を借りることはなかった。カイトも、ライブラリで幸せな記憶を漁る頻度が少しずつ減っていった。

もちろん、僕が急に社交的になったわけではない。相変わらず会話はぎこちなく、教室では隅の方にいる方が落ち着いた。でも、以前のような息が詰まるほどの孤独感は、もうなかった。僕には、痛みを分かち合った友人がいる。その事実が、見えない錨のように僕の心を支えてくれていた。

ある日のことだった。僕が廊下でうっかりノートの束を落としてしまった時、クラスメイトの女子が数冊拾い集めてくれた。「はい」と差し出されたノートを受け取りながら、僕は口を開いた。

「あ、ありがとう」

それは、練習もせず、誰の記憶にも頼らずに発した、僕自身の言葉だった。声は少し上ずり、顔が熱くなるのを感じた。すると、僕の頬が自然に、きゅっと持ち上がった。鏡で確認しなくても分かる。それはカイトの完璧な笑顔じゃない。ぎこちなくて、照れくさくて、不格好な、紛れもない僕自身の笑みだった。

僕の中には、今も『あの日の夕焼け』のフラグメントが深く刻み込まれている。時々、ふとした瞬間に燃えるような空の色を見ると、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。でも、それはもう、ただおぞましい借り物の記憶ではない。カイトという友人の一部であり、彼の痛みを理解する僕自身の一部になっていた。

もしかしたら、人は誰もが、他者との関わりの中で記憶の欠片を交換し合っているのかもしれない。誰かの言葉に傷つき、誰かの優しさに救われ、そうして無数のフラグメントを受け取りながら、自分だけの輪郭を少しずつ形作っていく。メメント・ライブラリは、その過程を極端な形で可視化しただけの装置だったのではないか。

僕は屋上で、カイトと並んで空を見上げていた。沈みゆく夕日とは反対の空に、白く細い月が昇り始めていた。

「なあ、桜井」カイトが不意に口を開いた。「今度、俺の知らないお前の記憶、教えてくれよ」

その言葉は、どんなメメントよりも鮮やかに、僕の心に響いた。僕は頷き、不器用な笑顔で答えた。

「うん。僕の物語を、話すよ」

これから紡がれていく、借り物ではない、僕だけの物語を。

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