第一章 忘却の箱庭
僕たちが通うこの全寮制の学園、私立常盤木(ときわぎ)学園には、一つの絶対的なルールがある。
卒業と同時に、在学した三年間の一切の記憶は、専門の医療技術によって完全に消去される。
友人との語らいも、胸を焦がした初恋も、文化祭の熱狂も、すべて。まるで初めから何もなかったかのように、真っ白な状態で社会へ送り出されるのだ。表向きは「過去に縛られず、新たな人生を平等にスタートさせるため」とされている。だが、本当の理由は誰も知らない。
だから僕は、誰とも深く関わらないように生きてきた。どうせ消えてしまう記憶のために、心を揺さぶられるのは馬鹿らしい。薄いガラスの壁を一枚隔てて世界を眺めるように、僕はクラスメイトたちの喧騒を、感情のない瞳で見ていた。思い出なんて作らない。それが僕なりの、この奇妙な箱庭で正気を保つための処世術だった。
そんなある日の放課後、僕は偶然、立ち入り禁止になっている旧視聴覚室に足を踏み入れた。埃っぽい空気の中に、忘れ去られた機材が墓標のように並んでいる。その棚の奥に、年代物の8ミリビデオカメラがひっそりと置かれているのを見つけた。学園では、個人の記録媒体の所有は厳しく禁じられている。卒業生の私物もすべて処分されるはずなのに、なぜこんなものが。
好奇心に駆られ、手に取ってファインダーを覗くと、バッテリーが奇跡的に残っていた。再生ボタンを押す。ノイズ混じりの画面に映し出されたのは、僕らのものとは違う、一つ前の世代の制服を着た見知らぬ女子生徒だった。夕陽が差し込む教室で、彼女はレンズの向こう側の誰かに、切なげに微笑みかけていた。
『……覚えてる? 私たちが初めて話した日のこと。もし、これを未来の誰かが見てくれたなら、伝えてほしい。私たちは、確かにここにいたって。お願い……忘れないで』
映像はそこで途切れた。
忘れないで、か。この学園で最も無意味で、最も残酷な願いだ。胸の奥が、ちりりと痛んだ。まるで自分の心の壁に、小さな亀裂が入ったような感覚だった。
その翌日、僕の灰色の日常を乱す存在が現れた。
「はじめまして! 今日からこのクラスに転入してきた、月島陽菜(つきしまひな)です!」
彼女は、太陽の匂いをさせたまま教壇に立ち、屈託なく笑った。長い黒髪を揺らし、好奇心に満ちた大きな瞳でクラス中を見渡す。その視線が、窓際で頬杖をついていた僕と絡み合った。陽菜は、一瞬驚いたように目を見開くと、次の瞬間、花が綻ぶように再び微笑んだ。その笑顔は、この学園のルールなどまるで知らないかのように、あまりにも眩しかった。
第二章 レンズ越しの共犯者
月島陽菜は、まるで嵐だった。彼女は忘却のルールを意に介さず、誰にでも気さくに話しかけ、あっという間にクラスの中心になった。そして、なぜか僕に執拗に絡んできた。
「ねえ、高槻(たかつき)くん。放課後、暇?」
「……別に」
「じゃあ、ちょっと付き合って!」
彼女は僕の返事を待たずに腕を掴むと、あの旧視聴覚室へとぐいぐい引っ張っていった。埃っぽい部屋に入るなり、陽菜は僕が隠しておいた8ミリカメラを指差した。
「やっぱりここにあった! 高槻くんが見つけたんでしょ?」
なぜ知っている、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。彼女の瞳は、すべてを見透かすようにキラキラと輝いていた。
「ねえ、これで私たちの思い出を撮ろうよ。消えちゃう前に、消えない形で、たくさん」
馬鹿げている。そう一蹴するはずだった。記録したところで、その記録を見た未来の自分は、そこに映る人物が誰なのかさえ分からないのだから。だが、「私たちの思い出」という言葉に、僕の心の壁がまた少し、音を立てて崩れた。
僕たちの奇妙な共犯関係は、その日から始まった。陽菜はどこからかフィルムを調達してきては、僕を様々な場所へ連れ出した。カメラを回すのは、いつも僕の役目だった。
レンズ越しに見る陽菜は、いつも輝いていた。中庭の噴水で虹を見つけてはしゃぐ姿。図書室の窓辺で、西陽を浴びながら本を読む横顔。文化祭の準備でペンキまみれになって笑う顔。ファインダーを覗く僕に、悪戯っぽくピースサインを送る仕草。
カシャ、カシャ、とフィルムが回る乾いた音だけが、僕たちの時間の証人だった。
「高槻くんは、どうしてそんなに悲しい顔をしてるの?」
ある夕暮れ時、撮影を終えて屋上に座り込んでいると、陽菜が隣に腰を下ろして言った。
「……悲しい顔なんてしてない」
「してるよ。いつも何かを諦めてる顔。思い出が消えるのが、そんなに怖いの?」
核心を突かれ、言葉に詰まる。怖い? そうかもしれない。大切だと思えば思うほど、失う時の痛みを想像してしまう。だから、初めから何も持たないようにしてきた。
「私は、怖くないよ」陽菜は空を見上げ、呟いた。「だって、消えちゃうからこそ、今この瞬間が宝物になるんじゃないかな。桜の花が、いつか散るから美しいみたいに」
その言葉は、僕がずっと目を背けてきた真実だった。僕は、忘れることを恐れるあまり、「今」を生きることから逃げていたのだ。レンズ越しの陽菜の笑顔は、僕が失っていたはずの感情を、少しずつ取り戻させてくれた。この時間が、陽菜との記憶が、消えてほしくない。初めて、心の底からそう願った。僕の心を満たしていくこの温かい感情に、名前をつけるのが少しだけ怖かった。
第三章 観察者の告白
卒業式をひと月後に控えた、冷たい雨の降る日だった。僕たちはいつものように旧視聴覚室にいた。現像されたフィルムを繋ぎ合わせ、短い映画のように編集する作業は、僕たちの密かな楽しみになっていた。スクリーンには、僕たちが駆け抜けた季節が、色鮮やかに映し出されている。
「……ねえ、悠人くん」
陽菜が初めて、僕を名前で呼んだ。その声は、雨音に負けそうなほどか細く震えていた。
「大事な話があるの」
僕は編集の手を止め、彼女に向き直った。陽菜は俯いたまま、きつく唇を噛んでいる。いつもの太陽のような笑顔は、そこにはなかった。
「私、本当は転校生じゃないの」
静かな告白だった。僕は意味が分からず、ただ彼女の次の言葉を待った。
「私は、この学園の記憶消去システムを開発した研究チームの責任者の娘。そして……卒業しても記憶が消えないように、特別な処置を施された『観察者』なの」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。観察者? 何を言っているんだ?
「あのビデオカメラに映ってた人、覚えてる?」陽菜は顔を上げ、涙の膜が張った瞳で僕をまっすぐに見つめた。「あれは、私の姉。去年の卒業生だった」
陽菜の姉は、この忘却のルールに最後まで抵抗していたという。記憶が消えることに絶望し、せめてもの抵抗として、あのビデオレターを残した。だが、その願いも虚しく、卒業した姉は陽菜のことさえ、綺麗さっぱり忘れてしまった。まるで、初めから他人だったかのように。
「姉は、幸せそうだった。何も覚えていないから、苦しみもない。システムは『成功』したのよ。でも、私は許せなかった。姉の三年間は、あんなに輝いていたのに、それが無に帰すなんて……」
彼女は、姉の無念を晴らしたかった。そして、このシステムが本当に人間を幸福にするのか、その答えを見つけるために、被験者、つまり僕に近づいたのだという。
「あなたが、あのカメラを見つけた時から、ずっと見てた。あなたが誰よりもこのルールに絶望しているように見えたから。あなたなら、何かを変えられるかもしれないって……。ごめんなさい。あなたを利用した……」
世界が、音を立てて崩れていく。陽菜との日々は、僕たちの思い出は、すべて仕組まれた実験だったというのか。あの屈託のない笑顔も、僕に向けられた言葉も、すべて。
裏切られた怒りと、深い悲しみが渦を巻く。だが、それ以上に、涙を流しながら真実を語る陽菜の姿が、僕の胸を締め付けた。彼女もまた、この残酷なルールに傷つき、たった一人で戦っていたのだ。
僕が愛おしいと感じた時間は、偽りなんかじゃなかった。レンズ越しに見た彼女の輝きは、本物だった。僕が感じたこの温もりも、本物だ。
「……君は、どうしたいんだ」
僕は、震える声で尋ねた。
「分からない……。でも、ただ諦めたくない。姉がここにいた証も、私たちがここにいる証も、無かったことになんて、させたくない」
その言葉が、僕の心に突き刺さった。そうだ。諦めるのはもう終わりだ。たとえ記憶が消えようとも、この想いまで消させてたまるか。僕は、陽菜の手を強く握りしめた。
第四章 残響するラブレター
卒業式当日。体育館の厳粛な空気の中、僕は卒業生代表として壇上に立った。渡された原稿用紙には、当たり障りのない感謝の言葉が並んでいる。僕はそれを一瞥すると、マイクの前で深く息を吸い、そして破り捨てた。ざわめく会場を背に、僕は自分の言葉で語り始めた。
「僕たちは、明日になれば、ここで過ごした三年間をすべて忘れます」
静まり返る体育館。僕は、客席に座る陽菜と視線を合わせた。彼女は、泣き出しそうな顔で、でも真っ直ぐに僕を見つめ返してくれた。
「それは、悲しいことかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。僕たちは、この忘却のルールがあるからこそ、誰よりも『今』を必死に生きました。明日には消えてしまうと知っているからこそ、目の前の友人の笑顔を、何気ない会話を、心に焼き付けようとしたはずです」
僕は、陽菜と過ごした日々のことを語った。名前は出さなかったが、僕の言葉は、たった一人の彼女に向けられていた。
「たとえ記憶という形では残らなくても、僕たちがここで誰かを大切に想い、共に笑い、泣いたという事実は、僕たちの魂に、確かに刻み込まれていると信じています。その経験が僕たちを形作り、これからの人生のどこかで、きっと僕たちを支えてくれるはずです」
最後に、僕は一つの提案をした。
「記憶を消される前に、たった一つだけ。この三年間で一番大切だった思い出を、未来の自分宛に手紙として書き残しませんか。それはルールを破る行為ではありません。僕たちがここに生きた、最後の証です」
僕のスピーチが終わると、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が体育館に響き渡った。
……数ヶ月後。僕は新しい街で、新しい生活を始めていた。もちろん、常盤木学園での記憶はない。僕にとって、高校時代はすっぽりと抜け落ちた空白の三年間だ。
ある日、机の引き出しの奥から、一通の古びた封筒を見つけた。差出人の名前はない。宛名は、確かに僕の名前だった。そっと開くと、中には一枚の便箋が入っていた。そこには、見慣れない、少し拙い僕自身の字で、こう書かれていた。
『夕焼けの教室で笑う君の顔を、忘れたくない』
誰のことだろう。全く思い出せない。なのに、その一文を読んだ瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられ、理由も分からない涙が頬を伝った。
記憶は、ない。けれど、この温かい痛みの正体を、僕はいつか思い出すことができるだろうか。いや、思い出せなくてもいい。この感情の残響こそが、僕があの箱庭で生きた、何よりの証なのだから。空を見上げると、あの日のような、優しい夕焼けが広がっていた。