***第一章 墨の香りと盲目の依頼人***
神田の古びた長屋の一角、笹部源之助の仕事場は、いつも墨の香りと静寂に満たされていた。彼は筆耕、すなわち写本を生業とする男だ。その筆先から生まれる文字は、まるで生きて呼吸しているかのように端正で、依頼は引きも切らなかった。しかし、源之助の心は、彼が扱う美しい経文や物語とは裏腹に、乾ききった古井戸のように静まり返っていた。かつては武家の次男として生まれ、剣の道を志したこともあった。だが、父が藩の政争に巻き込まれて家は取り潰しとなり、彼は刀を捨て、以来、世の理不尽から目を背けるように、ただ黙々と筆を動かす日々を送っていた。
その日、梅雨寒の雨がしとしとと降り続く昼下がり、彼の仕事場の戸を叩く者がいた。源之助が気怠く戸を開けると、そこに立っていたのは、年の頃十六、七ほどの娘だった。雨に濡れた黒髪が肌に張り付き、粗末な小袖を着てはいたが、その佇まいには気品が漂っていた。そして、源之助は何よりも彼女の目に引きつけられた。澄んでいるようで、どこにも焦点を結ばない、硝子玉のような瞳。彼女は盲目だった。
「こちらが、笹部源之助様のお仕事場でございましょうか」
鈴を転がすような、清らかな声だった。
「いかにも。何の用だ」
ぶっきらぼうな源之助の応えにも、娘は臆する様子を見せない。彼女は懐から、桐の箱に収められた一本の巻物を大切そうに取り出した。
「お願いがございます。この巻物を、読んでいただきたいのです」
源之助は訝しげに眉をひそめた。文盲の者が代読を頼みに来ることは珍しくない。だが、彼女が差し出した巻物を受け取り、するすると解いてみた彼は、思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、ただの白紙だった。上質な和紙には、墨の染み一つ、筆の跡一つない。
「娘さん、からかっているのか。これには何も書かれておらん」
源之助が突き放すように言うと、娘は悲しげに顔を伏せた。
「いいえ。亡き父が、そうおっしゃいました。『この巻物は、心で読めば、まことの文字が浮かび上がる』と。父は嘘をつく方ではございません」
その言葉は、あまりに純粋で、世間ずれした源之助の心には滑稽にさえ響いた。馬鹿馬鹿しい。そう吐き捨てて戸を閉めようとした彼の目に、娘がぎゅっと握りしめた小さな布包みが映った。
「手付けにございます。これだけしかございませんが…」
彼女が差し出した包みを解くと、中から現れた数枚の小判が、薄暗い部屋の中で鈍い光を放った。しがない筆耕には、破格の金額だった。金に目が眩んだわけではない。だが、この盲目の娘が、父の遺したという不可解な言葉を信じ、なけなしの金をはたいてまで託そうとする「何か」に、源之助の乾いた心が一瞬、ちくりと刺されたのだ。
「…わかった。預かろう」
彼はため息とともに巻物と金を受け取った。娘は、小夜と名乗った。その日から、源之助の退屈な日常は、白紙の巻物が放つ静かな謎に掻き乱され始めた。
***第二章 過去の影と繋がる糸***
源之助はあらゆる手を尽くした。巻物を陽光にかざし、火で炙り、薬草を煮詰めた汁に浸してもみた。しかし、和紙はただ湿ったり乾いたりするだけで、文字一つ浮かび上がらせることはなかった。
「まだ、読めませぬか…」
毎日、決まった時刻に訪れる小夜は、源之助の背後で正座し、静かに待った。その健気さが、源之助を苛立たせた。無駄なことだ、と何度言いかけて、その言葉を飲み込んだことか。
「お前の親父殿は、どんな人だったんだ」
ある日、痺れを切らした源之助が尋ねると、小夜は少し嬉しそうに語り始めた。彼女の父・秋月隼人(あきづきはやと)は、さる小藩の勘定方だったという。実直で、誰よりも藩のことを思う武士だった。しかし三年前に、公金横領という身に覚えのない罪を着せられ、潔白を証明できぬまま、責めを負って自刃したのだと。
「父は、この巻物に我が家の名誉を回復する真実が記されている、と申しておりました。いつか、心の清い読み手に出会えれば、必ず道は開けると…」
その話を聞いた時、源之助の脳裏に、忘れかけていた過去の光景が雷のように閃いた。公金横領、濡れ衣、自刃。それは、彼の父を失脚させた手口とあまりに酷似していた。源之助の父もまた、藩の不正を告発しようとして、大目付の黒田監物(くろだけんもつ)という男の策略にはまり、無念の死を遂げたのだ。
偶然か、それとも。
源之助の心に、初めて使命感のような熱いものが込み上げてきた。これはもはや、ただの筆耕の仕事ではない。もし小夜の父と自分の父が同じ罠に嵌められたのだとしたら、この白紙の巻物は、黒田監物の罪を暴くための最後の切り札なのかもしれない。
彼は自分の過去と向き合うように、必死で調査を始めた。古馴染みの情報屋を訪ね、藩の古い記録を漁った。そして、秋月隼人と彼の父が、確かに黒田監物の不正を追っていた事実を突き止めた。点と点が繋がり、一本の黒い糸が見えてくる。全ての元凶は黒田監物。この巻物は、その牙城を崩すための密書に違いない。
だが、なぜ白紙なのだ。一体、どんな仕掛けがあるというのか。謎は深まるばかりだったが、源之助の目には、かつて剣を握っていた頃の鋭い光が戻りつつあった。
***第三章 心で読む文***
数日が過ぎ、調査は行き詰まりを見せていた。源之助は苛立ち紛れに、改めて巻物を手にとった。幾度となく触れてきたはずの和紙の手触り。鼻先をかすめる、古紙と微かな白檀の香り。彼は目を閉じ、指先の感覚に全ての意識を集中させた。
その時だった。指が、巻物を巻きつける中心の芯棒に触れた瞬間、ほんのわずかな違和感を覚えた。普通の木製の芯棒とは、重さも、密度も、どこか違う。まるで、空洞になっているような…。
源之助は息を殺し、小刀の先で慎重に芯棒の端をこじ開けた。すると、ぽろり、と小さな木栓が外れ、中から固く丸められた、もう一枚の紙片が転がり出てきた。
これだ!源之助の心臓が激しく高鳴った。黒田の悪事を記した密書に違いない。彼は震える手でその薄い和紙を広げた。そこにびっしりと書き連ねられていたのは、紛れもなく秋月隼人の筆跡だった。
しかし、次の瞬間、源之助はそこに書かれた内容に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
『愛する娘、小夜へ』
それは告発状でも、証拠の記録でもなかった。一人の父親が、最愛の娘へ遺した、痛切な手紙だったのだ。
文面は、源之助の信じていた全てを根底から覆した。
公金横領は、事実だった。隼人は、藩の深刻な財政難を目の当たりにし、また、当時重い病を患っていた妻(小夜の母)の高価な薬代を捻出するため、一度だけ、公金に手を染めてしまった。その小さな罪を、黒田監物に見抜かれ、全ての不正の責任を押し付けられる形で、彼は破滅へと追い込まれたのだという。
手紙は、こう続いていた。
『父は、お前にだけは、誇り高い武士として記憶されたい。罪人の娘としてではなく、正義のために散った父を持つ、気高き娘として生きてほしい。だから、この白紙の巻物を遺す。お前が信じる父の姿こそが、お前にとっての「真実」なのだ。どうか、心で読んでおくれ。私の本当の願いを』
白紙の巻物は、隼人が娘の未来を守るために仕組んだ、壮大で、あまりにも優しい嘘だったのである。
さらに、手紙の最後には、もう一つの衝撃的な事実が記されていた。小夜は、生まれつき盲目だったのではなかった。父が目の前で自刃するという凄惨な光景を目の当たりにした衝撃で、心を閉ざし、それ以来、光を失ってしまったのだと。
源之助は、その場に崩れ落ちた。真実とは、これほどまでに残酷で、そして愛に満ちているものなのか。彼が追い求めてきた正義は、どこにもなかった。そこにあったのは、娘を想う父親の、どうしようもないほどの深い愛だけだった。
***第四章 光を紡ぐ筆***
冷たい板の間で、源之助はどれほどの時を過ごしただろうか。手の中にある手紙が、鉛のように重い。この真実を、どうやって小夜に伝えればいい。いや、伝えるべきではない。彼女の父が命を懸けて守ろうとした「嘘」を、自分が暴いてしまっていいはずがない。だが、偽りの物語で彼女を欺き続けることもまた、許されることではないだろう。
その時、いつものように戸口から小夜の声がした。
「源之助様…」
源之助は、弾かれたように顔を上げた。彼は手紙を素早く懐に隠し、深呼吸を一つして、小夜を座敷に招き入れた。
「小夜殿。巻物は、読み解けました」
彼の静かな声に、小夜の肩が小さく震えた。彼女は固唾を飲んで、源之助の言葉を待っている。源之助は、彼女の透き通るような瞳をまっすぐに見つめた。そして、決然と口を開いた。
彼は、手紙の内容を語りはしなかった。その代わり、彼自身の言葉で、彼が持ちうる全ての想像力で、新たな物語を紡ぎ始めたのだ。
「お父上、秋月隼人殿は、まことの武士でした。藩にはびこる大きな悪を、ただ一人で正そうとなされたのです。この巻物には、その巨悪の証が確かに記されておりました。しかし、その証はあまりに危険なため、今は公にすることはできません。ですが、忘れないでいただきたい。お父上は、己の命を懸けて、正義を貫いたのです。その誇りは、誰にも汚すことはできません。あなたの心の中に、永遠に」
それは、源之助がかつて捨てたはずの「物語の力」だった。文字を写すだけの筆が、今、人の心を救うための光を紡いでいた。
彼の言葉が、静かな部屋に響き渡る。やがて、小夜の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。それは絶望の涙ではなかった。父の無念が晴れたことへの、安堵と感謝の涙だった。
「…ありがとうございます、源之助様。…父の顔が…見える、ようです」
嗚咽とともに、小夜が呟いた。その瞬間、奇跡が起きた。彼女の焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりと潤み、微かな光を捉え始めたのだ。彼女は、おぼろげに霞む視界の中に、目の前に座る源之助の姿を、初めて捉えた。
「あ…」
源之助は、息を呑んだ。真実を隠した罪悪感と、彼女を救えたかもしれないという安堵が、彼の胸の中で渦を巻いていた。だが、彼は知ったのだ。世の中には、貫くべき正義だけでなく、守るべき優しい嘘もあるのだということを。
数日後、町奉行所に一通の密告状が届いた。それは、大目付・黒田監物が、公用の材木を私的に横流ししているという些細な不正を告発するものだった。黒田は失脚こそしなかったものの、厳重な咎めを受け、その権勢に影が差した。密告状の端正な文字を書いたのが誰なのか、知る者は誰もいない。
源之助の仕事場には、新しい筆と墨が置かれていた。窓から差し込む陽光が、まっさらな白紙の原稿用紙を柔らかく照らしている。彼はもはや、世を拗ねるだけの筆耕ではなかった。彼は、人の心に光を灯す物語を紡ぐ者として、静かに、しかし確かな一歩を踏み出したのだった。
白紙の願い
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