忘却の買い手

忘却の買い手

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第一章 奇妙な依頼人

路地裏の古書店『アムネシア』の主、湊(みなと)には裏の顔がある。彼は人の記憶を買い取る『忘却の買い手』だ。店の奥、カビ臭い紙の匂いに満ちた応接室で、彼は依頼人の「忘れたい過去」に値段をつける。トラウマ、失敗、裏切り。湊は那些(あれら)の澱(おり)のような記憶を金で買い取り、依頼人に空白の安寧を与える。そして買い取った記憶は、彼自身の精神にアーカイブされ、時折、悪夢のように再生される。だから湊の心は、他人の後悔でできた分厚い沈黙の壁に覆われ、とうの昔に摩耗していた。

その日、応接室の古びたソファに座っていたのは、一人の老婆だった。品の良い藤色の着物を着こなし、背筋を伸ばした姿は、この薄暗い場所にはあまりに不釣り合いだった。千代(ちよ)、と彼女は名乗った。

「買い取っていただきたい記憶がございます」

その声は、秋の澄んだ空気のように凛としていた。湊はいつものように、感情を殺した声で問いかける。

「どのような記憶ですかな。事故の記憶ですか、それとも誰かを深く傷つけた記憶で?」

湊の経験上、依頼はだいたいその二つに大別される。だが、千代は静かに首を横に振った。彼女の深く刻まれた皺が、穏やかに揺れる。

「いいえ。とても、幸せな記憶なのです」

湊は眉をひそめた。幸せな記憶を売りたい、などという依頼は前代未聞だった。新手の詐欺か、あるいはただの耄碌(もうろく)か。

「……具体的に」

「夫と、初めて手をつないだ日の記憶です」

千代の言葉に、湊は思わず息を呑んだ。古い柱時計の振り子が刻む音だけが、室内に響く。夕暮れの公園、緊張した面持ちの若者、そして恥じらいながら差し出された、骨張った温かい手。千代は、その情景を懐かしむように、うっとりと目を細めて語った。それは誰がどう聞いても、人生の宝物のような、輝かしい一瞬の記憶だった。

「なぜ、そんなものを?」

湊の問いに、千代はただ微笑むだけだった。その微笑みは、まるで春の陽だまりのように暖かく、それでいて、どこか触れられないほどに哀しい影を落としていた。

「お願いです。この記憶が、私の中から消えてしまう前に。綺麗なまま、あなた様に預かっていただきたいのです」

彼女はテーブルの上に、分厚い封筒を置いた。湊がこれまで受け取った中でも、最高額の報酬だった。理解はできなかった。だが、これはビジネスだ。湊は自分の感情に蓋をすると、無機質な声で契約内容を告げ、老婆の震えるこめかみにそっと指を触れた。ひんやりとした指先が触れた瞬間、温かく、そして切ない光の奔流が、湊の意識の中へと流れ込んできた。

第二章 幸せな記憶の棘

湊の脳裏に、見知らぬ公園の風景が広がった。昭和の香り、樟(くすのき)の青い匂い、遠くで聞こえる子供たちのはしゃぎ声。ベンチに座る若い女は、紛れもなく千代だった。隣には、少し緊張した面持ちの、朴訥(ぼくとつ)そうな青年がいる。彼が、後の夫なのだろう。二人の間には、気まずい沈黙が流れていた。

やがて青年が意を決したように、ごくりと喉を鳴らし、おずおずと手を差し出す。千代の視界が揺れ、自分の指先がかすかに震えているのがわかった。触れるか、触れないかの一瞬の躊躇。そして、彼の無骨で大きな手が、彼女のそれをそっと包み込んだ。

その瞬間、世界が爆発したかのような衝撃が湊を襲った。

温かい。ただ、温かい。血が通い、命が宿った手のひらの熱。それだけのはずなのに、湊の胸は締め付けられるように痛んだ。これまで買い取ってきた、血腥(ちなまぐさ)い事故や、どす黒い裏切りの記憶とは全く質の違う痛みだった。それはまるで、長年凍てついていた心臓を、無理やり融かそうとする熱のような、甘美で残酷な痛みだった。

その日から、湊の日常は静かに狂い始めた。古書の整理をしていても、珈琲を淹れていても、ふとした瞬間に、あの公園の光景がフラッシュバックする。風にそよぐ柳の木々、彼の少し汗ばんだ手の感触、そして胸いっぱいに広がった、名前のつけようのない幸福感。その記憶を追体験するたびに、湊の胸には鋭い棘が突き刺さるような、甘く切ない痛みが走った。

「どういうことだ……」

他人の記憶は、所詮は他人事のはずだった。湊は、自分の感情と他人の記憶を切り離すことで、精神の平衡を保ってきた。しかし、千代のこの「幸せな記憶」だけは、まるで彼の心に根を張るかのように、じわじわと感情を侵食していく。この痛みは何だ? この胸を掻きむしりたくなるような感覚の正体は?

湊はいてもたってもいられなくなり、古書店を臨時休業にすると、依頼書にあった千代の住所を訪ねてみることにした。何かがおかしい。あの老婆は、何かを隠している。その正体を突き止めなければ、この奇妙な痛みに自分が壊されてしまうような気がした。手入れの行き届いた生垣のある、立派な家だった。しかし、呼び鈴を鳴らしても応答はない。近所の人に尋ねてみると、意外な言葉が返ってきた。

「ああ、千代さんなら、一月ほど前から息子さんと同居することになってね。最近、少し物忘れがひどくなってきたみたいで……」

その言葉に、湊の胸がざわついた。物忘れ。まさか。一つの仮説が、暗い霧のように彼の思考を覆い始めた。

第三章 忘れられた約束

湊はあらゆる手を使い、千代の息子である正一(しょういち)の連絡先を突き止めた。喫茶店で向かい合った正一は、疲れた顔で、しかし誠実に湊の問いに答えてくれた。

「母が、あなた様に? ……そうですか、やはり」

正一の話は、湊の予想を遥かに超えるものだった。

千代は、数年前からアルツハイマー病を患っていた。最初は些細な物忘れだったが、病状はゆっくりと、しかし確実に進行していた。そして数ヶ月前、彼女は自分の夫の名前を、時々思い出せなくなったのだという。数年前に亡くなった、生涯でただ一人愛した男性の名前を。

「母は、とても気丈な人です。でも、その時だけは子供のように泣きました。『あんなに大切な人の名前を忘れるなんて』『私の記憶は、これから全部、汚く消えていってしまうんだ』と……」

正一は、珈琲カップを握る手で、目頭を強く押さえた。

湊は、ようやく全てを理解した。千代が「忘れたい」と言ったのは、嘘だったのだ。

彼女は、病によって夫との大切な記憶が、不確かに、断片的に、そして最後には醜く歪められて消えてしまうことを、何よりも恐れていた。特に、二人の始まりであり、彼女の人生で最も輝いていた「初めて手をつないだ日」の記憶。その完璧な一瞬が、病という泥にまみれて失われることが、死ぬことよりも耐えられなかったのだ。

だから、彼女は湊の元を訪れた。

忘れるためではない。その記憶を、最も美しい、完璧な形のまま誰かに「保存」してもらうために。自分の身体と精神が朽ち果てても、あの日の輝きだけは、どこかで生き続けてほしかったのだ。

湊に記憶を売ったのは、忘却のためではなく、永遠を得るためだった。

「母は、よく言っていました。『記憶っていうのは、その人が生きてきた証そのものなのよ』と。だから、自分の証が消えてしまう前に、誰かに託したかったんでしょう。一番綺麗な形で……」

湊は言葉を失った。彼が感じていたあの鋭い痛み。それは記憶そのものの痛みではなかった。それは、失われゆく愛する人との絆を、必死に繋ぎ止めようとする千代の、悲痛なまでの愛と祈りの叫びだったのだ。湊が今までゴミのように扱ってきた「記憶」というものに、これほどまでの価値と重みがあったことを、彼は初めて知った。他人の痛みを引き受け、感情を麻痺させて生きてきた彼の分厚い心の壁に、千代の純粋な愛が、巨大な亀裂を入れた瞬間だった。

第四章 あなたの隣で

湊は、千代が入居している介護施設の前に立っていた。手には、一冊の古びたノートとペンがある。彼はもう『忘却の買い手』ではなかった。

静かな個室のベッドで、千代は窓の外をぼんやりと眺めていた。湊が入ってきても、彼女は彼が誰だか分からないようだった。その瞳には、かつての凛とした光はなく、ただ穏やかで、空虚な時間が漂っているだけだった。

「千代さん」

湊は静かに語りかけた。そして、彼女のベッドの脇に椅子を置き、そっとその皺だらけの手を取った。千代は驚くでもなく、されるがままになっている。その手は、記憶の中よりもずっと冷たく、小さく感じられた。

「物語を、お話しします。ある男女の、始まりの物語です」

湊は、目を閉じ、脳裏に焼き付いたあの日の光景を、一つ一つ、言葉に紡ぎ始めた。

「……公園のベンチに、二人は座っていました。男はとても緊張していて、なかなか言葉を切り出せません。女も、期待と不安で胸がいっぱいです。やがて、男がおずおずと手を差し出すと、女は恥ずかしそうに、その手を取りました……」

湊は、自分が買い取った記憶を、まるで見てきたかのように語った。樟の匂い、風の音、手のひらの温かさ、そして世界が輝きに満ちた、あの瞬間の胸の高鳴り。それはもう、湊だけが知る、千代の失われた宝物だった。

語り終えた時、湊は千代の顔を見た。彼女の表情は変わらない。何も理解していないのかもしれない。それでも、湊は構わなかった。この記憶が、この愛が、確かに存在したという証を、ここにいる彼女に届けたかった。

その時だった。

千代の空虚だった瞳から、一筋、涙が静かに流れ落ちた。

彼女は何も覚えていない。夫の名前も、あの日の出来事も。だが、彼女の魂の最も深い場所が、湊の語る愛の物語に、確かに共鳴したのだ。

湊の胸を締め付けていた棘のような痛みは、いつの間にか消えていた。その代わりに、温かい光が、じんわりと心全体に広がっていくのを感じた。他人の記憶を引き受けることは、呪いではなく、祝福にもなり得るのだ。

古書店『アムネシア』の奥の部屋で、湊はペンを走らせていた。彼はもう、記憶を買い取ってはいない。彼は、忘れ去られ、失われてゆく人々の記憶を、物語として書き留める『記憶の語り部』になっていた。

買い取った辛い記憶も、悲しい記憶も、そして千代から預かった輝くような愛の記憶も、全てが彼の紡ぐ物語の血肉となった。それは誰に読まれるでもない、ささやかな鎮魂の儀式だった。

だが、湊にとっては、誰かの人生が確かにそこに存在したという証を残す、何よりも尊い仕事だった。彼の心はもう摩耗してはいない。数多の記憶と共に生き、その重みと輝きを抱きしめながら、彼は静かに、次の物語を紡ぎ続ける。窓から差し込む光が、インクの滲んだ紙の上で、優しく揺れていた。

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