***第一章 追憶堂の古い扉***
アスファルトの海に浮かぶ孤島のような自室で、相田健太は息を殺して生きていた。28歳。IT企業のシステムエンジニアという肩書は、彼にとってノイズの多い現実から身を守るための無機質な壁に過ぎない。人と深く関わることを避け、感情の波風が立つ場所からは真っ先に逃げ出す。それが、この息苦しい世界で健太が編み出した処世術だった。
唯一の安らぎは、週末の夜に一人で観る古いモノクロ映画だ。ざらついた映像と、少しだけ誇張された俳優たちの台詞が、色褪せた夢のように心地よかった。現実の方が、よほど空虚で色がない。
そんな健太の日常に、小さな石が投げ込まれたのは、先月亡くなった祖父の遺品整理をしていた時だった。古い木箱の底から、一枚の黄ばんだチラシがひらりと舞い落ちたのだ。
『失くした思い出、再生します――追憶堂』
手書きのような温かいフォントで書かれたその文句の下には、古びた街並みの小さな地図が添えられている。馬鹿馬鹿しい、と健太は鼻で笑った。思い出の売買なんて、詐欺か、さもなければ悪趣味な商売だ。ゴミ箱に捨てようとした指が、ふと止まる。
――砂の城。
脳裏に、陽光にきらめく砂の粒子が蘇った。幼い頃、無口で気難しいと思っていた祖父が、たった一度だけ、海へ連れて行ってくれた日の記憶。二人で夢中になって作った、立派な砂の城。あの日の祖父は、いつになく優しく笑っていた。健太にとって、祖父との唯一無二の温かい思い出だった。
しかし、思い出そうとすればするほど、その輪郭は靄の中に溶けていく。城はどんな形だった? 祖父はどんな声で笑っていた? 肝心な部分が、まるで露光に失敗したフィルムのように白く飛んでしまっている。その喪失感が、健太の胸を鋭く抉った。祖父が死んで、あの思い出まで一緒に死んでしまったかのようだった。
「……くだらない」
呟きながらも、健太はチラシをポケットにねじ込んでいた。失ったものが何かを知りたい。ただそれだけの、自分でも説明のつかない衝動に背中を押され、彼は灰色の街へと足を踏み出した。
地図が示す場所は、再開発の波から取り残されたような古い商店街の、さらにその奥の袋小路にあった。軋む引き戸に手をかけると、カラン、と乾いた鈴の音が鳴る。店内は埃と古い木の匂いが混じり合った、時間の澱のような空気に満たされていた。壁一面の棚には、用途の分からない道具や書物がぎっしりと並び、静かな存在感を放っている。
「いらっしゃい」
奥の薄闇から現れたのは、銀縁眼鏡をかけた痩身の老人だった。店主だろうか。その皺深い目は、まるで全てを見透かすように健太を静かに見つめていた。
***第二章 不完全な砂の城***
健太はポケットからくしゃくしゃになったチラシを取り出し、カウンターに置いた。店主はそれには目をくれず、健太の顔をじっと見ている。まるで、彼がここに来ることを知っていたかのように。
「思い出を、再生したいんです」
声が少し震えた。シニカルな自分を演じる余裕もなかった。
「祖父との、思い出です。子供の頃に一緒に作った、砂の城の」
店主は黙って頷くと、店の奥から年代物の映写機のような機械を運んできた。真鍮のパーツは鈍く輝き、複雑に絡み合ったコードが、未知のエネルギーを秘めているように見える。
「思い出を映すには、その記憶が宿った『触媒』が必要になります。持ち主の強い想いが染みついた品……何か、心当たりは?」
健太は数日考えた末、祖父の遺品の中から、一つの小さな砂時計を見つけ出していた。書斎の机の引き出しの奥に、大切そうに仕舞われていたものだ。なぜこれを選んだのか、自分でも分からなかった。ただ、そのガラスの中を静かに落ちていく砂が、あの日の海辺を思い出させた。
おそるおそる砂時計を店主に手渡すと、老人はそれを機械の中央にある窪みへと丁寧にセットした。そして、静かにスイッチを入れる。ブーン、という低い駆動音と共に、機械のレンズから淡い光が放たれ、対面の白い壁にゆらりと映像を投影し始めた。
息を呑む健太の目の前に、懐かしい光景が広がった。真夏の太陽が照りつける、青い海。そして、麦わら帽子を被った小さな自分と、腰を屈めて砂を固める祖父の姿があった。そうだ、こんな日だった。潮の香りが鼻腔をくすぐる錯覚さえ覚える。映像の中の自分は、きゃっきゃと声を上げて笑い、祖父は皺くちゃの顔で優しく微笑んでいる。
忘れていた温かい感情が、乾いた心に染み渡っていく。だが、映像はどこか不完全だった。音はなく、動きはコマ送りのようにぎこちない。そして、完成したはずの砂の城の姿が、強い陽光に照らされたかのように白く霞んで、どうしても見えない。祖父の優しい声も、聞こえてこない。
「どうして……どうして、これだけなんですか。もっと、ちゃんと見たい。じいちゃんの声が聞きたいんです」
焦りが募る。これでは、夢を見ているのと変わらない。健太の懇願に、店主は静かに首を振った。
「思い出というのは、一人で作るものではありません。それは、あなたと、あなたのお祖父様の二人で紡いだ時間。その片方の想いがこの世から失われてしまっては、完全な再生は叶わないのです」
その言葉は、冷たい宣告のように響いた。祖父はもういない。ならば、この不完全な映像が、自分に残された全てだというのか。健太は唇を噛みしめた。蘇りかけた温もりは、あっという間に絶望へと変わり、彼の心を再び冷たく凍らせていった。
***第三章 日記が語る真実***
諦めきれないまま、健太は再び祖父の書斎にいた。まるで憑かれたように、遺品を一つ一つ手に取っていく。何か、何かないのか。不完全な映像の向こう側へ行くための手がかりが。
本棚の奥、健太が生まれるよりも前の年号が記された百科事典の間に、一冊の古びた大学ノートが挟まっていた。表紙には、祖父の几帳面な文字で『日記』とだけ書かれている。他人の日記を読むことに一瞬躊躇したが、健太は突き動かされるようにそのページをめくった。
そこには、健太が全く知らなかった祖父の姿があった。
『息子(健太の父)夫婦が、健太を連れてこなくなった。俺の頑固さが、あいつを傷つけたと分かっている。だが、今更どう謝ればいいのかも分からん。ただ、孫の顔が見たい』
ページをめくるごとに、健太の胸は締め付けられた。厳格で、自分たち家族に関心などないと思っていた祖父。その日記には、息子との確執への後悔と、会えない孫への愛情が、不器用な言葉でびっしりと綴られていた。
そして、健太の指があるページで止まった。
『久しぶりに健太に会えた。海へ行った。あの子は、太陽みたいに笑っていた。二人で作った砂の城は、我ながら傑作だった』
その数ページ後、健太は衝撃的な記述を見つける。
『最近、物忘れがひどい。医者は、始まりましたな、と静かに言った。脳が少しずつ、記憶を食べていく病気らしい。笑ってしまう。忘れたくないことばかりなのに、体は勝手に忘れていく』
祖父は、病に侵されていたのだ。記憶が、少しずつ失われていく病に。健太は、あの砂の城の思い出を必死に思い出そうとしていたが、祖父もまた、薄れゆく記憶の中で必死にあの日の光景を繋ぎ止めようとしていたのだ。
日記の最後の方のページに、あの『追憶堂』のチラシが、テープで丁寧に貼り付けられていた。そして、その横に、震える文字でこう書かれていた。
『この不思議な店なら、いつか記憶がなくなってしまっても、あの日の城をもう一度見られるだろうか。できるなら、大きくなったケン坊と一緒に、もう一度……』
健太の目から、熱いものがこぼれ落ちた。自分は、祖父に避けられているのだと思っていた。だが違った。祖父は、健太が思うよりもずっと深く、自分を愛してくれていた。そして、自分と同じように、失われゆく時間を嘆き、取り戻したいと願っていたのだ。
無気力だった健太の心に、激しい感情の奔流が押し寄せる。それは、後悔と、悲しみと、そして今まで感じたことのないほどの、温かい愛情だった。
***第四章 心に建つ永遠の城***
健太は、祖父の日記を胸に抱きしめ、夜の街を走った。目指す場所は一つしかない。『追憶堂』だ。店の引き戸を乱暴に開けると、驚いた顔の店主がそこにいた。
「お願いします。もう一度……もう一度だけ!」
健太は息を切らしながら、カウンターに砂時計と、祖父の日記を置いた。
「これが、もう一つの『触媒』です。じいちゃんの、想いです」
店主は何も言わず、ただ深く頷いた。彼は砂時計を機械にセットし、その横に、開かれた日記をそっと置いた。再び機械が駆動し、光が壁に放たれる。
今度の映像は、以前とは全く違っていた。
色は鮮やかに、動きは滑らかに、そして何より、音が聞こえる。波の音。カモメの鳴き声。そして――。
「じいちゃん、すごい! お城だ!」
幼い自分の、甲高い声。
「そうだろう。これは、ケン坊とじいちゃんの城だからな」
しゃがれた、優しい祖父の声。健太の鼓膜を、数十年の時を超えて震わせた。映像の中の二人は、完璧な砂の城を前にして笑い合っていた。その時、大きな波がざあっと押し寄せ、城は一瞬にして土台から攫われていった。
「あ……ああ……お城が……」
泣きじゃくる幼い健太。そうだ、こんなことがあった。だから、城の形を思い出せなかったのか。映像の中の祖父は、泣きじゃくる健太の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ、ケン坊。形はなくなっても、作った時間はなくならない。じいちゃんの心の中に、お前の心の中に、一番立派な城が建っている。誰にも壊されない、立派な城がな」
その言葉と同時に、健太は映像の中に信じられないものを見た。優しく語りかける祖父の頬を、一筋の涙が静かに伝っていたのだ。それは、いつか必ず来る別れを予感した、深い愛情と切なさが溶け合った、美しい涙だった。
映像が終わり、部屋が静寂に包まれても、健太はその場から動けなかった。彼の頬にもまた、祖父と同じように涙が伝っていた。それはもう、後悔や悲しみの涙ではなかった。心を満たす、温かい感謝の涙だった。失われたのは形ある城だけで、祖父からもらった時間と愛情は、何一つ失われていなかった。
数日後。健太の日常は、まだアスファルトの海に浮かんだままだった。しかし、彼の見る景色は、以前とはまるで違って見えた。朝の光は希望の色を帯び、無機質だったオフィスの同僚たちの声にも、温かみが感じられるようになった。
その週末、健太は一人で電車に乗り、あの海を訪れた。裸足になって砂浜に降り立ち、おぼつかない手つきで砂を固め始める。波が来ればすぐに消えてしまう、不格好で小さな城。
城が完成した時、彼は空を見上げた。どこまでも青い、祖父が見た空。
「じいちゃん、見えてるか。今度は、俺が作ったぜ」
その呟きは、潮風に溶けて消えた。だが、健太の心の中には、もう一つの城がはっきりと見えていた。祖父と共に建てた、どんな波にも攫われることのない、永遠の城が。彼は静かに微笑むと、未来へと続く砂浜を、確かな足取りで歩き始めた。
追憶の砂時計
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